「大丈夫か?」

 リショウと別れた後、しばらく歩いていたが、耐えかねたようにナチハが問うてきた。何事かと顔
を向ければ、ナチハは眉間に皺を寄せている。

「顔色が随分と悪い。」

 言われて、思わず額に手を当てた。そこは確かに、ひやりと濡れていた。いつの間にか、冷や汗を
かいていたようだ。それを拭って、

「ええ、大丈夫です。昨夜、あまり寝ていない所為でしょう。」

 その答えに、ナチハは眉間の皺を深くする。その様子を眺めながら、改めて見れば美麗な顔立ちを
しているな、と思った。女にしては背が高いためか少しがっちりとして見えるが、しかし眉を顰めて
いても美麗さは損なわれてはいない。
 その美麗な顔の中に、男の返答に対して納得していないものが浮かんでいたが、彼女はそれ以上は
詮索はしなかった。
 彼女の考えは正しい。寝不足など、言い訳だ。
 本当の理由は、先程のリショウとやらから聞いた故国の末路だ。
 国が滅んだ、というのは分かる。王の血は、あの少女で絶えたからだ。少女の今際についてはまだ
大陸にいた頃に風の噂で聞いた。その時に、国が滅んだことも分かった。
 だが、その後、あの国は以前とは同じではなくとも、また蘇るであろうと思っていたのだ。雨さえ
降れば。そして、雨は男の見立てでは降るはずだった。
 だが。

 ――ガラナ国が滅んだ後、その国の氏族達はちりぢりになって別の国に流れ込んだ。
 ――それ以降、あの国には人が住まなくなった。
 ――何故かって?何もかもが砂に飲まれたからさ。
 ――俺の聞いた限りじゃ、あの土地は一滴の雨も降らないらしい。

 リショウの言葉が鼓膜より更に奥底にこびりついている。そしてその言葉に対して、馬鹿な、と叫
ぶ自分がいる。
 馬鹿な。
 確かに、あの時、あの国は旱魃で死につつあった。王は雨乞いをしろと無茶を言い、自分はまだ早
いと逆らい牢に入れられた。 
 そう、あの時はまだ雨が降るべき時ではなかったのだ。あと一か月もすれば、雨が降る。そういう
見立てだった。だから、国は滅んだとしても、再び雨が降り、そしてあの土地にはまた緑が広がるだ
ろうと。そして散らばった氏族達が戻り、また国を立て直すだろう、と。そう思って生きてきたのだ。
 だが、雨は降らぬままだという。
 見立てを間違えたというのか。星を、雲を、読み間違えたのか。ならば、

 ――役立たずめ!

 王の、言う通りだ。雨を降らせることができないどころか、雨の降る時さえ読めぬなど。天を読む
ことが出来ないなんて。
 では、きっと、今回も、あの村の雨の降る時も、読めないのでは。

『ひでりがみが、戻ってないからさ。』

 耳元で、子供のようなまろやかな声が響いた。

「え?」

 思わず立ち止まり、振り返る。だが人の流れがあるばかりで、一体誰の声であったのか分からない。
そもそも、さっきの声は本当にすぐ耳元で聞こえた。なのに、人の気配など感じなかった。

「どうした?」
「いいえ………。」

 ナチハは未だに怪訝そうな顔をしていたが、男がしゃべらないであろうことを見て取ると、そうか、
と頷く。

「あそこだよ。」

 ナチハが指さした方向に、こじんまりとした店構えが見えた。六連の久寿玉が吊るされて風に揺れ
ている。

「あれが、私の知り合いの久寿玉師の家。そしてお前がつれてきた水守が住み着く家でもある。」
「久寿玉師?」
「たぶん、瀬津郷にしかない仕事だろうね。ヒルコ大神が久寿玉をお好きだから、瀬津郷では縁起物
として大切なのさ。だから、ことあるごとにそれを作る必要があるんだが、なにせ手間暇がかかるか
らね。だからそれを依頼人の代わりに作るのが久寿玉師さ。」

 ナチハが説明している間に、店の玄関から、ひょっこりと白い頭が覗く。円らな眼でこちらを見る
と、するりと頭をひっこめた。入れ替わりに顔を出したのは、白い衣装に身を包んだ少女だった。

「リツセ。」

 ナチハは少女の姿を認めると片手を上げる。それに少女も片手を上げて応えた。
 行こう、というナチハの言葉に促されて、男は店へと向かった。

「いらっしゃいませ。」

 リツセと呼ばれた少女は、水音のような涼しげな声で男とナチハを迎え入れた。リツセの足元では、
先程こちらを見ていた白トカゲが鎮座してこちらを見上げている。些かも動じる気配のないその様子
は、確かに男についてきたトカゲと同じものだ。

「このたびは、たまがそちらの食料を漁ったという事で、非常に失礼をいたしました。お詫びと言っ
てはなんですが、水乞いの久寿玉をこちらで用意させていただいでおります。お気に入りのものがあ
りましたら、どうぞお持ち帰りください。」

 少女の言葉のあとに白トカゲが、きぃと鳴いて尻尾を翻し、店の中に入っていく。
 どうぞ、という少女の言葉に従って、まるでトカゲの後を追うようにして店の中に入れば、そこは
壁一面に商品棚が取り付けられており、棚の上には幾つもの久寿玉が飾られていた。どうやらこの中
から好きなものを、という事らしい。
 ほとんどが青と白を基調とした久寿玉は、おそらく水を乞うためにそういう色合いを選ばれたのだ
ろう。
 
「久寿玉というのは、その中にヒルコ大神の加護を満たすためのものであると同時に、ヒルコ大神の
眼差しを惹きつけるものでもあります。お祀りしてある社で祈りを捧げることも水乞いにはなります
が、こうした久寿玉を飾り、ヒルコ大神の眼差しを長らく惹きつけ、加護を得るという考えが瀬津郷
では普通です。」

 そもそも瀬津郷では水乞いという事をしないのだという。
 かつてヒルコ大神がこの地に流れ着いた時、彼の神は己を祀ることを人々に背負わせる代わりに、
穏やかな海と絶えぬ水を約束したという。人々がヒルコ大神を祀り続ける限り、瀬津郷から水が枯れ
る事はないのだ。

「そんな瀬津郷の水を分けて貰うために、他の郷から水乞いに来る人々が昔から絶えなかったそうで
す。そのような人々の為に、ヒルコ大神は己の加護を閉じ込めた久寿玉に、瀬津郷の水を満たしたの
だとか。ですから、水乞いの為の久寿玉は、ほとんどが他の郷の人のためのものです。」
「その……久寿玉を手にしてから、いつ水が得られるのかは、分からないのですか?」
「さあ。」

 リツセは曖昧に笑う。

「私の知る限りでは、いつ、と定まってはいないようですね。そもそも、本当に必要であるのか、ヒ
ルコ大神の加護を纏うだけの心根が人々にあるのか、ヒルコ大神はそれを見て水を与えるのだと思い
ますよ。」

 その時、男の目の前を一つの久寿玉が通り過ぎていった。慌てて受け止めたそれは、浅葱色に白と
銀の波が渦巻いた久寿玉だった。落ちてきたほうを見ると、棚の上にいた水守が、眠たそうな表情で
尻尾を揺れ動かしている。どうやら、尻尾に当たって商品が落ちたらしかった。