「今年は、駄目かもしれん。」

 しわがれた声が、明かり一つない部屋にぼそぼそと広がる。じりじりという名前もなき虫の鳴き声 
が四方で響いている所為で、部屋の中には物音一つないのに、それでも声は聞き取りにくかった。

「二ヵ月も雨が降らん。」

 しわがれた声は疲れ切っていた。仄かに入り込む月明かりが照らした声の主は、陰影の所為もあっ
てか、顔に深い深い皺が刻み込まれている。その皺は、まるで声から絞り出される疲れに比例してい
るようだった。
 爪先に泥をこびり付かせた手を握り締め、床の上で震わせながら、男は――声と皺の深さの割に、
まだ老人と呼ばれる年齢ではないのかもしれない――枯れた声で続ける。

「田畑には水を引くことも出来ず、溜め池の水は減るばかりだ。これでは収穫はおろか、近々、飲み
水にさえ困る事になる。」

 ぼさぼさの髪からも泥の匂いがするのは、彼が田畑を耕す者であるからだけではなく、湯浴みに使
う水が惜しく、長く風呂に入っていないからだ。枯れた声も、水を飲んでいないからかもしれない。

「水を使う量を制限しましょう。」

 まだ、張りのある若い声が提案する。

「一つの家族で使う水の量を細かく分けて、制限していくのです。そうすれば、まだ持ちます。そう
こうしているうちに、きっと雨が降るかも。」

 しかし、疲れ果てた男は、若い提案に力なく首を横に振る。

「水の量を制限するのは良い。だが、それはいつまで続けられるもんだ?」
「だから、雨が降るまで……。」
「それはいつだ?」

 男は、何度も何度も、ぶらんぶらんと首を振る。

「良く考えてみろ。もうすぐ八月だ。雨が降る季節なんぞ通り越している。降ったとしても通り雨だ。」

 一時しのぎにはなるだろうが、またすぐに枯渇する。

「それに、田畑のほうはどうする。」

 稲を植えて二ヵ月以上が立つ。その時は水が張られていた田圃も、今では完全に干上がり、青葉の
先は実りの季節でもないのに黄色く変わろうとしている。

「裏に住む学者先生がいうには、まとまった雨は秋にならねば降らんそうだ。」
「あんな、流れ者の言う事など。」
「黙れ。」

 噛みつくような若者達の言葉を、男は一蹴する。

「儂らよりもあの先生は空の事を良く知っている。年の初めに、今年は日照りになりそうだと言って
おったがその通りになった。だから水を溜めておいたほうが良いと言っておったが。」

 それを馬鹿にしていたからこうなったのだ。
 男は、溜め息交じりに呟いた。裏にいる流れ者は、流れ者の身でありながらもその広い学を活かし、
村の中心的存在であるこの男の信を得ている。良い種の見分け方や天候の変化、果ては簡単な病であ
れば、それに良く効く薬草なども教えてくれる。
 隠れるように崩れた小屋に暮らすその流浪人を、最初こそ村人は邪険に扱ってきたが、そうした知
識が自分達に返ってくるようになると、少しずつだが彼を受け入れ始めた。
 しかし、若者の中には、村長や女達の信を得る流れ者の事を、快く思わぬ者も多い。本来なら自分
達が負うべき信任を、奪われたと思っているのだ。

「でも、その学者先生は、何の解決策も言ってくれねぇじゃねぇですか。」

 意地悪い声で、若者の一人が言う。好いた幼馴染がいるというこの若者は、幼馴染が学者先生の話
を聞くのを楽しみにしている事が、面白くないのだ。

「何にもできねぇのなら、結局俺らと同じだぁ。」

 小馬鹿にした声に、他の若者も同調する。
 田圃も耕さねぇ、水汲みもしねぇ、それでも食い物は分けてもらえる。むしろ俺達よりも無駄飯食
いだあ。
 わいわいと騒ぎ出す若者達の中から、

「っていうか、あの野郎が雨が降らないように呪いでもかけたんじゃねぇのかい?」

 そんな事を言い出す者が現れた。

「いつも怪しげな本ばかり読みくさって、なんか変な呪いでもやってるのかもしれねぇ。」
「呪いが効いているのはともかく、その可能性はあるかもしれませんよ。」

 最初に節水を訴えた若者も同調する。自分の案が退けられて、こちらも面白くなかったのだ。自分
も少しは学のある者として、張り合おうとしたのかもしれない。

「彼があの襤褸小屋の中で何をしているのか、誰も知らないんだから、呪いの一つや二つやってたっ
ておかしくない。」

 そうだそうだ、と騒ぎ始める若者達に、村長の男は大きく溜め息を吐いた。その男のすぐ横に座っ
ていた、こちらは髪も髭も真っ白で、眼にも白い濁りが現れ始めた本当の老人が、口を開いた。

「呪いじゃ、というのなら、その呪いを解いたがええ。」

 背も腰も曲がった老人だというのに、声は村長や若者よりも深みのある朗々としたものだった。

「あの流れ者を、呪いを解きに行かせればええ。雨が降らぬ呪いを、水乞いで解いたがええ。」

 二ヵ月も降らぬ雨を、水の豊かな郷の神に乞いに行くのだ。
 ヒルコ大神が坐す瀬津郷へ。