向日川は瀬津郷の中心街の脇を流れる。向日川の対岸に広がるのは農村部の田畑だ。
 この時期は既に田植えも終わっており、まだ背丈の低い稲が、ちょんちょんと均等に並んでいるの
だが、昨日の嵐の所為でかなりの数の稲が倒れてしまっている。それを元に戻そうと、農夫達が泥だ
らけになりながら田圃の中を歩き回っていた。それを見守るように、何匹かの水守が畦道に並んでい
る。本当に、何処にもでもいる白トカゲである。
 その、何処にでもいる白トカゲの中でも巨大な部類に入る、むにを背中に張り付けたまま、リショ
ウは向日川沿いを馬で駆ける。
 ナチハが準備した玄影という初老の馬は、脚こそ若い馬には劣るだろうが、しかし老いているが故
に人を乗せ慣れた落ち着きがあった。嵐によってぬかるんだ道も確実に踏み締めて、踏み躙られた畦
道とは対照的な淀みない足取りで川の上流を目指している。
 水嵩の増えた向日川は、いつもよりもずっと流れも急で、水面は茶色く濁り、足を踏み入れるには
危険な様相を見せていた。
 その中を、何処からか飛ばされてきたのか流れていく倒木や木板は、ぐるぐると回転したりひっく
り返されたりと、荒れた流れになすすべなく翻弄されているように見える。
 しかしこれらは、いずれも上流から下流に流れていっているものだ。当然のことながら、下流から
上流に流されているものは一つとしてない。
 では、酔っ払いが嵐の中見たという、上流へと押し流されていく船とは一体何なのか。
 夢でも見たんじゃないのか、というのが普通の考えだ。或いは、何か見間違いでもしたんじゃない
のか。
 前者なら夢だからで済む。
 しかし後者なら何と見間違えたのか、という疑問が湧き上がる。
 船と言っても、漁師達が沖に出るような船ではない。商船で、しかも大陸から来る船だ。大きさも
並大抵ではない。帆船、しかも支柱が三本以上はある帆船だろう。それと見間違える物など、一体何
があるのか。
 酔っ払いの夢で終わればいい、と思いつつ、川沿いを馬を走らせているうちに、どんどん瀬津郷の
町中からは離れ、畦道通る田畑も背後に追いやられていった。民家は既に何処にもなく、田圃はあっ
ても誰も手入れされていない葦に覆われたものばかりだ。馬が走る道も徐々に細くなり、町よりも山
のほうが近い。川岸には木々が増え、川幅も細くなりつつある。これ以上、上流には船も進めまい。
 そう思った時、背後にへばりついていたむにが、にゅっと顎を肩に乗せてきた。もふっとした感触
が肌に当たり、そちらに意識を持っていかれると。
 きぃ。
 高い声に変わりはないのだが、たまよりも少しばかり野太い声だった。むにに促されて、やたらと
ふかふかとした感触から、意識を前へと戻す。すると、行く手に、木々の枝に隠れて見えにくくなっ
ているものの、木々を越えるほどの大きさの影が揺れ動いているのが見えた。
 増水しているとはいえ、河口付近に比べれば浅い上に、水底には岩や倒木が沈んでいる。大方、船
底がそれに引っかかったのだろう。
 茶色く淀んだ水を、船体の周りで渦巻かせながら漂う帆船は、しかしそれにしても大きい。よくま
あ此処まで上流に漕ぎつけたものだ。
 そしてリショウは顔を顰めた。
 そうなのだ。
 何故、この船は此処までやって来れたのか。
 確かに昨夜は嵐。雨風吹き荒れ、川の水面もさぞかし逆巻いたことだろう。だが、果たしてそれだ
けで、これだけの帆船が川を上がり行くものだろうか。
 むしろ、誰かが、嵐に乗じて帆船を盗み出したと考えたほうが良くはないか。ならば、帆船の中に
ある積荷は無事だろうか。誰かに盗まれたりはしていないか。
 とにかく人を呼ばねば、とリショウが馬首を返した時、背中に張り付いていたむにが、素早く飛び
降りた。白い巨体は、そのままのそのそと川べりに生える葦の間に消えていく。奴は一体、何をしに
来たのか。
 リショウは、呆気に取られてむにが消えた葦の隙間を眺める。分かるのは、自分が都合の良い脚に
されたことだけである。
 毎度のことではあるが、水守に態よく使われたリショウは、気を取り直して船を見つけたことをナ
チハに伝えに戻った。
 その場を離れたら船が何処かに行ってしまったりしないか、という埒もない考えが頭の中を横切っ
たが、しかし自分が呼びに行かねば誰も呼びに行く人間がいないので、出来る限り急いで道を引き返
した。
 幸いないことに、リショウが検非違使達を連れて船のある場所に戻った時、船は見た時と同じ状態
で、ぷかぷかと水面の上で揺れていた。
「間違いないようね。」
 船の外見を確認しつつ、共に来ていた異人達の様子を眺めていたナチハが頷く。異人達は間違いな
く自分達の船だと主張し、早速船の中に入ろうとしている。
「けれども、良く此処まで流されてきたものね。」
「誰かに盗まれたってことはないのか。」
 リショウは脳裏に浮かび続けている疑惑を口にする。ナチハは小さく肩を竦めて見せた。
「どうかしら。何か盗まれていたらそうかもしれないけれど。」
 不意に、何か叫び声が上がる。何事かと船を見れば、異人達が船を動かそうとして、それを漁師達が
止めているところだった。無理に動かせば船底が割れると漁師達は口々に言い、自分達に任せろと主張
するが、異人達は自分の手で船を動かすと言って聞かない。
 やいのやいのと漁師と異人の言い争いが続く中、別当が彼らの間に割って入る。仲裁のつもりだった
のだろうか。しかし彼が発した、出来る限り異人の言うことを聞くように、という言葉は、どう考えて
も異人よりの言葉だった。
 途端、漁師達の顔に白けたものが浮かぶ。また、同様の色がナチハの顔に浮かんだのをリショウは見
逃さなかった。
 船が沈んでも知らねぇぞ、勝手にしろ、とぼやきながら、三々五々に去っていく漁師達は、もはや別
当も異人も見ていない。むしろ、何か嘲りのようなものがその心裡にはあるようだ。同じものが、やは
りナチハの中にも浮かんでいる。
 これは、とリショウは溜め息を吐く。
 どういうわけだか知らないが、どうやらこの別当は、瀬津郷の住民に嫌われているらしい。
 憮然とした表情で、それでも異人達が四苦八苦しながらも船を動かす様を最後まで見届けようとして
いる別当の横顔を眺め、リショウはその顔立ちがまだ若いことに気づく。
 自分よりは年上だろうが、しかし司法を背負うには若い。もしかしたら、グエンよりも少し年下なん
じゃなかろうか。その若さで、一つの郷の司法を任されるのは、さぞかし荷が重いだろう。
 ナチハや漁師の、彼に対する嘲りはその若さ故のものなのだろうか。
 瀬津郷の柵が分からぬリショウには、どうもナチハ達の態度は理不尽なものに見えた。だから、多少
の同情心から、若い別当に声をかけた。
「漁師連中もあんたの部下達も帰ろうとしてるんだ。あんたも帰って良いんじゃないか?」
 一人その場に残ろうとしている別当は、リショウの声に、はっとしたようにこちらを見た。そして頬
に微かな――疲れたような笑みを浮かべる。
「いや、私は残らねば。」
「部下が帰ろうとしてるのにか?」
 ナチハを横目で見やりながら問えば、その笑みは硬化していく。
「ナチハは私の直属の部下ではないから。」
 その言葉はナチハの耳には届かなかっただろう。リショウも、立ち去るナチハを不必要に凝視したり
はせず、ただ横目で見るだけだ。どういうことだ、と言いかけたが、それを別当にわざわざ説明させる
のは、何か酷なような気がした。
 だから、色々なもので縛られているであろう別当に、出来る限り軽い口調で告げる。
「まあ、あんたがそれで良いって言うんなら良い。また何かあったら声を掛けてくれ。俺は大陸人だが、
一応、この郷の厄介になってるからな。出来る限りのことはさせてもらうぜ。」
「ああ。今日は助かった。また、何かあったら頼もう。」
 いかり肩になっていた別当が、少しだけ肩の力を抜いたのを見て、リショウは自分は原庵の家に厄介
になっているから、と告げる。すると、知っている、と別当は頷いた。
「原庵先生のとこにいなかったら、久寿玉師のリツセのところを覗いてくれ。大抵はその辺にいる。」
「リツセ殿のところに?」
 ナチハは呼び捨てなのに、リツセには殿をつけるのか。リツセが宮家の血を引いているからだろうが。
同時に、抜けていた肩の力が再び入った。その様子に、おや、と思う。宮家と、何かあるのか。それと
もリツセ本人にか。
 心の裡で首を傾げつつも、表情には出さずに頷く。
「ああ、此処に来たばかりの時、色々と世話になったから、その縁が今も続いてる。」
「そうか……。」
 その眼の中に、何か不可思議な光が一瞬だが煌めいた。その光は瞬時に深慮の色に変じている。
 それが何を意味するのか、彼についての知識が少ないリショウには判じられない。ただ、リツセの
名に反応した別当の態度は、リツセと遠い血縁で繋がるリショウには捨て置けないものだった。
 別当への同情と、微かに沸き上がった疑念を心に留め置き、リショウはその場を辞した。枝を踏み
散らしながら、ふと振り返ると、別当は異人達の作業を無言で見つめていた。