「狗神、ねぇ………。」

 リツセは湯呑に茶を注ぎながら、リショウの言葉を反復する。リショウはリツセに、商人から聞い
た言葉をそのまま伝えた。粟の郷で行われてきた、餓えた犬を使った呪い。

「確かに、その子供の言葉を信じるなら、狗神に近い気はするけれどね。」
「違うかもしれない、と?」

 差し出された湯呑を受け取りながら、久寿玉師に問いかけると、リツセは小さく笑った。

「子供の話だからね。確かに、餓えた犬を首から下まで埋めるというのは狗神を作る方法ではあるん
だけれど、それでもどうしてその子に狗神が憑いたのかが分からない。その子が言うには、狗神を作
ろうとしたのは老人達だろうし、老人達が憑かせたかったのは、もう一人の女の子のほうじゃないの
かな。」

 一人だけ、随分と大切にされていたようだし。
 そう呟くリツセの言葉に、リショウはなんとも薄ら寒いものを覚えた。いや、何らかの贄になる存
在を、生贄になるまでの間は大切にするというのは、古今東西良くある話だ。しかし、それでも、狗
神という毒を作るに至る過程と、貧しげな子供たちの中で一人煌びやかな様子の少女の対比が、なん
とも忌まわしさを引き立てているのだ。
 それとも、煌びやかな少女は、己が狗神に憑かれることを、知っていて納得していたのだろうか。
 リショウの目の奥で、あったこともない少女が、少女らしくない妖艶な笑みを浮かべる。噎せ返り
そうな、笑みを。

「…………。」
「まあ、聞く限りでは十中八九、狗神だろうし、その子が憑かれていると見て間違いはないんだけれ
ど。ただ、狗神とはまた面倒な……。」
「面倒なのか?」
「とても。」

 縁起物を扱う久寿玉師は、ここ最近で最も縁起が悪いものを見た、という表情をしている。その膝
の上に、瀬津郷では縁起が良いとされる水守が、もっちりと鎮座する。
 たまの頭を撫でながら、犬だからね、とリツセは言った。

「犬は、むしろ、祓われるよりも祓う側だから。」

 狐、狸、猫。これらを犬は追い回す。だから祓う側なのだ。けれども祓う側が祓われる側になった
とあっては、さて一体何で祓えば良いのか。

「ヒルコ大神の加護に縋っても駄目か。」
「ヒルコ大神の加護があるから、この程度で済んでいるんだろうね。狗神は本来もっと悪辣だ。人一
人と野良犬達が死んでいるけれど、その先からはまだ何も起こっていない。」

 人を裏切り傷つけ破滅させる。命を奪う事に躊躇いなどない。それが狗神なのだ、と、リツセは言
う。恨み辛みで造り上げたものなのだから、当然と言えば当然なのだが。
 しかしヒルコ大神の加護があっても、狗神は動きを止めていない。リツセの言う通り、最初の夜以
降、死人は出ていないが、それでも昨夜はスイトが襲われた。幸いにして何事もなかったが。

「それでも、もしもって事だってあるだろ。死人は一人出てる。原庵先生なんかは、一番あの子供の
近くにいるんだから、一番危ないんじゃないのか。」
「それなら、真っ先に何かあっても良さそうなものだけれど。」

 確かに原庵はぴんぴんしている。だが、それが大丈夫という話にはならない。
 むっつりとしたリショウの空気に、リツセはくすり、と笑った。そして立ち上がると一度店先に出
て、戻って来た時には久寿玉を一つ手にしていた。
 それは、リツセが看板代わりに店先に垂らしている久寿玉の中の一つだ。
 リツセはその久寿玉の一片をずらすと、小さな穴を作り、そこに線香を一本入れ、リショウに差し
出す。 
「犬は確かに祓いにくけれど、でも追い返せないわけじゃない。犬は――鼻が利くからね。」

 線香からは仄かな白い煙と、蜜柑の香りが漂っている。

「匂いで犬の動きを封じるのか?」
「封じる、とまではいかなくても、近づきたくないようにする、くらいは出来る。線香の煙でも、あ
る程度の制約は出来るけれど、犬なら匂いでより行き場を制限されるだろうね。……原庵先生が大丈
夫だと言ったのも、そのせいさ。」

 リショウが訳が分からない、という顔をしていると、リツセは再び苦笑を浮かべた。

「診療所には薬の匂いが立ち込めているだろう。犬にとっては、あまり好ましくはないだろうね。」

 だから薬の匂いが染みついている原庵には手を出せなかったし、夜な夜な診療所を抜け出すのも、
匂いから逃げるためかもしれない。
 その久寿玉は持って行って良い、とリツセは言う。

「ただ、匂いでは完全に封じられはしない。ヒルコ大神の加護で夜にしか動けないように締め付けら
れているけれど、そこから何か良いほうに向かうわけじゃない。」
「結局、根本的な解決にはならない、か。」
「その子がどうして狗神憑きになったのかが分かれば良いのかもしれないけれど。いや、分かっても
祓いきるのは難しいかもしれない。」
「子供については、もう一度ザイジュあたりから話を聞き出させてる………。それで、原因が分かっ
てもどうにもできないかもしれないのか。」

 ヒルコ大神に縋っても無理なのか、とリショウは思ったが、これまでもヒルコ大神は決して万能で
はなかった、と思い出す。彼の神は、確かに人を救うけれども、しかしその力は全てに及ぶわけでも
なく、また、郷の外に対しては冷淡なほどだ。
 郷の外からやって来た子供に憑いてきた狗神に対し、郷の者を守りながら冷ややかに見つめている
のだろうか。
 思って、ぎょっとした。

「まさかとは思うが、あの子供をどうにかしたら、狗神もどうにかなるんじゃないだろうな。」
「たぶん、それは、ないとは思う。」

 あの子供に狗神が憑いているのなら、何か手を出した時点で報復が訪れる。狗神とは己を傷つける
者には過敏に反応するのだ。
 けれども、あの子供に仇なすものが瀬津郷の住人で、ヒルコ大神の加護が狗神の報復よりも強けれ
ば。
 思いついたことに、リショウは腹の底が冷える気がした。所詮は人が考える神々の真意だ。当たっ
ているとは思わない。けれども、もしもリショウの考えたことが、そう遠い部分を穿ったわけではな
いとすれば。
 神々とは、随分と、冷酷だ。
 いや、随分と前から、さっきも思ったように、感じていたではないか。ヒルコ大神は郷の内外で随
分と差があると。外から来た者には冷淡だ、と。
 これは別に、ヒルコ大神に限った話ではないのかもしれない。自らが鎮められた土地以外には、神
というのは酷く冷めているのかもしれない。だから、郷の者が郷の外の者を殺し、それによって郷が
安定するのなら、それはそれで構わないのではないか。

「リショウ。いずれにせよ、あの子が狗神憑きであったとしてもなかったとしても、あの子をどうこ
うする事は検非違使であっても――宮家であってもできないよ。」

 此処は瀬津郷だからね。  
 リツセの言葉に、リショウははっとする。リツセを見れば、別段、特別な事を語っているわけでも
ない表情で続ける。

「瀬津郷は、流されてきたヒルコ大神の坐する土地だ。同じように流されてきたあの子を粗末に扱う
事は、誰であっても許されない。」

 不安かもしれないけれどしばらく様子を見る事だね、と久寿玉師は嘯いた。たまも、もっちりと動
きながら、同意の鳴き声を上げる。

「意外と、別なところで解決するかもしれないよ。」