乞われたならば、神は確かにそちらを見る。神の眼差しの前に、口先だけの願いは無意味だ。神の
眼差しは、人の心を正しく映し出す。
 雨よ降れ、と口に出しつつも、雨など降らない、と心底思っていたならば。
 神は雨を降らせないだろう。
 それが、願いなのだから。

「馬鹿な。」

 男は思わず声を上げた。
 自分は、一か月後に雨が降ると、そう信じていたのだ。雨乞いでは雨は降らないだろうと。雨乞い
では天の動きは変わらない、と。天の運行とは、神とは、そういうものだ、と。
 けれども、美しい眼差しは微動だにしない。男の叫びなど、それこそ神には知らぬ道理である、と
言わんばかりに。

『お前はその時雨は降らぬと信じた。神はそれを聞き届けた。』 

 そしてその後、神に乞うた男は国から逃げた。
 呼び出した日照り神をそのままに。

「馬鹿な、馬鹿な。」

 男の口からは、ただただ信じられないと、その言葉を否定するための音しか漏れ出ない。信じられ
なかった。いや、信じることはできなかった。
 信じてしまえば、それは、男が国を滅ぼしたという現実に他ならないからだ。
 雨が降らないと信じて日照り神を降ろし、そしてそれをそのままにした。だから、あの国は未だに
不毛の大地のままであるのならば。

『そうだ、お前が国を滅ぼした。』

 王が、激しく罵る。

『お前だけの所為ではない。』

 母の声が背後で慰める。

『だが、神を呼んだのは、お前だ。』

 父が厳格にそう断じる。
 そして、

『お前の願いを私は聞き届けた。』

 美しい眼差しが、いつの間にか巨大な一つ目に変わっていた。ぎょろりとこちらを見つめる眼の周
りに長い髪が纏わりついている。

『私はお前の声に呼ばれた。雨など降らないと叫ぶお前の声に呼ばれた。雨も風も、お前は呼ばなかっ
た。お前は渇きを呼んだ。だから私が降りた。』

 地響きのような、どこか奥深くから聞こえてくるような声だった。
 巨大な一つの眼が、男を見据える。

『私は降りた。そして未だ、帰らず。』

 戻るように、誰も祈っていないから。
 あの地に留まり、男をその眼で見ているのだ。

「まさか、だから、だから。私の行く先々で、水を枯らしているというのか。あの地に留まりながら
も、私を見ているから。あの村が渇いたのは、その所為か。」

 故郷だけではなく、これまでも、そしてこれからも行く先々を枯らすというのか。
 それに対して、答えはなかった。答えはなかったが、男にできる事はもはや一つしかなかった。神
に乞うなど、その時がこなければしない、それ以外で行うのは愚かであるといつも思ってきた。だが、
今や来るべき時は来ない。だから、その身を床に投げ打って、悲鳴のように告げた。

「頼む、もう、止めてくれ。」

 限界だった。
 誰かが日照り神を呼んで故国を滅ぼしたのではなく、己が滅ぼし、更にこれからも延々と行く先々
を滅ぼすなど。

「これ以上、私の居場所を奪うのは止めてくれ。私に国を滅ぼさせないでくれ。私はそんな事は望ん
でいない。水を枯らして滅ぼして、そして恨まれて生き続ける。そんな事には耐えられない。」

 神ならば耐えられるのかもしれない。だが、人には耐えられない。人にはそれほどの命も恨みも背
負えない。
 だが、一つ目の日照り神は黙している。
 己を呼んだのはお前だと告げたきり、如何なる言葉も人に告げようとはしない。まるで、そのよう
な言葉では届かないのだと言わんばかりに。
 呆然とする男の耳に、代わりに届いたのは、きぃ、という鳴き声だった。
 はっとして手元を見れば、白いトカゲのような輪郭が、ぼんやりと発光して久寿玉にその鼻先を押
し当てている。その尾は、素晴らしく長く、眼は信じられぬほどに美しい。

『此処は我が地、故に、お前のこの地に対する願いだけは聞き届けよう。』

 まろやかな声が終わるや否や、久寿玉が唐突に弾けた。まるで、内側から何かに押し出されたかの
ようなその様子。それもそのはず、弾けた久寿玉の中から、川のように水が溢れ出てきたのだ。
 部屋の中に溢れ出たその水は、ぐるりととぐろを巻くや、滑るように窓の外へと飛び出す。と、同
時に窓の外が光り輝き、一拍置いてからの轟音。
 人々の慌てる声と、それを掻き消さんばかりの雨音が降り注いだ。
 男が窓に駆け寄り空を見れば、黒々とした雨雲が一つぽっかりと浮かんでいた。その雨雲はひとし
きり瀬津郷の上で雨を降らせていたが、やがて驚くような速さで、男がやって来た村のほうへと駆け
抜けて行った。
 残された男の耳に、まろやかな子供の、くすくすという笑い声だけが響き、後には久寿玉もトカゲ
の光も残っていなかった。





「へえ、それで、彼は国に帰ったのか。」

 リツセはやってきたナチハに茶を出しながら聞いた。
 赤い髪の男に大陸行きの船を教えたナチハは、頷く。

「どうしても故郷に帰ると言ってね。久寿玉は村に届けなくていいのかと聞いたら、もう届けた、と
言っていたわ。」

 いったいいつの間に誰に頼んだのやら。
 首を捻るナチハに、リツセは膝の上にたまを乗せながら、

「昨日の、通り雨の時だろう。」

 と、しれっと答えた。

「どういうこと?」

 ナチハの問いに、リツセは答えなかった。代わりに、

「大陸まではやっぱり遠かったか。」

 と独りごちた。