ぺたり、と冷たい石牢の床に座り込み、昔、似たような事があった、と頭の中で呟く。
 ただしあの時は、激しく照り付ける日差しの下。このようなひんやりとした心地良さは何処にもな
く、焼け焦がす熱さと果てない渇きと飢えに苦しめられた。
 その時を思えば、湿った床と壁に囲まれた今は、なんの事はない。微かに香る潮の匂いと、さらさ
らと流れる水の音が、この地が失われた故国とは程遠い場所なのだと知らしめる。
 この土地も、雨の気配は遠い。しかし雨を乞う必要がないほどに水がそこかしこから湧き立ってい
るのだ。なるほど、皆が雨乞いに来るのも頷ける。並々と溢れる水を、多少なりとも分けて欲しいと
願うのは、人の性として間違いではない。
 しかし、どのようにして請えというのか。
 捕まる前に見た、雲一つない空を思い出す。瀬津郷は雨が多いというのではないだろう。おそらく、
瀬津郷より北にある山々に雨が降り注ぎ、その雨が地下を通って湧き出ているのだ。湧き水を、雨と
してあの村に降らせてくれと、誰に請えば良いのか。
 ヒルコじゃ。
 村長達はそう言っていた。
 この地に坐すヒルコ大神に請え、と。
 いや、もちろん、請う。
 しかし、男は神というものを信じていない。いや、信ずるだとかそういう問題ではないのだ。天を
地を読んできた男にとって、雲の流れ、水の向かう先は、神の領域ではない。人は手出しできぬが、
しかし神に頼るものでもなかった。
 そのような考えだったから、故国で行った雨乞いも、願い届けられなかったとでも言うのか。
 神に頼るものではない、と、神の力を信じていなかったから、あの雨乞いは失敗したとしうのか。
 だが、それならば。
 水という水が消え去り、ひび割れて白茶けた大地を思い出す。そこに横たわる白々とした何者かの
骨を。力尽きて砕け散った草木を。
 自分は信じていなくとも、あの絶望ばかりが満ち満ちた国に、神に心底祈り、願わなかった者がい
ないとでも言うのか。それとも、全ての民草が神を信じねば、神は救いを齎さぬと言うのか。その結
末が、渇き切り、何一つ生み出さぬ大地だったと。
 成就されなかった雨乞いの咎を問われ、男は灼熱の石牢に閉じ込められた。親類が助けに来なけれ
ば、あのまま焦げ付きて死んでいただろう。だが、男は王の命で閉じ込められていた。それに逆らっ
て男を助けに来た親類縁者がどうなったのか、考えたくなくとも分かってしまう。

 ――ハジュ、ハジュ、お前はお逃げ。

 悲痛に優しく、そして覚悟を決めた母の声が再び思い出される。

 ――王は我等が業を履き違えた。

 父の決然とした声が木霊する。何もかもを悟ったのであろうキナの一族は、意に添わぬ雨乞いをさ
 せられた一族の長男を逃がす代わりに、自分達は渇いた大地に砕け散る事を決めたのだ。

 ――我等は、王と共に灰になる。
 ――しかしお前は、雨乞いをしたお前は逃げねばならん。
 ――雨乞いをしたという事は、お前の姿はもはや神の眼に見つめられているのだ。
 ――神に見つめられた者を弑する事は、王と雖もしてはならぬ。

 キナの一族にとって、神に乞い願うというのはしてはならぬ事。それをしたという事は、神の前に
跪いて、贄になったと同義である。神の贄を人間の手で殺す事は出来ない。
 キナの一族は神に乞う事はないが、しかし神を信じていないわけではないのだ。ただ、神の力が人
々に示される事がないと知っているだけで。
 だって、そうだ。
 男は膝に顔を埋めた。
 父は、神に見つめられていると言った。だが、男は一度として、神の眼差しを感じた事などなかっ
た。

 きぃ。

 唐突に、ささやかな水の音を割って、何かの鳴き声がした。
 はっとして顔を上げると、石牢の天井にほど近い場所に開けられた、格子の嵌め込まれた窓から、
何やら丸いものが、幾つかはみ出している。
 しばらくそれを見上げているうちに、その丸いものに口と眼が付いている事がわかった。あの白ト
カゲだ。ただし、男についてきて、そして男が牢に押し込まれる理由となった白トカゲと同じものか
は分からない。そもそも窓から顔を見せているのは一匹ではない。何匹かが、円らな眼で男を見下ろ
している。
 彼らの眼差しは、興味深そうでもあり、楽しそうでもあった。いずれにせよ、男を見ていない眼と
いうのは一つとしてなかった。




「それで、たまに付き纏われていたという人は?」

 夏祓用の久寿玉を作る手を止めて、リツセはナチハを見上げて問うた。雨乞い用の久寿玉は既に半
月前に作られている。追加で依頼が来るかもしれないが、それよりも今は夏祓用の久寿玉の注文のほ
うが多い。なによりも夏祓のほうが重要な行事であるため、そちらを優先させている、というのもあ
る。
 仕事の手を止めたリツセは、膝の上に顎を乗せているたまの背中を撫で、ナチハに返答を促した。

「一旦、牢に入れているわ。水守をどうこうしようとした、というわけではないだろうけど、念の為
にね。」
「念を入れ過ぎている気もするが。」

 リツセの素っ気ないとさえいえる声に、ナチハは肩を竦めた。
 周囲には同僚もいないとあって、流石に気を張ったような言葉遣いはしない。少しばかり女性らし
い話し方になる。

「大陸の人間だからね。念には念を入れて、という事よ。葦原国の人間だったならすぐに放しただろ
うけれど、異人である以上、どうしても辛くなるわ。」

 以前、水守を捕えていた者達は異人であった。その裏には葦原国の人間もいたが、しかしそれでも
事が起きた場合、異人のほうがきつく見られる事は仕方がない。

「別当殿は、それでも良い、と?」
「別当殿は、今は郷を離れて都に行ってるわ。」

 都から派遣されてきた別当スイトは、ここ最近、都と瀬津郷を行き来している。
 前回の異人の事件のことならば既に報告も終わり、処遇も定まっているから、今更、都に行くこと
はない。ならば別件であろうが。

「詳しい事は、知らないけれどね。ただ、きな臭いことは確かでしょうね。あの別当殿が動いている
んだから。」

 まるで瀬津郷に溶け込まないように見えて、その実、内々に異人と宮家の接点を調べていたという
別当に対して、ナチハは未だ心蟠るところがある。頭の切れる御仁ではあるのだろうが、ナチハとは
気が合いそうにない。そもそも当然のように自分達も謀るような者に対して、快い気分を持てという
ほうが間違いである。

「リショウから聞いた事なんだけど。」

 リツセは、医者の原庵のところに居候している薬売りからの噂話を、ひっそりと話す。

「薬の材料が値上がりしているらしい。」
「へぇ。」

 材料となる何がしかが不足なのだろう、そう思ったのだが、ナチハの態度にリツセは微かに苦笑を
浮かべている。

「ナチハ、瀬津郷は宮家が納めているが、名目上は一条様の領地だ。」

 一条というのは公家の中で最も高い家格を持った家の事だ。都に近い西の地――針間郷、瀬津郷、
泉水郷、川裡郷、丹羽郷、丹呉郷、多嶋郷を領地として治めている。この七つの郷に対して、一条家
は独自の法を制定する事が出来る。

「一条様の領地の特徴といえば、税は高い。しかし医者や子供の手習い所などは無料であるという点
がある。」

 取り立てられた税から、医者や手習い所への給金が支払われたりしている。また、材料不足による
薬の値段が高騰が起こらないよう、薬を取り扱う店へは材料高騰分だけの金が、こちらも税から支払
われている。

「だから、薬の値上がりなんて、まず起こらない。けれども、それが起こっている。だから、別当殿
が動いているんだろう。」
「なるほどね。」

 思った以上にきな臭い話だ。といっても公家のほうで何かあったとしても、それこそ検非違使の一
人に過ぎないナチハには、どうする事も出来ない。

「まあ、きな臭さの度合いは分かったわ。でもそれならますます別当殿が瀬津郷の事に対して何か言
うことはできないわね。今まで通り、検問を厳しくするだけよ。」
「今回、無実なのに牢屋に入れられた人はどうするの?」
「ああ、そうだったわね。」

 話を聞けば、雨乞いの為にきたのだという異国の男。異国からわざわざ、と訝ったが、どうやらそ
うではなく、世話になっている村が水不足で困っているから、雨乞いに来たのだという。
 わざわざ異人に行かせるか、とナチハは思う。おそらく、態の良い厄介払いなのだろう、とも。
 その様は、なんとも哀れではあったから。

「雨乞いをしにきたらしいから、一つ、頼まれて欲しいのよ。」