食事をとった後、男はナチハに紹介された宿にどうにかして辿り着いた。耳の奥では、つい先程、
行商人が言った言葉がぐわんぐわんと響いている。ナチハが男の様子を心配して声を何度かかけたが、
それらにも生返事しか返す事が出来ないほど、男は深い衝撃を受けていた。

『敵国を滅ぼすために日照り神を呼んだ』

 行商人の言葉は、かつての男ならば一笑に付すところだった。占い師の一族ではあるが、人が天を
動かす事などできないというのが一族の教えだ。だから、日照り神が敵国の人々の言い分を聞き、故
国を滅ぼすなど考える事はあっても、不可能であると判じるところだ。
 だが、リショウという大陸から来た若者は、故国には降るはずであった雨は降らず、ひたすらに不
毛の大地となり果てていると言った。
 何故、今なお雨は降らないのか。男は天を読み間違え、あの地はもともと枯れ果てた大地になるべ
きものだったのか。
 宿の部屋に入り込むと、力尽きたようにぺたりと座り込み、呆然と畳の目を意味なく追いかけた。
 もはや、何がどうなっているのか分からない。自分が逃げた後、故国には何が起きたのだろうか。
降るべき雨が降らない理由は、男の一族が読み違えたのか、それとも日照り神が現れたからか。もし
も後者であるならば、何故に日照り神は現れたのか。偶々か、それとも本当に敵国が呼んだのか。も
しも敵国が呼んだのであれば。
 男は、はたと考えを止める。
 日照り神を呼んだのが敵国だとしたら、一体、それはどこの国だろうか。
 故国は遊牧民がその地に留まったことでできた国だ。広い草原に羊や山羊を放ち、羊毛などを他国
に売って財を作っていた。その地を欲しがる理由といえば、広がる青々とした草原くらいなもので、
しかしそれも日照り神によって潰されてしまったのなら、故国を欲しがる理由そのものがなくなって
しまうことになる。
 それとも、建国の際に、もしかしたらその地にもともと住んでいた部族を殺したことがあるかもし
れない。そういった連中が、呪いをかけたのだろうか。しかしそれならば何故、今なのだろうか。恨
みが消えぬとはいえ、もっと早くに――それこそ追い出された直後にでも日照り神を降ろせば良い。
 何者かが故国に仇なすために日照り神を降ろしたとは、男の中では考えにくい――いや、考えたく
ないのだ。

「もう、もう故郷の事は考えるのはよそう。」

 西日が緩やかに落ちる部屋の中で、男は呻いた。
 すでにない国の事を――遥か遠くの大陸の不毛の大地の事を考えても、何もできはしない。その場
にいるわけでもないのに、いや、その場にいたとしても何もできなかったのだ。
 そんな事よりも、今はあの村の事を考えよう。故郷のように枯れきってはいない、しかし確実に渇
きに蝕まれつつある、あの村の事を。
 ひとまず、瀬津郷の久寿玉を手に入れ、そしてヒルコ大神にも祈りを捧げたのだ。雨が降るか降ら
ないかは分からないが、しかしやるだけのことはやった。だが、それで村に戻って良いのかが、男に
は分からなかった。
 雨が降らなければ、男が戻ったところで邪魔者扱いされるだけだ。表立っては村長は何も言わない
だろうが、内心がっくりする事だろう。
 だが、戻らなければ、一体何処に行けばいいのか。これから先、延々と、佇む土地に渇きが訪れる
たびに逃げ出さなくてはならないのか。
 そうだ、この郷に住むというのはどうだろう。今は外部からの出入りは厳しく見張られているが、
それでも人の流入流出は多いようだ。大陸からやってきて根を張っている者も少なくはないだろう。
ここでならば、自分も長く住む事が出来るのではないだろうか。
 手の中に久寿玉を収め、これは誰か、村のほうに行く旅人にでも渡して届けてしまえば良いのでは
ないか、と思う。それで、あの村への義理は果たされるだろう。瀬津郷でどれだけ自分が必要とされ
るのかは分からないが、しかし村に戻っても困らせるだけならば、

『そんなことが、本当に許されるとでも思っているのか?』

 部屋の隅からしわがれた声が這い寄った。
 ぎょっとして顔を上げれば、部屋の角の部分に落ちた黒々とした陰の中で、何か人影のようなもの
が、自分と同じように座り込んでいる。陰の中にいるためその全体像は定かではないが、陰の外――
光の中に、着衣の端がはみ出していた。
 赤い、袖が床に広がっている、光の中にまで。
 金の刺繍が縁に施されたその袖には、見覚えがあった。
 王が、あの少女が着ていたものだ。男が雨乞いに失敗し牢に入れられたその日、泣き叫びながら男
を罵ったその日に、着ていたものだ。
 顔は見えない。
 だが、どんな顔をしているのかは、分かる。分かるような気がする。あの時と同じ、失望と憎悪に
満ちているはずだ。
 顔は見えない。けれども、男は俯いてしまった。顔が見えずとも、こちらが目を合わさなくとも、
あちらは男の顔を見ているし、その眼と知らず知らずのうちに合うことが、恐ろしかった。

『お前に、平穏が許されるとでも?』

 故郷の事は考えない?そんな事、できるはずがない。こうやって、あの国の渇きはどこまでも追い
かけてくる。夢の中に侵入し、そしてとうとう現にまで。

『お逃げ、お逃げ。』

 王がいる場所から逆側の隅から、別の声がする。優しい優しい母の声だ。思わず振り返りそうにな
り、しかし男は首を回す事が出来ない。振り返った先にいるかもしれない母の顔が、恐ろしかったの
だ。捨て置かれた母が――どれだけ優しい声をあげていようとも――どんな顔でこちらを見ているの
か、それがとにかく恐ろしかった。

『お前が、お前が悪いんじゃない。私達の業が、そしてそれを履き違えた王が悪いのだから。だから
お前はお逃げ。』

 天を読み事柄を予測する。それが自分達占い師。間違っても、天の行きを違えるような占いも祈り
も捧げない。
 それを捻じ曲げて、雨が降る空でもないのに雨乞いをしたから。雨など当然降るはずもない。天が
せぬことを、人が乞うて無理やりさせるなど、不自然なことだから。
 だから。

『しかしそれでも我らは神に乞うた。』

 王と母の間から、今度は男の声が響く。これまで自分達の業を守ってきた父の声だった。王の雨乞
いの命に苦い顔をし、それでも王命である以上、せねばならぬと言って雨乞いを自分と共に執り行っ
た父の声だった。

『我らは神に乞うた。起こりえぬ事を不相応にも神に乞うた。後戻りは出来ぬ。神の眼差しは、お前
を捉えた。』

 神の眼差し。
 父の言葉で、唯一最後まで男が理解できなかったもの。男は未だ神を知らず、そしてこうして死者
か生霊かの言葉に溺れるばかりだというのに。本当に神が男を見ているというのなら、男はこれほど
までに逃げ惑わなかったはずだ。
 神が見ていたというのなら。 

「何故、雨は降らない?」
『雨が降らないと信じて、祈ったからさ。』

 答えなど期待していなかった。しかし、まろやかな声が耳朶を打った。知らぬ――いや、日照り神
のことを最初に男の耳に吹き込んだ声だ。
 今まで頑なに顔を上げなかった男だったが、咄嗟にそちらに目を向けた。父の声がしたほうとは真
逆の部屋の隅。黒々とした陰ばかりが落ちて何も見えない。しかしその中に、きらりと煌めく二つの
眼差しがあった。
 信じられぬほどに美しい、眼差し。

『雨など降らぬ、と。そう信じて疑わずに、お前は神に乞うた。それを、神は確かに聞き届けたのだ
よ。』

 雨よ降るな、と。
 だからその乞いに答えて、神はその地に降りた。岩山に幽閉されている、日照り神が。