役立たずめ、役立たずめ。
 主の声が、また聞こえる。顔を上げれば、真っ青な顔をした女が、己を見下ろしていた。慌てて平
伏すれば、その顔は見えなくなる。その事に、少しだけほっとした。
 昔は、本当にふっくらとした頬の愛らしい少女だった。少々内気すぎる事を除けば、聡明で間違い
なく主たる者に相応しい者だった。彼女の為に様々な書籍や絵画を探し、それを見ては喜ぶ顔が、ど
うしようもなく愛おしかった。
 けれども、今、彼女の顔は酷く歪み、薔薇色だった頬も血の気が失せて蒼白だ。

『雨が降らぬ事が分かっても、それで雨を降らせる事ができぬのなら、なんの意味もないではないか。』

 少女は、顔を両手で覆い、嘆く。

『キナの一族は、占いに長けていると聞いている。それによって戦は常に勝ち続けていたと。ならば、
その力を持って雨を降らせてみよ。』
「それは―――。」

 無理であると何度も言ってございましょう。
 男は、平伏していた身を起こし、少女を見上げた。顔を手で覆っている故に、その表情は分からな
かった。けれども細い肩が震えている事が、少女の中に渦巻く感情が激しいものであると示している。
 赤毛のキナの一族。
 占いを生業としてきた一族だが、実際は天の運行や動物の動きから未来を予見する者達だ。先を見
通せても、それを変える事はできない。戦で勝ち続けてきたのは、天候を先に知る事によって、戦を
有利できる作戦を練ってきたからだ。
 だから、少女の一族は頂点に立ち、人々を支配してきた。

『お前の言う通りにしてきた。今年の夏は旱魃だと言うから、溜め池を作り、水を溜め、備えてきた。
だが、この状況を見よ。』

 はっと膝をついた床を見れば、それはひび割れた地面だった。さらさらと僅かな砂が表面を流れて
行き、枯れ切った草木に絡まっていく。

『溜め池の水は尽き、川の流れも絶えた。お前の言った対策など、大火に雫を落とすようなものでし
かない。人は渇き、家畜は次々と倒れて、作物は育たぬ。』

 少女が髪を振り乱す。大地に点在する干からびた何か。それは少女の言った家畜だろうか。それと
も誰か、人だろうか。
 顔を覆った少女の手の隙間からは、何も零れるものはない。涙一つ零れるだけの水は、もはや主た
る彼女の中にも残っていないのだ。

『民は皆が皆、我を責める。だが、我に何ができたのか。我はお前の意見は悉く取り入れた。旱魃の
備えもした。だが、水はもう足りぬ。』

 足りぬ、足りぬ、足りぬ。
 少女の声が震えるが、涙は出ない。

『一体、いつになったら、雨は降るのだ。もう、この国のどこを探しても、水など残っておらぬ。』

 民は別の国に逃げ出すか、それが出来ぬ者は干からびて朽ちるだけ。一部の者達は、生きている者
を殺してその血を啜っているという。

「お待ちください。どうか、どうか。あと、一カ月もすれば――。」

 雨雲が満ちるだろう。
 だが、それまでこの国が持つわけがない。今、既に水がないというのに、一カ月など待てるわけも
ない。
 そうだとも、知っている。
 この国は、雨が降るのも待てなかった。

『待てぬ。』

 少女が言う。そうだ、待てない。

『雨乞いをせよ。』

 赤毛のキナの一族の名に懸けて、占い師の一族として、雨乞いをせよ。
 少女が顔から手を払い、命じる。手の下から現れた顔は、真っ青で、ただただ眼だけが異様にぎら
ついていた。口はあらん限りに裂けて笑みを浮かべ、そうせよ、と命じる。正に、鬼気迫る顔だった。
 そんなそんな、できませぬ。
 何度もそう言ったが少女は聞き入れない。乾いた大地に男を置き去りにして、少女はそのまま塵に
なった。





 飛び起きた時は、寝汗で全身がぐっしょりと濡れていた。
 じんわりと蒸し暑いだけが原因ではないだろう。額を伝う汗は、とにかく冷たかった。そして思う、
あの時は――夢の中のをあの出来事が起きた時は、汗などかくだけの水は、身体の中に残されていな
かったのに、と。
 久しぶりの、故郷の夢だった。
 男は、額に落ちかかった赤毛を掻き揚げながら、己が横たわっているのは故郷から遠く離れた、湿
った大地であると確認する。まさぐった地面は、湿り気を孕んでいる。このまま夜を明かせば、きっ
と朝には身体中に露が溜まっている事だろう。
 野宿をしても身体が乾き切る事はない。この地はそういう土地だ。枯れ果てた故郷とは違う。
 いや、故郷も決して枯れた土地ではなかった。渇き切ってしまったのは、国の最期の半年ほどの間
だけだった。半年もの間、雨が降らず、水という水が枯れてしまったのだ。
 原因は、分からない。
 そもそも、天の巡りに対して原因を探るなんてことが不可能なのだ。それが不可能なのに、あの方
は雨乞いをして雨を降らせよと仰った。原因が分かっているのならまだしも、分からぬのにただ祈る
のは、全くの無意味だ。何よりも神への祈りは、それが成就しなかった時の糾弾が恐ろしい。
 事実、だから、主は見捨てられたのだ。
 雨は、降らなかった。
 もす、と胸の上に何かが圧し掛かった。はっとして視れば、白い丸みを帯びた物体が当然のように
そこに鎮座し、こちらを見下ろしていた。
 白トカゲ――トカゲというには毛があるのて実際はトカゲではないのかもしれない――は、ふん、
と鼻を鳴らすと、男の胸の上から飛び降り、もちもちと歩いて男の荷物に近づいていく。そして鼻先
を荷物に押し付けて、ふんふんと匂いを嗅ぎ始めた。挙句には手と口を使い、荷物の中身を取り出そ
うとし始めたので、慌てて身を起こして止めに入る。

「こら、止めろ。飯は食わせてやっただろう。」

 勝手についてきたこの白トカゲは、図々しくも食料を寄越せとちょっかいを出すようなトカゲだっ
た。渡さないと、今のように荷物を勝手に漁り食料を引き摺り出す。かと思えば、ふと眼を離した隙
にいなくなり、戻ってきた時には魚を咥えていたりする。

  「分かった、少しだけだ。」

 仕方ないので魚の干物の半分を差し出すと、一口で飲み込んでしまった。呆れたが、トカゲのほう
はそれで満足したらしく、身体をくるりと丸めて寝入る態勢に入った。やがて、すぴすぴと寝息が聞
こえ始めた。
 自分も、寝よう。
 じりりり、と草叢で虫が鳴く音を遠くに聞きながら、眼を閉じた。