商品棚の上で尻尾をぱたぱたと降っている水守を、リツセは見上げる。
 ナチハが連れてきた、たまを拾ったという赤い髪の異人は、たまが商品棚から落とした久寿玉を持
ち帰った。

「たま。」

 名を呼ぶと、商品棚の上から降りてこようとしない水守は、それでも、きぃと返事だけはした。
 ヒルコ大神の化身であると言われる水守達は人々の言葉を明確に理解するが、しかしその逆――水
守達の考えを人が理解する事は難しい。今回のたまの行動に、神の意志が反映されていたのかどうか、
それは人には判断のできないところにある。
 ただ、

「燃えるような髪の持ち主だったな。」

 大陸からやってきた人々の中には、葦原国にはない髪の色をしている者もいる。しかし、あれほど
までにはっきりと、赤、と分かる髪をリツセは見た事がない。
 たまが、するりと商品棚から降りて、足元にすり寄って来る。円らな瞳で見つめ上げる水守に、リ
ツセは小さく呟く。

「さあ、あれは、どうだろう。この国で身を寄せていたという村はともかく、あの人の故郷はどうな
るだろう。あれは、あの人自身を呼んでいるものだから。」 

 たまはリツセから視線を外し、黒々とした目で男が立ち去った方向を見つめる。ただし、追いかけ
ようとはしない。聡い水守は、これ以上自分にできる事はないと知っているかのようだ。

「ヒルコ大神の加護を祈ろう。海を渡る大神ならば、遠い異国の地にも水を渡らせる事が出来るかも
しれない。」


 

 
  「落ちた商品を、なんて思うかもしれないけれど。」
 
 ナチハが後ろで説明をしている。

「この郷では水守に触れられるという事は、とても良い事なんだ。水守はヒルコ大神の化身だからね。
ヒルコ大神がお選びになった。そういう事だ。」
「ええ、分かっています。」

 男は頷いて、手の中に納まった久寿玉を見る。浅葱と白の涼し気な色合いの中に、銀の紙が波のよ
うに丸めこまれて差し込まれている。水の塊のような久寿玉は、確かに美しい物であったが、しかし
そこから本当に水の気配があるかと言われれば、男にはそれを感じ取ることはできなかった。
 だが、これ以上できる事と言えば、せいぜい宮にお参りに行くくらいである。それが終われば、男
にできる事はない。
 いや、せめてあの村に帰る理由はできたか。
 手の中にある久寿玉を持ち、あの村に帰るという理由が。そういう理由があれば、村に戻ったとし
ても村人達も理解はしてくれるだろう。
 いや、そうではない。
 きっと、男が何も持たずに帰ったとしても、村人は戸惑いながらも受け入れてくれるはずだ。裏の
感情を察すれば、渇き始めた貧しい村において余所者である男を真っ先に切り捨てようという思惑は
あっただろう。けれどもそれでは体面も悪いし、何よりも男に対して良心が咎めたのだろう。だから
こそ、水乞いという名目で村の外に追い出したのだ。けれども戻って来るなと言わなかった以上、そ
して良心が咎めている以上、村人も男が戻って来る可能性を幾ばくかは持っている。
 男が帰ったとしても、今までよりも余所余所しくはなるだろうが、これまでと同じように村の隅で
暮らす事は許されるだろう。そしていずれ雨が降れば、余所余所しさは薄れて行くはずだ。
 だが、本当にそれで良いのだろうか。
 あの村に戻っても良いのだろうか。

「これからどうするつもりだ?今すぐにでも村に帰るのか、それとも宮参りもしておくつもりか?」
「……ええ、そうですね。お宮参りはさせていただきます。ここまで来たのですから、そうすべきで
しょう。」

 それはただの問題の先送りでしかなかったが、男にはそれ以外にどうする事もできない。
 ナチハの案内で連れて行かれたお宮は、両側に多数の店を連ねた長い参道の先にある、広い境内と
大きな拝殿と本殿を持っていた。 
 村の社しか見たことがなかった男は、瀬津郷は裕福であることを改めて悟った。枯れぬ水により豊
かである土地は、それ故に人が増え、そしてだからこそ神も大きく祀られるのだ。
 あの、渇きに怯える村の神は、一体なんという名の神なのだろうか。貧しくなれば、神の名も忘れ
去られるものなのだろうか。
 拝殿の前で手を合わせる。
 しかし、如何に富みに満ちた神の前であっても、男に対して何らかの答えが降る事はなかった。
 苦い煩悶ばかりが広がるまま、拝殿に背を向け歩き出した男は、背後にいた誰かの肩にぶつかって
しまう。

「あ。」

 声を上げたのは、ぶつけられたほうのものだったか。だが、男にはそれに対して謝るより前に、息
を呑んでしまった。ぶつかった拍子に、久寿玉が転がり落ちてしまったからだ。ころりと転がった久
寿玉は、大勢の参拝者の足元で、今にも潰されそうな眼にあっている。
 が、それを止めたのは、男に肩をぶつけられて声を上げたほうだった。そちらの足元で動きを止め
た久寿玉は、静かな所作で掬い上げられる。

「し、失礼しました。」

 男はそこになってようやく謝罪の声を吐き出せた。過去と現在から続く陰鬱な影を振り払い、差し
出された久寿玉に手を延ばす。

「いいえ。」

 そんな男にかけられたのは、微かに笑みを孕んだ涼し気な声だった。その声に惹かれるように目線
を上げれば、再び息を呑むことになった。
 声は自分と同じ男のものだった。だが、そこにあった顔は一瞬動きを止めてしまうほどに端正なも
のだった。
 葦原国の住人の顔立ちであることに間違いないが、その中でも間違いなく、美しいと言われるもの
だろう。

「イザヤ、どうした。」

 美麗な男の背後から、低く掠れた声が立ち上る。瞬間に現れたのはやせ細り、眼だけが異様にきら
めいた男だった。痩せた野良犬を思わせる風貌の男に、イザヤと呼ばれた美しい男は振り返り、

「私がこの方の久寿玉を落としてしまっただけだ。」

   そして、男の手に久寿玉を収めた。傷一つない、真珠のような爪先が久寿玉から離れる。

「お前達、行商人か。」

 ナチハが、二人組の風体を見て言った。確かに二人とも背中にかなりの荷物を背負っている。ナチ
ハの問いかけは少しばかり尖った声であったが、イザヤという男はそれに対して眉を顰めるでもなく、
むしろ口元に笑みさえ刷いていた。

「ええ。私はイザヤ、こちらがイナ。先程、瀬津郷に着いたばかりなんですよ。」
「ほう……。」 

 ナチハはしばらくの間、二人を眺めていたが、すぐに目を逸らした。おそらく、男に対するものと
同じ疑いを向けたのだろうが、こうして郷の中に入っている以上、余計な疑いだと思ったらしい。
 ナチハからの疑いの眼差しも、平然と流していたイザヤは、ちらりと男に目を向けた。

「しかし、本当に申し訳ありませんでした。久寿玉を足蹴にしてしまうとは。」
「い、いいえ。別に壊れたわけでもありませんし……。」
「ですが久寿玉は縁起物。決して気持ちの良い事ではないでしょう。ええ、私も商売人ですからね、
分かります。」

 ですからお詫びと言ってはなんですが、と涼やかな声が告げる。

「お食事を奢らせていただくことはできませんか?」 

 おい、とイナという野良犬のような男が小さく声を上げるが、イザヤはこれを完全に無視する。二
人の力関係は、イザヤのほうが上であるらしい。

「ですが、詫びていただくほどのことでは……。」 
「いえいえ、そのような事は。それにこちらも縁起物を蹴りつけておいてこのままというのは、少々
後味が悪い。どうか、こちらを助ける為だと思って、是非。」

 ここまで言われてしまっては断る謂れもない。頷く男の向こう側で、野良犬のような男が微かに呻
いた。
 どうなってもしらねぇぞ、と。