何処まで行っても、雨が降る気配はない。
 からりと晴れ渡った空は、小憎らしいほどに青々としている。一つの雲も見えない空の下では、じ
りじりとした暑さだけが籠っている。山道ならばまだ木陰に入ることも出来たが、両脇を荒地に囲ま
れた小道では、涼を取る影もままならない。
 笠の下で眼を眩しそうに細めながら、男は、こんな空をいつだったか同じように見上げたことがあ
る、と思い出した。
 いや、思い出したのではない。故郷を離れる原因となったあの空の色は、思い出す思い出さないと
いった出来事ではない。忘れたふりをしたところで、心の臓に刻み込まれているのだから。

 ――役立たずめ。

 そう、失望しきった声が耳元で聞こえた。その主は、今や何処にもいない。罵声ではなく、ただた
だ失望しきった声で、男の価値をそう評した者は、乾いてひび割れた地面の上で果てた。

 ――ハジュ、ハジュ、お前はお逃げ。

 優しいが悲痛に満ちた声が、背中を押す。そうやって己を逃がした母が、今、何処でどうしている
のか、男は恐ろしくて考える事もできなかった。
 国を救えなかった自分達の末路が、どのようになるのか。きっと、自分は限りなく幸運に恵まれて
いて、こうして生きている事ができる。けれどもそうではない者のほうが多かったであろう事は、想
像に難くない。
 母も含めた一族の大半が、己のような幸運には巡り合えなかっただろう、と。
 そして、今また、同じく逃げるように世話になった村に背を向けるのは、なんの因果だろうか。そ
れも、やはり同じように、逃がして貰っている、というのは。異なっているのは、あの時ほど命が切
迫していないというだけだ――むろん、あのまま村に留まって、村に雨が降らなければ、その限りで
はないが。
 もしかしたら、今回は、雨乞いが成功すれば、あの村には帰れるかもしれない。
 だが、その可能性は低いだろう。
 男は、もう一度空を見上げ、この先もしばらくは雨が降らないだろうという思いを強める。それは
長年、空を見る事を生きる術としてきた者の直感だった。

 ――いいかね。我等は占いによって未来を視るが、それは決して当てずっぽうではいけない。

 そう言ったのは、父だったか、母だったか。それとも一族の誰だったか、それとも一族全てがそう
言ったのか。
 骨の裂け方や、酔っ払いや薬を飲んだ者の妄言などに従ってはいけない。森羅万象全てを見つめ、
そこから導き出される事が、一番、未来に近い。
 風の向き、動物達の動き、雲の形、肌で感じる温かさ、湿り気。それらを見て取ってこその占い師
だ。
 そうやって生きてきた男は、だからこそ嫌でも雨の降る時が分かる。そしてそれは今ではない。こ
れからしばらく、その時は来ない。この世にあるありとあらゆるものが、そう囁いている。
 だから、きっと、誰に乞うたところで、雨など降りはしないのだ。
 別に、雨乞いそのものを馬鹿にするつもりはない。男の故郷にも、神を祀り、その神に乞う事はあ
った。
 けれども、乞う時期を決めるのもまた、男の一族であった。つまり、乞うて結果が得られる時に、
神に乞うのだ。そうすれば、ほぼほぼ望んだ結果が得られる。いかさまではないか、と思われるかも
しれないが、神の威光を維持する為にはそれが一番であったのだ。
 瀬津郷にはヒルコという神がいるという。だが、その神に今、水を乞うても、雨は降りはしないだ
ろう。今は、雨が降る時ではないから。
 では、瀬津郷に向かって、自分は何をすればよいのだろう。
 何もできないのに雨乞いの為に瀬津郷に向かっている。そもそも、瀬津郷での雨乞いとは何をすれ
ば良いのだろう。ただ、ヒルコという神に祈ればよいのだろうか。
 祈っても、雨が降る事などないと知っているのに?
 だとすれば、それは祈りではなく、騙りだ。自分達一族が忌み嫌った、当てずっぽうで未来を騙る、
酔っ払いや薬に溺れた者達の妄言と同じだ。
 ああ、残念だ。
 今の自分には、神に祈って雨を乞う事もできない。
 できぬと分かっている事を、神に祈るなど、そんな矜持を折る事など出来はしない。




 道を行けども行けども、雨の気配はない。
 あの村のように、渇きは少なく、木々は瑞々しさを取り戻しているけれども、それはこの土地なら
ではの事。あの村にはこの水は届かないだろう。地面から染み渡るという事もあるのかもしれないが、
地面の渇き具合から見ても、それは望めない。
 瀬津郷は、どうやら水の豊かな郷であるらしい。だから、皆が雨乞いをしようと考えるのだろうが、
それはあまりにも安易な考えだ。水が豊かであっても、別の郷にどうやって水を送り出すのか。そこ
に、誰も疑問を感じないのだろうか。
 瑞々しさを増す木立の影の中を歩きながら、水が豊かであるからこそ、誰も疑問に思わないのだろ
うな、と思い直す。
 だが、自分はそこに溢れ出る神の威光が、雨を齎さないであろうと信じている。神の御業よりも、
自分の経験を信じているのだ。
 雨は、降らない。
 瀬津郷が如何にして水を確保しているのかは知らないが、瀬津郷でも雨が長らく降っていないであ
ろう事は、空と地面の乾き具合からも明白だ。それでも木々の隅々にまで水が行き渡っているのは、
地下に水が溜まっているからだろう。
 男は、立ち止まって地面に手を当てる。表面は、やはり乾いている。しかし、少し掘り起こせば、
湿った地面が見えた。ひんやりとしている。
 手から土を払って立ち上がろうとした時、木陰の中にぽつりと白い物が落ちているのが見えた。何
か、と思って近づいてみると、白い毛皮のようなものが丸まっている。触れると柔らかく、そして思
いもかけず中身があった。
 何かの死体か、と慌てて手を放すと、白い丸の中心部分が、ぐっと持ち上がり、黒い円らな眼と眼
が合わさった。
 きぃ。
 高めの鳴き声が、幾分か不機嫌そうにこちらを詰る。そして、にゅるりと丸が解け、それは全体を
現した。
 白いトカゲである。ただし、トカゲにしては随分と丸っこい。
 白トカゲは固まっている男の手に鼻先を近づけると、ふんふんと匂いを嗅ぎ、そしてもっちりとし
た手足を動かし、男の身体によじ登り始めた。払い除けようとしても、異様に素早く、振り払う事も
できない。
 これ以上トカゲに構って時間を無駄にしてもあれなので、そのうち何処かに行くだろうと諦め、ト
カゲを身体に貼り付けたまま、道を歩く事になった。