その日の夜、リショウはガクリョウと共に、サキが寝泊まりしている診療所の外で身を潜めていた。
 リショウ殿は、とガクリョウが問う。

「あの少女に、この郷を騒がせている何かがいる、と?」

 老人を噛み千切り、野良犬どもを食い散らかし、別当を襲った犬の化け物。それが、サキという少
女の中にいるかもしれない。それを、今夜確かめるのだ。そのためにリショウはこうやって身を潜め
ている。
 足元には、少しだけ眠そうなむにが丸まっている。三匹の小さな水守達は、全員怯えて長屋で待機
しているグエン達と一緒にいる。リショウに付き合ってくれる水守は、この巨大水守だけだ。
 リツセに言われた通り、久寿玉に線香を差し、そこから漂う香りを診療所の周りに振り撒いている。

「しかし、それならば、あの子供を拾ってこの郷に来るまでの間に、私が襲われていなくてはおかし
い。化け物は、明らかに無差別に人を襲っている。」
「…………無差別、な。」

 リショウはぽつりと呟く。
 サキから、餓えた犬の目の前に置かれた肉を空腹のあまり食べてしまったと聞いた後、リショウは
狗神について詳しい事を調べているグエンにその事を告げに言った。
 それを告げたからといって、サキが狗神に憑かれていると確定したわけでも、何かが新しい事が分
かったわけではなかったが、ただ、その時にグエンから言われたことがあった。

「狗神とは人を呪う魔術だ。」

 それは知っている。ただし、その呪いが発展したのは粟の国、都から程遠く離れた土地で、その地
には今のこの国を治める朝廷に敗れた者達が集っているらしいのだ、と。
 その地に住む全ての者が、そうというわけではないだろう。だが、敗残の者達が、身を潜めている
として、彼らのいる地で発展した呪いというのは、一体どういうものなのだろうか。
 そして何よりも、一体、誰を呪おうと言うのか。

「案外、無差別じゃなかったのかもしれないぞ。」
「なんですと?」
「瀬津郷が、というか本来の目的じゃなかったのかもしれないが、瀬津郷も含んでいたのかもしれな
い。」

 朝廷に与している郷として。
 瀬津郷は都からも近く、その中でも最も栄えている郷だ。恨みの対象に含まれたとしても、おかし
くない。
 むろん、これらはただの想像でしかないが。
 むにが、にゅ、と首を擡げた。微かな気配が、診療所の奥からしずしずと漂ってきたのだ。リショ
ウは押し黙り、ガクリョウも息を詰めた。
 線香の香りが、じわり、と揺れる。白い煙が風もないのに、はっきりと押しのけられていく。躊躇
いがちに、或いは忌々し気に、香りの前で動きが確かに緩やかに鈍くなっている。
 そして、ぬるりと扉を擦り抜けて、何かが出てきた。
 いや―――
 何か、ではない。白い線香の煙を纏って、それははっきりと姿形を成している。そしてそれは、こ
ちらが想定していた、スイトが告げたものと、一致していた。
 犬だ。
 人の背丈ほどもある、巨大な犬だ。半開きの口からは舌がだらりと垂れ下がり、更にそこから、ぽ
たぽたと涎が滴っている。荒い息は、生臭い。
 嗅ぎ慣れない匂いに狼狽えているのか、時折その場でくるくると回りながら、外へ外へと向かって
いく。

「………リショウ殿。」

 ガクリョウが囁いた。これで、どうするつもりなのか、と。サキの中にあの犬が憑いている事は分
かった。しかし、リショウにそれを祓う事はできない。というか祓う方法を知らない。リツセも動き
を封じられても祓う事は難しいと言っていた。
 足元にいるむには、線香の傍から離れようとしない。水守にもできる事はないらしい。下手にリシ
ョウが騒いで狗神が暴れ回っても困る。
 どうやら、このまま動きの鈍った狗神の後姿を黙って見送るしかないようだ。
 白くけぶる巨大な犬が、だらりと尾を垂れ下げて歩く様子をリショウはガクリョウと共に横目で見
る。眼だけが爛々と輝き、巨大ではあるが、あばらの浮き上がったやせ細った犬だった。やはり、首
だけ上を地面から出して、餓えさせられた犬なのだろうか。
 カタカタと骨を打ち鳴らすような足音を響かせて、犬の姿は宵闇に溶け込もうとしている。煙が犬
の身体から抜け落ちようとする、まさにその時、

「ぎゃいん!」

 甲高い、人の声で、犬の鳴き声が響いた。
 吐き出したのは、当然のことながら、狗神だ。
 ぎょっとしてリショウが狗神に駆け寄り見てみると、白羽の美しい矢がその首に突き刺さっていた。
何処から飛んできたのかは分からない。しかし、それは確かに実体のないはずの犬の首に刺さってい
る。苦悶の表情を浮かべる犬は、もがきながら人の声で犬の鳴き真似をしている。
 もがいているうちに、その身体から何かが抜け落ちていくのが見えた。首に矢を突き刺さった部分
が、ずるりと地面に倒れるが、それとは別の何かが立ったままもがいている。
 地面に転がっているのは、犬の死体だ。やせ細って骨だけの犬。
 では、地面の上に未だに立っているのは?

「リショウ殿!」

 ガクリョウが叫んだ。
 咄嗟に飛び退り、リショウの鼻先を立っているままの何かが、駆け抜けて行く。いや、それは何か、
ではない。犬の顔の後ろに人の顔がのっぺりとへばりついていた。そして四つん這いだったが、その
身体は人のそれだ。
 捻じれあがった犬と人の混ざった形をしたそれを、咄嗟に避けたは良いが、それが失敗だったとリ
ショウは直後に悟る。
 その犬と人の狭間のものは、はっきりと、さっき出てきた診療所の中を目指している。返ろうとし
ているのだ。サキに。弓矢に貫かれて、既に狗神としての形も失った呪いの力そのものが。
 狗神は狗神だからサキの中にいる事ができたのか。狗神としての形のないそれがサキの中に戻って、
そうしたらサキはどうなるのか。
 振り返ってその影を追いかけてももう遅い。狗神だったものは、既に診療所の壁にその前脚を伸ば
している。間に合わない。いや、間に合ってもどうにかなるものなのか。
 様々な考えが一瞬のうちに巡った。
 だが、狗神のなれの果てよりも、人々の足掻きよりも、水守のしっぽのほうが動きが速かった。
 ふわり、と。
 むにの尾が、線香の煙を押し流し、ぐるりと渦を描いた。その渦の中に、人影が浮かび上がる。一
人ではない。三人だ。腰の折れたもの、やせ細ったもの、背の低いもの、三人とも姿は違うが、全員
が老人であると分かった。
 その姿を見た瞬間に、狗神だったものは、ぴくりと動きを止めた。死んだ飼い主の姿を見つけた犬
のように。
 そうして。
 しかし狗神のなれの果ては、飼い主には決して向けないであろう牙を、その三人の影に向かって涎
を撒き散らしながら突き立てた。飛びかかられ噛み千切られた三人は、一瞬のうちに霧散する。同時
に、狗神の人間の顔が、何か満足そうに嗤って。
 そして、その姿も煙に撒かれて消えてしまった。
 後には、白い水守が緩やかに煙を送っている姿だけが残った。




「お見事です、父上。」

 同刻、境内で若宮が弓を構えた姿のまま立ち竦んでいる父親の背中に声を掛けた。少女の身体から
這い出た狗神を、宮は見事に打ち取ったのだ。

「少女にも、ヒルコ大神の加護があったようで。」
「うむ………。」

 振り返らずに宮は頷く。そして金の刺繍の美しい紫の袴の裾を払い、弓を降ろす。息子と同じく、
何処か飄々とした空気を身に纏い、ゆっくりと振り返る。
 その顔に一礼し、若宮は禊の場へと父親を促した。