行方不明、もとい家出、というか遠出をしていたたまが帰ってきたというので、リショウはリツセ
の家を覗いてみた。
 リツセは家の前で打ち水をしており、その足元で白トカゲがちょろちょろと動き回っていた。遠出
する前は地面につきそうだった胴回りが、少しばかりすっきりしているような気がしなくもない。
 そんなリショウの評価など気づいているのかいないのか、たまはリツセが水を撒くたびに、その水
を追いかけて飛びかかるということを繰り返している。その行動に意味はあるのか。しかしそれ以上
の問題は、その光景を見ていたリショウの肩と頭に乗っていた三匹の小さい白トカゲ――しらたま、
まっちゃ、きんときが、一緒になって水を追いかけ始めた事だ。
 白トカゲ四匹が、わちゃわちゃと水を追いかけ、時には水に体当たりをし、時にはぱくっと飲み込
み、最終的には水を入れていた桶をひっくり返したところで、リツセは打ち水の手を止めた。
 桶の中に納まったたまに水をかけてやりながら、リツセはどうかしたのか、とリショウに問う。

「薬は少し前に補給したばかりだから、まだ必要ないけど。」
「いや、たまの様子を見に来ただけだ。」

 様子を見る必要などないほど、普段と変わりないことは重々分かったが。
 忙しいのか、とリショウが聞くと、リツセは薄っすらと笑う。

「夏祓の準備は随分前に終わっている――そうじゃないと間に合わないからね。今日は、ナチハのお
願いがあるんだ。」
「ナチハっていうのは、検非違使の女だったな。そいつからのお願い?」

 検非違使からのお願い、となるとどうしても物騒なほうに頭が働く。首を傾げながらも険しい表情
になっていたのだろうか、リツセが、別に危ない事ではないよ、と苦笑気味に言った。

「たまが外で、他所の郷の人と知り合ってきてね。今はこんな状況だからその人にあらぬ疑いがかか
ってしまったらしい。まあ、そのお詫びをしたい、とナチハが言ってきてね。」

 リツセもまだその男には会っていないので詳しい事は分からないが、どうやら水乞いをしに瀬津郷
にやってきたらしい。けれども水乞いの方法など、その人はしらないだろう、とナチハは言うのだそ
うだ。

「雨乞いみたいなもんじゃないのか。」
「そういうのでも良いのかもしれないけれど、瀬津郷に坐すのは、ヒルコ大神だから。」

 この季節、人々は水を乞うために瀬津郷にやってくる。それはこの郷から水が消えた事がないから
だ。あちこちから水が湧き出て、今の今まで枯れた事がないのだという。
 リショウ自身、この郷の光景を見て、こんな場所がこの世に存在するのかと思った事がある。リシ
ョウがやってきたのは大陸の遥か西、そこには乾いた風が吹きすさび、青々とした瀬の短い草など、
その年の風の気まぐれで砂に変わってしまうような土地だった。
 けれども、瀬津郷ではそういう事は、神代の時代よりないのだという。葦原国自体も大陸よりは水
は潤沢だが、瀬津郷はもはや別格だ。そしてその別格たる所以が、この地に古くから坐すヒルコ大神
によるものだという。
 
「雨乞いでも聞き届けてはくださるだろうが、けれどもやはり瀬津郷でよく成されている方法が一番
だろう。」
「………水乞いのための久寿玉とかあるのか。」
「あるよ。」

 久寿玉師は、しれ、と答えた。
 この時期は水乞いの為にやって来る他所の郷の者を狙い、水乞いの願をかけた久寿玉を大量に作っ
ておくのだという。 

「だからこの時期は、久寿玉師にとっては書き入れ時だ。」

 縁起物である以上、月々の行事の際には必ず一定数が売れるのだが、それは基本的に瀬津郷の内々
で売れる物。他所からの収入はこの時期が一番多い。

「だからと言って手抜きはしないけれどね。作り方はいつもと同じだ。」

 ヒルコ大神に一か月間お納めするという工程に、変わりはない。縁起物である以上、それだけは決
して外せぬらしい。

「だから、ナチハの連れてくる人にも、きちんとしたものをお出しするさ。」
「ふうん。まあ、俺には関わりのない話だけどな。それよりも、そっちが使う紙とかに変わりはない
のか。」

 薬の材料の値段が少しずつ上がり始めている話はこの前した。値上げは紙のほうにも広がったりし
ていないだろうか。

「今のところはないね。ただ、これから通行税がどうなるか分からないから、そうなると紙のほうも
値上がりするだろうね。」

 ただ、とリツセは首を傾げる。

「値上がり、と言ってもまだそこまでの値上がりではないね。」
「ああ、それよりもむしろ、原庵先生への給金が減ってるほうが問題だな。他の医者のところもそう
らしい。」

 瀬津郷では医者への給金は薬代を含めて役所が支払う。その代わりに診察代を無料にしているのだ。

「値上がり自体は微々たるものだが、役所からの金の支払いが滞っている、か。値上がりを抑えるた
めに、給金に使う金をそちらに回しているのか。」
「でも、薬の原料が不足してるなんて話、俺は聞かないぜ?問屋のほうを見てみたけど、材料自体は
かなりあって不足しているふうじゃなかった。」
「なるほど。」

 リツセは呟くと、屈んで、桶の中にいるたまの頭を撫でる。たまは少し頭を持ち上げて、きぃ、と
短く鳴いた。

「材料は不足しているわけではない、から、値上がりも大したことはないのかもしれない。これで材
料が不足したら、もっと値上がりするんじゃないかな。」

 役所が、市井に金を回す事を止めてしまったから。
 瀬津郷は税の高い郷だ。しかしその分、医師へ給金を行うことで診察代を無料にしたり、薬の原材
料の値段が変わらないように管理するために金を使っている。商人達の通行税も高いが、用心棒やら
雇う金を支払うなど様々な便宜を図っている。
 だが、それが崩れつつあるのでは、とリツセは言っているのだ。

「公家の事は私には分からないけれどね。ただ、そういう事が考えられる。何せ、別当殿も動いてい
るようだし。」 
「別当殿って、スイトのことか。」

 凡愚なようでいて知恵者であったあの別当なら、確かに何か知っているかもしれない。知っている
事を話しはしないだろうが。
 少しばかり、自分のほうでも調べたほうが良さそうだ。リショウはゆっくりと渇いていく打ち水を
見つめた。