格子窓から落ちる光が、その白さを一層に増した時、出ろ、という声と共に牢の扉が開いた。夜が
明け、そして己の無罪が証明されたのか。男はひんやりとした床から起き上がり、言われるがままに
牢から出る。
 牢、というには随分と好待遇だった、と苦笑する。男の知ってる牢は、燃やし尽くす陽の下で水も
与えられぬままに罪人を放置しておくためのものだったから、粗末とはいえ食事が出て、水も出され
るこの郷の牢は、罪を償うには相応しくない場所に見えた。それとも、本当の罪人を入れておく牢は
もっと禍々しいのだろうか。
 白んだ空から差し込む淡い光と、はっきりと感じる水の匂いが、故郷ほどの禍々しさがない事を示
しているが。
 そこかしこに夜の冷えが残る通路を歩いていると、すっと目の前に背の高い影が立ち塞がった。

「あ、」

 それは自分を捕えた女だった。葦原国の女にしては随分と背が高い、とその時は思ったものだった
が、今、改めて見てみてもやはり背が高い。男である自分ほどではないが、しかしそれでも男が身を
寄せていた村で見たどの女よりも頭一つ抜きんでて高いだろう。
 それに目の前にいる女は、別にひょろりとやせ細っているわけでもない。決して太っているのでは
なく、しっかりとした体つきをしているのと背の高さも相まって、どこかしら威圧感のようなものを
感じずにはいられない。
 だから、というわけではないが、目の前にして少しばかり口ごもってしまった。
 けれども女のほうは、そんな男の態度を気にした様子はなかった。或いは己の背の高さが放つ威圧 
感については重々承知しているのか。

「牢に泊まらせたりしてすまなかったな。今、この郷では郷に出入りする者の取り締まりを強化して
いてな。お前が水守をつれている以上、見逃す事はできなかった。」

 硬い言葉で謝罪する女に、男は、いいえ、と首を振るしかできない。

「あの……水守と言うのは。」
「ああ、お前が昨日連れてきた白トカゲの事だ。瀬津郷に多く住んでおり、その姿からヒルコ大神の
化身とされている。だから、瀬津郷では水守を傷つけたり飼ったり、まして売り買いするなどもって
の他だ。」

 つまり、男は水守を売り買いする密売人と間違われたという事か。そういうと、女は頷く。

「先日、水守を売り買いしようとする異人がいてな。お前も異人である上に、水守を連れていた。郷
から出て行くのではなく入って来るため、売人ではないとは思ったのだが、念の為にな。何かあって
からでは遅い。」

 別段、そこまでの疑いがあったわけではないらしい。ならば、牢の中が男の知っているものほど不
愉快でなかったことも理解できる。

「それで、私は出て行ってもよいわけですね?」
「ああ。」

 むろんおかしな事をされては困るが、普通にあちこちを見て回り、正規の物を買うくらいは構わな
いと言う。

「それと、これは疑った詫び、というわけではないんだが。お前は水乞いに来たのだったな。」
「はい。」
「お前は異人な上に他の郷からやってきた。瀬津郷における――ヒルコ大神に対する乞いの仕方とい
うのは知っているのか?」

 知らない。
 これは瀬津郷にやって来るまでずっと気になっていたことだった。村長は水乞いのために瀬津郷に
行け、と言うだけで、何が水乞いの作法に当たるのかは何も言わなかった。それは知らなかったとい
うのもあるだろうし、神への祈りなど何処も変わらないだろうと高を括っていたのかもしれない。自
分達の村で神に祈るのと同じように、社に行って願えば良いのだと。

「もちろん、それでも構わないんだが。」

 女はゆっくりと郷の奥のほうを指さす。そこには、巨大な朱塗りの鳥居がぬっと突き出ている。そ
れの先に社がある事は、男も知っている。

「あちらに瀬津郷の宮様が住まい、そしてヒルコ大神を祭っている社がある。そちらに詣でるのも良
いだろう。それだけでもヒルコ大神の眼は十分にお前を捉える。けれどももう一つ、瀬津郷の作法に
従ってみてはどうだろう。」
「瀬津郷での作法、ですか?」
「より長く、ヒルコ大神の眼を向けるための方法とでも言うか。その方法を作る知り合いがいるのさ。
良ければ紹介するが。」

 もとより、当てなどなかったのだ。女の申し出に頷くよりほかなかった。






 女の名はナチハと言った。この国の治安維持を受け持つ検非違使であるという。ナチハは、疑って
牢に入れた事についての詫びとして、作法を売る人物の紹介と、その人物の家までの案内、そして家
に辿り着くまでの間に瀬津郷についての簡単な説明をしてくれた。
 説明は、瀬津郷の区画についてを除けば、ほとんどがヒルコ大神に関係することだったが。

「この郷はヒルコ大神が神代から守っていると言われているからね。ヒルコ大神に関する話はどうし
たって多い。郷に一時的に留まる商人や旅人ならともかく、住んでいくのならヒルコ大神については
大切な事だ。お前のいた郷では違ったのか?」

 どうだっただろうか、と思い返す。自分が身を寄せていたあの村は、日々生きて行くことに必死で
神に対してそれほどまでに敬虔であっただろうか。

「別に瀬津郷だって常にヒルコ大神の眼を感じているわけじゃない。ただ、その郷でのやり方にはヒ
ルコ大神に関するものが多いっていうだけだ。日常に溶け込んでいることが多くて、外の人間に言わ
れて気づく事もある。お前のいた郷にだって、その郷でしか通用しない決まりがあったと思うが。」

 もしかしたら、あったのかもしれない。
 ただ、その郷でもやはり異人であった自分には、村の者が強要してこなかっただけで。もしくは、
自分がそこに関わろうとしなかったのか。
 住んでいた小屋には、男の故郷の物語を聞こうと子供が来たり、相談事をしに村人が来ることはあ
ったが、そういえば自分から村人に近づいた事はなかったような気がする。
 そんな男の気配を察して、村人も自分達の日常を男に教えようとはしなかったのだろうか。
 自分達の業は理解できない、と。
 そして気が付いた。
 ああ、それは、男が故郷を捨てるに至った理由と同じだ。男が雨乞いをできぬと言った理由、それ
を理解できる者は、一族を除いて誰もいなかった。誰にも、王でさえ自分達の業を理解できない。
 そして、この郷では男は、自分を理解しなかった王達と同じ存在なのだ。
 あまりにもあんまりな事実に気が付いて、一瞬息が詰まった。ナチハがそんな自分の様子に気が付
いた素振りがないのが、幸いだった。

「ナチハ。」

 そこへ、新しい声が前から押し寄せる。
 ナチハが目線を上げれば、葦原国の人々が行き交う道のなか、一つ抜きんでて背の高い男がいた。
片手を上げてナチハに近づくところを見るとナチハの知り合いなのだろうが、しかしその身長から、
瀬津郷の――葦原国の者ではないように思える。
 そしてもう一つ、目を引いたのが、男の頭と両肩には白トカゲが一匹ずつ乗っていることだ。

「リショウ、仕事か。」

 リショウと呼ばれた男は頷きながら背中の薬箱を見せ、

「リツセの所に寄ってきたんだ。どうせお前も今から行くんだろ?んでもってそっちが。」
 
 どうやら薬売りであるらしい。リショウは言葉の途中で男を見て、その視線に気づいたナチハが頷
く。

「ああ。たまと一緒に瀬津郷にやってきた異人だ。」
「ふうん。」

 リショウはちらちらとこちらを見ると、

「ガラナ国の奴だろ、あんた。」

 再び息が詰まりかけた。リショウという男は、違わずにこちらの出身を当てて見せたのだ。
 隣にいるナチハは怪訝な顔をして、

「ガラナ国?」
「ああ、大陸の北西にある国で、その国の連中はこの男みたいに髪が赤いんだ。」

 尤も、とリショウはこちらから目を逸らさずに言う。

「何年か前に王家が途絶えて、その国から民が逃げ出したらしいが。」
「あ、あなたは………。」
「ん?ああ、俺も異人でね。何か月か前にこの郷に住み着くようになったんだよ。」

 ガラナ国よりももっと西からやってきたというリショウの言葉に、嘘はないだろう。仮に嘘であっ
ても、ガラナ国の王家が滅んだというのは事実だ。

「……ガラナ国がその後どうなったのか、ご存知ありませんか?」

 一番知りたくて、しかし聞きたくない事を問うてみる。あの渇き切った大地で、王が沈んだことは
分かっているが、その後、あの大地はどうなったのか。
 王が狂い死にした、干からびた大地は。

「俺も、行商をやってるガラナ人から聞いただけだがな。」

 あの国は、今もまだ不毛の渇いた地なのだという。