リショウが帰った後、リツセは表からふわりと漂う香の匂いに気が付いた。この辺り職人街では誰
も使う事をしない、高価な香の匂いだ。足元でもっちりと蠢いていたたまも、何やら不満そうに地面
を前脚で掻いている。
 香の匂いがする方向を辿れば、するりと音もなく店の扉が開いた。

「こんにちは、従姉妹殿。」

 影のように店に入り込んできた男は、川のせせらぎのように涼し気な声で、リツセを呼んだ。すっ
きりとした白装束と紫の袴を見て、リツセはゆるりと頭を下げる。

「これは、このようなところにようこそおいでくださいました、若宮。」

 リツセの言葉に、若宮と呼ばれた男は少し眼を細める。リツセを従姉妹と呼び、そしてリツセが若
宮と呼ぶこの男は、リツセが呼んだまさにその通りの男で、この瀬津郷の宮家の次代に他ならない。

「景気は如何かね?」
「そのような事をお話に来られたのではないでしょう?」
「おや、私が世間話をしてはいけないかな?」

 まあ話せるほど世間を知っているわけでもないのだけれど、と嘯く従兄弟をリツセはたまと同じよ
うな生温い眼差しで見やる。宮家の跡継ぎであり、それ相応の霊験を持っているこの従兄弟は、しか
し宮家特有の何処か常人には掴みどころのないところがあって、今日もこうしていつの間やら市井に
その姿を見せている。その、涼し気な眼差しからは何を考えているのかまるで読み取れない。
 たまに不審げにその足元をふんふんと嗅ぎ回られて、ようやく若宮はのらりくらりとした言葉の遣
り取りを止める事にしたらしい。

「従姉妹殿の水守は、実に聡いな。」

 足元から離れようとしないたまを見下ろし、若宮は感心したように呟く。水守とは聡いものだが、
ここまで聡いのもまた珍しい、と。
 再び話が霧散していきそうな様子の若宮に、リツセは肝心の用事を問う。よもや人殺しがうろつく
最中に、ふらりと供もつけずに散歩ということはないだろう。
 いや――
 リツセは若宮の足元にいるたまを見て、散歩ではないか、と思い直す。供の必要は、ないのだ。

「この郷に居座っている、得体の知れない物については、宮家も承知しているよ。」

 若宮は、唐突に口火を切った。

「近いうちに、なんらかの手段を講じるだろう。それまでは、今まで通り、煙に巻いていれば良い。」
「……何物であるか、お分かりですか?」
「あの、大陸人が言っていた事で、間違いはない。」

 狗神だ。

「あれをどうにかするくらいは大したことではないが、けれども子供の中にいるというのが厄介では
あるな。祓った時に、何処に返るのか。」

 ヒルコ様のご加護は請うが、しかし保証は出来ない。
 妙な儀式をしていた老人達の元に戻れば良いが、宿主は既に子供のほうになっているだろうから、
呪いは子供に返る可能性が高い。
 なんとかやってはみるが、と若宮は呟き、ああそれと、と思い出したように付け足す。

「別当殿から聞いたのだが……まだ他言無用ではあるのだが、従姉妹殿には話しておこう。どうやら、
都のほうできな臭い事があったようだ。一条家のご当主が、病死した……という事になっているらし
い。」

 ついでに放り込まれた言葉は、ついでにするにはあまりにも大きな内容ではあった。しかしリツセ
は瞬きを一つだけして、さようですか、と頷いた。それに若宮は頷き返し、それではな、と背を向け、
宙にその姿は溶け去った。
 掻き消えた姿の代わりに、ひらり、と白い何かがたまの鼻先に落ちる。たまは人の形をしたその紙
切れを、ぺし、と前脚で叩いた。




 リショウが診療所に戻ると、縁側で件の少女を挟んで座っているザイジュとガクリョウの姿を見つ
けた。大の大人二人が少女を挟んで座っているという奇妙な光景に、リショウは思わず近寄ってみる。
するとリショウの姿に気が付いたザイジュが素早く立ち上がり、駆け寄ってきた。

「何をしてるんだ、お前らは?」
「何って、リショウ殿のご命令通り、あの子供から話を聞き出しています。」

 と言ってもほとんどガクリョウ殿が聞き出しているんですが、とザイジュはがっくりと項垂れる。
リショウがガクリョウと少女の二人を見れば、少女はガクリョウの問いに、何やら一生懸命に答えて
いるようだった。
 ガクリョウは体格もがっしりしていて顔つきも男らしい。子供好きしそうなのはどちらかと言えば
ザイジュなのだが、

「まあ、助けたのはガクリョウだしな。」
「ええ、そうですね。あの子供もその辺りはしっかりと分かっているようです。」

 私はいらないなぁ、とぼやくザイジュを、まあまあと宥め、リショウは少女といかつい男の会話に
耳を傾ける。

「ふむ……それでは、サキはアジロとヨシと、友人だったのだな。」
「はい。その二人と、毎日一緒に遊んでました。」
「ヒサという子とは遊ばなかったのか?」
「ヒサは、ずっと家の中に閉じこもっていて、会うのはご飯の時くらいでした。ヒサはいつも綺麗な
着物を着ていて、それを汚したくなかったのかもしれません。」
「なるほど、ヒサは何処かの姫君だったのかもしれないな。」

 なんとも、堅苦しい会話だ。

「サキというのが、あの子の名前です。」

 ザイジュがそっと耳打ちする。リショウは頷いて、サキの顔を見る。
 此処に連れてこられた時よりも、ずっと血色も良くなっている。足の怪我もほとんど治っていると
いう。こうやって見ると、ごくごく普通の子供で、身なりさえきちんとすれば、何処にいてもただの
子供だと皆が思うだろう。
 よもや、その内々に、化け物がいるなど誰も思うまい。

「それと、グエン殿とヨドウ殿は、調べものを。」
「ああ。」

 少女は熱心にガクリョウに己の身の上を話し、ガクリョウもそれに対して質問を重ねている。

「しかし、よく一人であそこまでこれたものだ。食べるものなどなかっただろう。」

 しみじみと呟くガクリョウに、サキは少し俯き、

「何も食べなかったわけじゃないんです。」
「ほう……?いや、何、あのような状況だ。畑から何か盗んだとしても、それほど大きく咎められは
しまい。」

 サキの態度に、ガクリョウは安心させるように言う。ガクリョウは、サキが何処かの畑から何かを
盗み、腹を満たしたと思ったのだ。そしてそれは普通に行き着く考えなのだが、それは違う、とサキ
は首を横に振る。

「違います、私が食べたのは、」

 その後に続いた言葉に、リショウは息を呑み込んだ。

「犬の前に置かれていた、肉なんです。」