しかし、巨大水守が現れて診療所の片隅を占領したからといって、診療所がそのまま休みになるわ
けでもない。病人や怪我人達は相変わらず、不安とも愚痴ともつかぬことを誰彼かまわず話続けてい
る。患者同士で話をしているならともかく、その果てに口喧嘩らしきものが始まれば、原庵もそち
らの様子を伺いに行ってしまう。
 リショウも、がたがたと物音がする場所が、立て付けが悪くなっており風の侵入を許したりしない
かを見に行かなくてはならなくなったりして、結局それ以上、むにに構うことはなくなった。
 むにも流石に長年診療所に住み着いているだけあって、何やら煩くしてこちらの手を煩わせること
もない。くうくうと寝ている。三匹の水守達も同様である。彼らは騒がしい人間達を他所に、先に身
を休めることにしたようだ。
 そんな水守達と一緒に、リショウが眠ることができたのは、夜半を過ぎた頃合いであった。相変わ
らず風は轟々と鳴っていたが、流石にその時刻ともなれば患者達も大人しくなり、彼らが愚痴を言う
たびに、原庵やその他の医者が駆けずり回ることもなくなっていた。それを見たリショウも、ようよ
う眠ることができたのである。
 幸いにして眠りは深かった。おかげで、疲れはまるで残っていない。ただし、目覚めは宜しくなか
った。
 リショウが目を覚ました瞬間、顔面にぱたりと白い何かが覆いかぶさってきたのである。
 わざわざなんであるかを考える必要はない。水守である。覆いかぶさってきた影が、その形をして
いた。しかし問題は、リショウにそのようなことを仕出かす水守――主にたまであるが――は、此処
にはいないことである。
 何者か、と思い顔にへばりついている水守を、身を横たえたままひっぺがすと、三匹の水守のうち
の一匹であった。のそ、と上半身を少しだけ起こせば、残りの二匹はリショウの腹の上で、ころころ
と転がっている。
 リショウは完全に身を起こすと、自分の顔面に張り付いた水守を見下ろす。円らな眼で見上げてく
る水守は、自分が悪いことをしたとは、微塵も思っていない顔をしている。このままでは、この水守
は第二のたまになってしまう。
 なので、リショウは水守にしっかりと言い聞かせることにした。
「おい。いいか、人の顔にへばり付くなんてことは普通はしたら駄目なんだ。たまは毎回やってるっ
てお前達は思うかもしれないが、あれは本当は駄目なんだ。いいか、たまみたいになったら駄目だ。」
 まるでたまが駄目水守のような言い様であるが、リショウは本気である。今は一匹だけがたまの真
似をしているが、そのうち残りの二匹もたまの真似をし始めて、かつ彼らがたま並の大きさになって、
一度にリショウに飛び掛かられようものならリショウも流石に身の危険を感じる。
 リショウが大真面目に水守に話している間、隅のほうで寝ていたむにが、のそのそと動き始めた。
巨大水守は、人間と小さい水守の会話などどうでも良いのか、一つ欠伸をすると、さっさと自分で扉
を開いて外に出ていく。
 さて、小さい水守達に、滾々と自分に飛び掛からないようにと言い含めていたリショウは、水守達
が円らな眼でこちらを見上げるだけという反応に、なんだか徒労感を覚え、それ以上言葉を重ねるこ
とを止めた。何故疲れを落としたばかりなのに、徒労感を味合わなくてはならないのか。
 水守達を身体の上から追い落とし、立ち上がって顔を洗いに外に出ようとした。その時、さっきむ
にが出ていったばかりの外から、のわぁという叫び声が聞こえた。ザイジュである。
 己が臣下の、薄らと間の抜けた叫び声に、さては、むにと鉢合わせでもしたか、と呑気に思いなが
ら、リショウは声が上がったほうへと向かう。
 故郷には、水守のような不可解な生き物はいなかった。リショウも含めた大陸人は、葦原国にやっ
て来て初めて、水守という生物を見るのである。
 リショウもだが、ザイジュもヨドウも、水守と初めて接する時はおっかなびっくりであった。水守
と人との距離は、犬や猫のそれよりも遥かに近い。しかし、人に飼われいてるわけではない。人の住
まう場所に時には人よりも長く住み着き、人と同じ物を食べ、けれども実は人の庇護など微塵も必要
としていない。もしも、この郷にある数多の精霊が形を成せば、それは水守の形をしているのかもし
れない。
 ならば、水守はやはり、ヒルコの化身と言われているとおり、獣よりも神に近いのだろう。
 そんな神に近い生物に大分慣れたとはいえ、流石にむにのような巨大水守を始めて見れば驚く。昨
夜、リショウが一瞬凍り付いたように。ザイジュが叫び声を上げても仕方がない。
 と思いつつ行ってみれば、リショウも叫び声を上げそうになった。
 井戸の前、若干引き気味のザイジュがいる。そしてその足元に。確かに形は水守であった。しかも
でかい。
 が、厚みがない。
 水守は全体的に丸っこいのだが、それは上から見れば丸っこいが、横から見ればまるでぺらぺらで
あった。
「なっ。」
 叫びこそしなかったが、言葉に詰まった。
 やってきたリショウに気が付いて、ザイジュは恐る恐ると言ったふうで振り返る。そしてリショウ
とぺらぺらの水守を何度も何度も見比べる。いや、リショウとそれを見比べてもなんにもならないだ
ろうに。
 ぺらぺらの巨大水守に戦々恐々としている臣下の傍に――正確にはぺらぺらの水守の傍に――リショ
ウも恐る恐る近づく。
 近づけば近づくほど、それはぺらぺらであることが分かる。そしてその白い毛並みから、やはり水
守であろうことも。
「………なにがどうしてこうなった?」
 リショウは、視線だけをザイジュに向けて問う。
「わ、私が来た時には既にこんな変わり果てた姿に!」
 ザイジュが顔を引き攣らせながら応える。つまり、むにが外に出てからザイジュがやって来るまの
で短い間に、こんなふうにぺらぺらに潰れる出来事が起こったわけである。
「一体何が。」
 呟いてみても、まるで分らない。
 リショウは意を決して、その辺に落ちている棒切れを拾うと、ぺらぺらになった水守の下に棒を差
し込み、少し持ち上げてみる。予想に反して、潰れた水守はあっさりと地面から離れた。血の一滴も
流れない。
「……………。」
 白い身体の下は大惨事になっていると予想していたリショウは、あれ、と思う。そして、頭の中で
疑問が、何が起きた、から、これは何だ、に変わる。
 と、騒ぐ人間二人の横を、胡散臭そうな眼付きをした巨大水守が通り過ぎていった。むにである。
 むにはちらちらと人間達を眺めながら、しかしさっさと再び診療所の中に入っていく。
「り、リショウ殿!あの巨大なトカゲは一体!」
「トカゲじゃなくて水守な。診療所に住み着いてる、ヌシみたいなもんらしいぞ。」
 むにが診療所に入ってから、呪縛が解けたようにザイジュがリショウに問い質す。それに殊更冷静
に返しながらも、リショウは眼の前にある物体について考える。むにはあのように
「リショウ殿。おはようございます。」
 つらつらと考えるリショウの耳に、野太い声が入ってきた。顔を上げれば、ヨドウが物々しく一礼
している。
「診療所のほうは如何でしたかな。長屋のほうは、脇に生えていた木が風で一本折れた程度で、特に
大事はありませんでしたが。」
 ヨドウの眼にも、ぺらぺらの水守は入っているはずである。が、それを無視してまずは昨夜の雨風
の被害状況を伝えるのは、流石である。おそらく、この場にいないであるグエンも同じであろうが。
そして、きっとリショウが診療所の被害状況を口にするまで、ぺらぺらの水守については触れまい。
「診療所のほうも問題ない。病人や怪我人の容態が悪くなったっていうことも、今のところはなさそ
うだ。まあ、患者については俺達は門外漢だからな。原庵先生達に任せよう。」
 リショウの言葉に、ヨドウはゆっくりと頷く。
「グエン殿は折れた木の処分について、差配人と話しております。後ほど、こちらにもやって来るか
と。」
「分かった。」
 今日まだ姿を見せぬ忠臣について語り終え、して、とヨドウはようやく、主と同僚が凍り付いてい
る原因を口にした。
「その白い物体は一体なんでありましょうか?」
「なんだと思う?」
「見たところ、毛皮のように覆えますが。」
 それだ。
 あっさりと答えを言ってのけた臣下に、リショウは頷く。これは、水守の皮だ。どういう仕業か知
らないが、水守がここに皮を置いていったのだ。皮の持ち主は、間違いなくむにだろう。
 リショウは脱ぎ捨てられた皮を持ち上げる。ふわふわのそれは軽く、指先まで綺麗に水守の形をし
ている。
 それを持って診療所に戻ると、おや、と原庵が眼を見開いた。しかしそれは、水守が皮を置き去り
にしたことについて驚いているのではない。
「そうか、もう水守が脱皮する季節なんだねぇ。」
 しみじみと呟く原庵に、瀬津郷では普通のことらしいと納得した。
 水守の毛皮であると理解した段階で、薄々、別に珍しいことではないのだろうと心の片隅では思っ
ていたが。
 しかし、そうか。
「水守って脱皮するのか…………。」
 初耳だった。
 そして確かに蛇の脱皮よりも、見事な脱皮である。
「この皮、どうするんだ?」
 まさか捨てるなんてことはあるまい。思っていると、案の定、原庵は大切にしまっておこう、と言
った。リショウから水守の皮を受け取ると、原庵は丁寧に畳み始める。そして畳みながら何気なく言
う。
「きんとき、しらたま、まっちゃも、そろそろ脱皮するはずだよ。」
「…………。」
 きんときは分かる。三匹の水守のうちの一匹だ。では、しらたまとまっちゃは。残りの二匹の名前
か。
 ここへきて、とうとう水守の名前が判明した。しかし名前が分かっても、区別ができないのだが。
リショウを円らな眼で見上げるきんとき、しらたま、まっちゃを見下ろすが、やはり全てが同じに見
える。
 何か違いはないのか、と思い三匹を見比べるが、体型も体格も同じである。もちろん、斑点のよう
な模様もない。一体、瀬津の人々は何処で水守を区別しているのだろうか。それとも原庵のように、
長年瀬津で暮らしていたら、自然と分かるようになるものなのか。
 リショウが以前から思っていた疑問を、ふつふつと沸き上がらせている時、何かがけたたましく、
診療所に近づく気配がした。
 前に診療所に刀を振り回した男が押し入った時のことを思い出し、リショウははっとした。すっと
身構えたリショウの前で、診療所の扉が勢いよく開かれる。
 幸いにして、診療所に飛び込んできたのは刀を持ったならず者ではなく、かつては確かにならず者
ではあったが今は検非違使の元で働くようになった若者であった。
「すまねぇ先生、悪いが男手を借りたいんだ。」
息を切らせてやってきた若者は、原庵を見ると頭を軽く下げ、しかし挨拶もそこそこに本題に入る。
「何事だい?」
「異人が乗ってきた船が、昨日の雨風で流されちまったのさ。それで大騒ぎして、今、漁師連中総出
で探してるところなんだ。」
 船が流されたというのなら、沖に行ってしまったのだろう。それを漁師連中が探しているというの
なら、今更漁師でもない誰かの手など必要なさそうなものだが。しかし、若者は首を横に振る。
「それがさ、昨晩、酒を飲んだ帰りに流される船を見たって奴がいるんだ。」
 酔っ払いってのは天気も何も関係ないんだね、と若者はかつて自分も無茶な生活をしていたことを
棚に上げて肩を竦める。
「そいつが言うには、船は向日川を上って行ったって言うんだよ。酔っ払いの言うことだから真に受
ける気はしないけど、一応確認しとかないとね。」
 馬を準備するから川沿いを見てきてほしいのだという。だが、普通の町人が馬に乗れるはずもない。
つまり、最初からリショウ達を当てにしていたのだ。
「俺は構わないぜ。」
 リショウが答えながら原庵を見ると、原庵も頷いて
「行っておあげなさい。」
 私も、と声を上げたザイジュを、リショウは制する。
「お前達は此処に残れ。後片付けやらもあるだろうし、それにあの雨風の中を歩き回る酔っ払いがい
るくらいだ。怪我人が運ばれてくるかもしれない。そちらにも人手はいるだろう。」
 あと、とリショウは原庵にもう一度向き直る。
「リツセの家の様子も見てくる。あの家には、リツセとたましかいないから。」
「いいよ。行っておいで。」
 原庵は小さく笑った。