物腰柔らかな行商人に、どうぞご一緒にと誘われ、ナチハもお詫びの食事とやらに同席する事にな
った。
 行商人が選んだ店は、下町の安い店ではなく、参道沿いにある他所からやってきた旅人向けの――
ただし所謂物見遊山目的でやってきた人々向けの、ごく普通の行商人が選ぶには少々値の張る店だっ
た。
 一瞬、何も知らないのか、と思い、イザヤという名の端正な男の顔を見やったが、手慣れた風情
で店の主人に座敷を頼むのを見て、自分が心配しても意味がないと思い直した。一方、もう一人のイ
ナと呼ばれた男は何が不服なのかそっぽを向いている。
 店の主人は行商人という普段の客層とは違う者がやって来た事に戸惑いを覚えたようだったが、イ
ザヤがその手に何かを掴ませるや、すぐに素知らぬ風で奥の座敷へと彼らを案内した。大方、小銭を
握らせたのだろうが、行商人にそこまでの余裕があるものなのだろうか、とナチハは不審に思う。

「随分と景気が良い事だ。」

 奥の座敷に通されて、ふかふかの座布団に座ると、ナチハは涼し気なイザヤの顔に、そうぶつけて
みた。本来詫びられているはずの赤毛の男は、居心地が悪そうに身を竦ませている。これでは何がど
う詫びなのか分からない。
 
「最近どうもあちこちで、いろんなものが値上がりしている。行商人なら護衛を雇うにも吹っ掛けら
れただろうに。それとも他の郷ではそうでもないのか?」

 今までならば行商人は他の郷との行き来する際、高い通行料を支払う代わりに、ほぼ無料で護衛が
つけられていた。だが最近ではその護衛がいないという。瀬津郷を治めている一条家のほうで何かが
あったと聞くが、ナチハも詳しくは知らない。
 イザヤは微かに笑うと、

「私にはイナがいますからね。この男はこう見えても、それなりに腕は立つのですよ。なので護衛を
わざわざ雇う必要はないのです。」

 言われたイナはといえば、相変わらず仏頂面でそっぽを向いている。痩せこけた男の体躯からは、
到底腕が立つとも思えないのだが、それは口にはしないでおいた。
 そうこうしているうちに料理がやってきた。運ばれてきた料理は、ナチハが普段行く店のものとは
まったく違う。隣に座り込んでいる赤毛の男も、貧しい村住まいだ。こんな料理は食べないだろう。
躊躇いながら箸を進めるこちら側とは対照的に、イザヤのほうは顔色一つ変えずに料理に手を付けて
いる。
 行商人ならば確かに色々と経験はあるだろうが、ここまで洗練されているものだろうか。ナチハが
頭の片隅で疑問を抱いていると、イザヤのほうから自分がどちらからやって来たのかを話し始めた。
 瀬津郷に来るまでは都の北のほうにいたのだという。都では町人だけではなく、公家や武家相手に
も物を売っていたらしい。

「行商人のところに公家や武家が来るものなのか?」
「ええ、そうお思いになるのも御尤も。ただ、私は大陸から渡って来た珍品も取り扱っていますので、
それが上の方々の耳にも入った、ということです。」

 伽羅や琥珀、硝子、胡椒など、様々に取り扱っているという。だが、それならばわざわざ瀬津郷に
来なくともよいものだが。そういうと、仕入れですよ、とあっさりと躱された。

「それに、都の北は今、雨が続いている。長雨で作物が駄目になるかもしれない。薬などの原料も。
なので、今のうちにある程度確保しておきたいのですよ。」

 その言葉に、ナチハはリツセの、薬が値上がりしているという言葉を思い出す。瀬津郷を含む一条
統治下の七つの郷は、薬が高騰しても高騰した分を税金で補うため、実際は価格は据え置きである。
だから、都の北の長雨が原因で材料不足になったとしても、薬代は変わらないし、薬を取り扱う問屋
が金に困る事はない。
 だが、実際は薬は微々たるものとはいえ値上がりしている。それは、北の長雨が深刻であり、税で
補えないほど――護衛や医者への給金を止めて高騰分を補ってそれでもなお足りないほど――薬の材
料が手に入らず高騰し続けているという事ではないだろうか。
 ナチハは、黙りこくっている赤髪の男を見る。方や、水乞いをするほどに日照り続きの土地がある
というのに。方や、薬不足の危機があるほどに長雨の土地があるとは。男は、今、何を思っているの
だろうか。

「………北の長雨は、それほどまでに深刻なのか?」
「さて………深刻といえば深刻でしょうね。何せ、日照り神を山から降ろそうという話まで持ち上が
っているくらいですし。」
「日照り神?」

 聞きなれぬ神の名前にナチハは眉を顰めた。しかし、突然、今の今まで一言も喋らなかった男の肩
がひくりと跳ねた。

「日照り神、という神がいるのですか?」

 突然の男の問いかけにも、イザヤはさほど驚いたふうではなかった。切れ長の瞳に不可思議な光を
湛えて男を見つめる。

「いる、と言ってよいのかどうかは分かりませんが、そう呼ばれる神はいるようですね。ただ、元々
こちらの国の神ではなく、大陸の神であるのでよくよく知っている人は少ないでしょうね。特に、ヒ
ルコ大神という神を抱く瀬津郷では馴染みがなくても仕方ないでしょう。」

 雨を降らせるのも、水を湧かせるのも、地面を渇ききらせてしまうのも、ヒルコ大神の意志一つで
ある瀬津郷では、雨神も日照り神も意味成すものではない。

「私も、何故、都の北の地で日照り神を呼ぼうという話になったのかは分かりませんが……大方、大
陸の知識を少し齧った輩がいたのでしょうね。大陸には、天帝の娘に、魃という娘がいたそうで、こ
の魃が日照り神である、と言われています。」

 天帝は風と雨の神を鎮める為に、大量の熱を体内に有している魃を呼んだ。魃は雨と風の神を鎮め
たが、その代償に天には帰れなくなってしまった。存在するだけで辺りを干上がらせてしまう魃は、
普段は荒れた岩山に幽閉されているが、洪水や鉄砲水で困っている人々の助けの声を聞いては、山か
ら降り、そして水を鎮めると再び山に帰っていくのだ。

「御帰りいただくときは、必ず人々が乞い願わなくてはならないそうですよ。まあ、神に届く声は祈
りである以上、それは当然でしょう。来るときだけ乞い願って、帰る時は何もしなければ、どうなる
事やら。」
「大陸でも。」

 男が、呻くように呟く。

「大陸でも、日照り神を呼ぶ事はあったのでしょうか。」
「それは分かりかねますが……。」

 イザヤは少し考え、

「ですが、この国でもそのような考えに至るのですから、元々日照り神のいた大陸でも、そのような
事があってもおかしくはないのでは?」

 どの土地でどのような国が興ったのかは分からない。けれどもその際に水による害がどこかで起こ
ったならば、治水を行うと同時に、日照り神を呼んでもおかしくはない。
 或いは、

「或いは、あまり考えたくはないですが、敵国を滅ぼすために、その土地に日照り神を向かわせよう
と考える者がいる可能性というのも。」





「イザヤ。」

 赤髪の男と検非違使の少女が去って、その背を見送るイザヤの耳に、犬の唸り声のような声が響く。
振り返れば、不機嫌極まった表情のイナが、三白眼でこちらを睨み付けている。

「なんで、あの野郎にあんな事を言った?」
「日照り神の事か?」
 
 答えれば、イナが再び唸る。何故、と。

「何も知らないまま憑かれているよりは、良いと思っただけだ。彼にとっても、我々にとっても。」

 日照り神は行く先々で旱魃を引き起こす。己の意志に関わらず、だ。どれだけ力を抑えたところで
どうにもなりはしない。葦原国には、水を湛える神々が多いから今までどうにかなっていたのかもし
れないが、いずれ限界は訪れる。

「彼が国に帰るか、彼が気づいて祈りを捧げるかは知らないがな。」

 そもそもどうして日照り神なんぞを背負っているのかが分からない。水乞いに来たという事は、本
人も知らぬうちに背負ってしまったのだろうが。

「あんまり目立った行動をとるなよ。あいつらが追いかけてくるかもしれねぇんだぜ。」
「十分に撒いた。それに、私の顔と名を知る者のほうが少ないさ。」

 唸り続けるイナに、イザヤは飄々と答える。

「とにかく、しばらくはこの地に留まろう。幸いにして検問も強化されているから、連中もすぐには
追ってこれないし、妙な輩が入れば分かるだろう。お前も、もっと殺気を抑えろ。分かる奴らには分
かるぞ。」 
「分かったよ、イザヤ。」

 野良犬は低く答えて、餓えた気配を弱めた。