昨夜の雨が嘘のように、今朝は晴れている。
 リツセは硬く閉じていた雨戸を開きながら、雲一つない青空を見上げた。差し込む日差しは白く鋭
く、徐々に近づく夏を連想させる。よくよく見れば、木々も昨日よりも青く生い茂っているようにも
思える。
 だが、地面に眼を向ければ、一転して無残にも引き千切られた木の葉や木の枝が、ぬかるみに散ら
ばっていた。これは片付けが大変そうだな、と内心独り言ちながら、リツセは雨戸を次々と開いてい
く。
 湿気た所為で中々開かなかったが、それでも全部の雨戸を開ききり、さて、とリツセは外に出かけ
る支度を始める。
 本当ならば、すぐにでも屋号代わりの久寿玉を表にかけて仕事の呼び込みを始めるところなのだが、
しかし昨日のことが気にかかる。昨日、子供を捜しにやってきたあの女。夢や幻でないことは、貰っ
た羊羹の包みがきちんと戸棚の中に鎮座していることからも明白だ。彼女が何者であるのかは、敢え
て詮索はしない。詮索はしないが、彼女の言っていたことで、幾つか気にかかることがある。
 リツセの耳に入らぬ人攫いの話。それと、宮と海に悪しき者が渦巻いているというのは、どういう
ことか。
 どうにも物騒な予感しかしない。
 流石に宮に入ることは、いくらリツセと雖も簡単にはいかないので、海のほうを見て回ろうかと考
えている。昨日の今日で波が高いかもしれないが、浜辺を歩くのではなく漁師街で聞き込みをする分
には危険はないだろう。
「たま。」
 戸棚によじ登って羊羹を狙っていたたまは、首だけを動かしてリツセを見る。たまとは長い付き合
いであるが、未だに何故そこまで食べ物に執着するのかが分からない。他の水守も、子供のように甘
いものが好きだが、たまはそれに輪をかけているような気がする。
「私は今から漁師街に行くけれども、お前はどうする?羊羹を食べて待っていてもいいけれど、半分
は残しておくように。リショウに渡すから。」
 羊羹とリショウを結びつける発言をすると、たまは目つきを、些かふてぶてしいものに変えた。羊
羹が、リショウの手に渡るのがそんなに嫌か。
 だが、ふてぶてしい目つきをしたものの、今すぐに羊羹を支配しようとは思わないのか、戸棚から
飛び降りると、ぽてぽてとした足取りで、リツセのところに歩いてくる。そしてそのままリツセの脇
を通り過ぎると、玄関の前で立ち止まり、振り返ってきぃと鳴き、リツセを呼んだ。どうやら一緒に
行くつもりらしい。
「リツセ。」
 たまと一緒に玄関をくぐると、ちょうどこちらに向かってきたチョウノと鉢合わせした。向かいの
小間物屋に住む少女は、道を隔てているだけで別に遠くもないのに、息を切らせて駆け寄ってきた。
もしかしたら、さっきまで昨夜の風で飛んできた物の片付けでもしていたのかもしれない。
「リツセ、昨日の夜は風が強かったけど、大丈夫だった?」
 様子を見に行きたかったが止められたと言うチョウノに、それはそうだろう、とリツセは頷く。い
くら向かいとはいえ、嵐の夜に娘を外に出す親はいない。
「こっちは平気。庭に木の枝が落ちているからその片づけをしないといけないけれどね。」
「じゃあ、後で手伝いに行くから。」
 いいよと断るリツセに、チョウノは絶対に行く、と言って譲らない。だが、ふと出かける格好をし
たリツセに気付き、
「あれ、今から何処か行くの?」
「ああ。ちょっと漁師街にね。」
「ウオミに会いに行くの?」
 漁師街に住む友人の名を出され、リツセは小さく苦笑する。先に起きた呪いの件で、ウオミとは少
々会いづらくなっている。
 呪いの件について調べる際、ウオミがリショウとなにやら言い争いをしたことは、リツセも知って
いる。その時、リツセはウオミからしてみればリショウ側についたと思われるような行動をとった―
―単に、リショウと共に呪いについて調べたというだけだが。その件が落ち着いてからも、ウオミは
どうもこちらを避けている節がある。
 おそらく、リショウを邪険に扱ってしまった以上、ウオミとしてはこちらに話しかけにくいのだろ
う、と思う。リツセが気にしなくても、ウオミは気にしている。せめてウオミとリショウが、以前の
ように当たり障りのないものに戻れば良いのだろうが、どうもウオミの中にはリショウに対する反発
のようなものが産まれてしまっている。それは、ウオミの祖父であるワタヒコが、そこそこリショウ
に対して好意的であることも関係しているだろうが。
「ねえ、ウオミと喧嘩でもしたの?」
 チョウノが、上目遣いに尋ねた。
「いいや。」
「でも、最近会ってないみたいだし。もしかして、あいつのせい?」
 あいつ、というのはもしかしなくても、リショウのことか。
 そういえば、チョウノもリショウに対しては妙に反発していた。
 知り合い達の、リショウへの当たりについて、どうしてか、と頭を悩ませるリツセの脚元で、たま
がきぃと鳴いた。
 円らな眼でリツセを見上げるたまは、行かないのか、と問うている。
「チョウノ、悪いけど、たまが痺れを切らしてる。また後で話そう。」
 そう言い置いて、チョウノの返事を聞かずにリツセは歩き始める。先導しているつもりなのか、た
まが尻尾をゆらゆら揺らしながら、リツセの前を歩き始めた。
 背後でチョウノが、帰ってきたら呼んでね、と叫んでいるのが聞こえた。




 嵐が明けた街並みは、随分とこざっぱりとした表情と、雑然とした顔の二つを持っていた。ぬかる
みは多く、あちこちに水溜りは出来ているが、日ごろの汚れはさっぱりと拭い去られている。だが、
ちょっと辻の端に眼を向ければ木の枝や木の葉が堆く積もっている。
 風で飛ばされてきた塵は、誰かが掃き集めたのだろうが、その跡が泥のようになり、透明だったで
あろう水溜りを茶色く濁らせてしまっているのを見るのも、妙な気分だった。
 先を行くたまは、誰にも掻き混ぜられていない水溜りだけを選んで、その上を水音を立てながら歩
いていた。犬猫ならば水溜りは避けるであろうが、泳ぎに長けた水守は、水溜りなどへっちゃらであ
る。
 水守達が交通の要として使用している、瀬津郷のあちこちに張り巡らされた水路も、ひょいと覗き
こめば子供が近寄ることを注意したいくらいの水嵩となっていた。おそらく、向日河からの水が流れ
込んだのだろう。水と一緒に、大きな鮒や鯉も、黒々とした鱗を閃かせて水路の底を泳いでいる。
 しかし妙だ、とリツセは水嵩を増やした水路の縁を見ながら、首を傾げた。
 いつもなら、こうして鮒やら鯉やらが水路に迷い込んできたなら、水守達が寄り集まって、これら
を水揚げするのだが。水揚げした魚は、彼らが住処としている家に持ち運ばれ、そのまま食卓に上が
るのが常である。
 だが、今日はそういった水守の集まりが何処にもない。水守達自体は、あちこちの屋根の上やらで
見かけるのだが、どうもいつもの気の抜けたような呑気な姿をしていない。その様子が、どうもきな
臭い。普段と変わらないのは、今のところたまだけのように見える――もしかしたら、水溜りに足を
突っ込んでいる彼も、リツセの考えも及ばぬことを裡に秘めているのかもしれないが。しかし、昨夜
の女のこともあって、水守達の様子が何処となくおかしいのが、気にかかる。
 そうこうしているうちに、漁師街に辿り着いた。漁師街は、海が近いこともあってか、他の居住区
よりも随分と慌ただしい。おそらく、嵐が去った後の港の修復に漁師連中も駆り出されているのだろ
う。
 そう思って見ていたのだが、妙なことに気づく。沖合に、船がぽつぽつと出ているのだ。もう漁に
出ているのか、と少しだけ驚いた。確かに漁師にとって海に出れないことは食い扶持に関わることだ
が、しかし桟橋を修理しないままに漁にでたりするものだろうか。それとも、もう修理は終わったの
か、被害が思ったほど少なかったのか。
 理由は、あちこちから聞こえてくる人の話を聞きかじっていると分かった。どうやら、大陸から来
た商人の船が昨夜のうちに何処かに流されてしまったらしい。それで、漁師達は駆り出されて、その
船を探しているらしいのだ。
 きちんと繋いでおかなかったのか、と眉を顰めていると、どうやらもっと珍妙なことであるらしい。
 流された船は、嵐の夜に酔っ払っていた文字通り酔狂な者の言い分を聞く限りでは、どういうわけ
だか向日河を登っていったらしいのだ。漁師達は普通の考えで沖合を探しているが、酔っ払いの言葉
を信じるならば、河の上流も探さねばなるまい。
 だが、大陸から来た船を、ああも漁師が大挙して探すなど、今まであっただろうか。やはり、首を
傾げざるを得ない。
 慌ただしい漁師街の中、リツセが首を傾げていると、ぐいと腕を引かれた。そこまで強い力ではな
かったが、ぼんやりとしている時だと、体制を崩すには十分である。
「そんなところにいると、危ないわ。」
 腕を牽いたのは、警邏衆のナチハであった。瀬津郷を見回る役割を担う彼女は、何が起きたのか誰
よりも把握しているに違いない。
「何があった?」
「大陸から来た商人の船が流されたのよ。」
「それは知ってる。河を遡ったんじゃないかっていうのも。でも、何故船一つを探すのに、あんなに
漁師がいるんだ?」
「別当殿の意向よ。」
 ナチハが皮肉っぽく、小声で告げた。
 別当とは、検非違使の頭であり、都から直々に配属される役人である。今までは、髪が銀かと見紛
うほど美しい白髪の、老別当殿が瀬津に赴任していたのだが、そちらは年が明けた頃に帰任した。そ
して新しい別当が配属されたのだ。
 検非違使が司法と治安を担う機関であったから、別当の権限はそれこそ絶大だ。だが、瀬津郷には
宮家がいる。宮家は、分家とはいえ都に坐す帝と血縁関係にあたり、瀬津郷に君臨する権限を与えら
れている。従って、別当は己の権限と宮家の権限の折り合いをつけることが重要なのだが、しかし先
程のナチハの声音を聞く限り、新しい別当はそれが上手くできていないようである。
「大陸人から来た船が流されたことを放置しているなんて葦原国の名折れ、なんとしてでも捜しださ
ねば、って息巻いていたわ。」
 言葉の裏に、葦原国の名誉よりもあんたの地位が重要なんでしょう、という嘲笑が透けて見える。
 リツセは、別当殿に会えるような立場ではないので、その姿は知らない。ただ、まだ若いと聞く。
若さ故に功を焦っているだけな気もするが、同じ検非違使であり、且つその下につかねばならぬナチ
ハにとっては、それ以外のものも見えているのかもしれない。尤も、ナチハは都から配属された役人
ではなく、瀬津郷にて宮家に取り立てられた検非違使であるから、点が辛くなっているのかもしれな
いが。
「でも、河のほうはどうするつもり?酔っ払いの言い分では河を遡っていったらしいけれど。」
 まさか、酔っ払いの言い分を確かめるために役人の手を煩わせるわけがないだろう。だが、放置し
ておくわけにもいかない。
「だから、とりあえず馬に乗って川沿いを探してみることにしたわ。」
「それだって、役人がするわけじゃないだろう?」
 だが、馬に乗れるものは少ない。役人ならば、その御役目上、馬に乗れねばならないだろうが。
「そうそう、馬に乗れる助っ人がいるとも思えないけど。」
「いる。」
 ナチハは言い切った。その肩ごしに、若者が二人駆けてくるのが見えた。一人は、悪さをしてその
償いとして検非違使の手伝いをしている遊び人だ。そしてもう一人。癖のある髪と、瀬津郷では長身
の部類に入る、見慣れた人影。
 ナチハとリツセの前で立ち止まった彼は、息を整えるよりも先に、声を上げた。
「リツセ?」
 どうして此処に、とリショウは首を傾げた。