夜になると、風は悲鳴のような声を上げ始めた。遠く遠くから聞こえる、むやみやたらに音を出す
だけの笛に似た風音に、リショウは眉を顰める。海からやって来る強い風は、波のように潮の匂いを
鼻に届けるが、そこに微かな不安の匂いがある。
 ぼたぼたぼたと屋根を打つ雨音も、風に叩きつけられている所為かいつもよりも音が大きい。げろ
げろという蛙の声も、今夜ばかりは鳴りを潜めているのが、やはり不安を掻き立てた。
 けれども原庵の診療所の中は、風も雨も夜も知らぬと言わんばかりに満杯である。いや、これは逆
に、雨風を心配に思った患者達が、診療所に泊まり込むことを選んだのだ。
 患者達が言うには、これほどに雨風が強くては、もしも自分達の具合が悪くなったその時に、先生
がこちらにこれないかもしれない。ならばいっそ診療所に泊まったほうが安心というもの――という
ことらしい。
 随分と都合の良い話である。
 しかし、原庵はといえば相変わらず好々爺然とした顔立ちで、診療所に押しかけた挙句、あっちが
痛いだの咳が出るだの、ぶつぶつと愚痴を言う患者達の話を聞いている。
「まあ、不安に思うのは仕方ない。」
 一通り、病人怪我人の愚痴を聞いて回った原庵は、苦笑を浮かべながら言った。
「こんなに風が強いのはこの国では珍しいことじゃない。秋頃に、野分という瓦も吹き飛ぶ風が吹く。
けれども、この時期には珍しい。」
 風が吹いて家屋が倒壊することもあるのだから、長雨の時に確かにそれは不安だろう。
「それに雨が続くと地崩れの恐れもあるしね。そういう時、やっぱり怪我人や病人は身体がままなら
ない事もあるから、心細い。家族がいても、その家族にとって自分は邪魔になっていると思ってしま
う。なら、何かあった時に迷惑がかからないように、診療所にいたほうが良いと考えるんだろうね。」
「診療所が風に飛ばされることだってあるだろうに。」
 リショウがむっつりと呟けば、原庵は続ける。
「診療所が何か難事に会うなんてことは、彼らは考えないんだよ。それに、それ以上に此処には自分
と同じ境遇の人が大勢いるからね。心強いのさ。」
 それに、と原庵はリショウの肩を、皺だらけの手でぽんぽんと叩いた。眼には、ちらりと茶目っ気
のある光が灯っている。
「私のところには心強い助っ人がいるからね。」
 頼りにしているよ、と続けられ、リショウは頷くしかない。現に、リショウはその為に診療所に残
っているのである。
 普段なら、宵も暮れたこの時間帯、リショウは臣下達と共に長屋に引っ込んで、寝る支度をしてい
るところだ。けれども診療所はごった返し、しかも病人達は此処に泊まるのだと言い張っている。
 流石に原庵一人では捌けないから、他の若い医者達も診療所に泊まることになったが、しかし気に
なるのは、やはり外で荒ぶっている風である。もしも風で扉がすっ飛んだり、柱がみしみしと音を立
てようものなら、老いた原庵はもちろん、力仕事が得意そうには見えない若医者達では事を治められ
まい。
 そういうわけで、別に力仕事がめっぽう得意というわけではないが、そこは長旅の経験があり、普
通よりも体力のあるリショウが診療所に泊まり込むことになったのである。
 別に、リショウの臣下達が此処に残っても良かったのだが、彼らには女衆や子供のいる長屋を任せ
ることにした。そして、今のリショウには三人の臣下の代わりに、三匹の水守が付き従っている。
 三匹の水守達は、皆、一様に神妙な顔をして部屋の隅に固まっていた。いつものように、ぴょんぴ
ょんと跳ねてリショウの周りを付き纏うこともない。
 もしかして、怖いのか。
 そう問えば、抗議するように三匹は、きぃきぃと鳴くが、風がごおっと吹く音が響けば、ぴたりと
鳴き止む。やはり、彼らも心細いらしい。ぴったりと身を寄せ合ってリショウを見上げている。
 無理もないか、とリショウは水守達の短い手足を見ながら思う。彼らの紅葉のような手は、握る力
が非常に強く、爪がないのにするすると木に登れるほどだ――これは、木目をしっかり握っているか
らできる芸当である。が、そんな握力を持つ水守達も、強い風の前にあっては、吹き飛ばされてしま
うのかもしれない。短い手足では、そこまで耐えられそうにないし。
 ぽーんと吹き飛ばされていく水守を想像して、おかしいんだか、かわいそうなんだかよく分からな
い気持ちになったリショウは、とりあえず水守達の頭をそれぞれ撫でておく。
 撫でながら、でも、たまが吹き飛ばされていくところは見てみたいな、とちょっとだけ思う。あの、
ずうずうしくふてぶてしい水守が、風にたなびいているところは、それなりに面白い。面白い、が、
飛ばされた挙句、リショウの顔面にぶつかってきそうではある。
 結局、自分に被害が及ぶことを想定し、溜め息を吐く。吐きながら、そういえばあの家は大丈夫な
のか、と思う。
 たまが塒にしているリツセの家は、リツセとたましかいない。周りの職人達は、向かいの小間物屋
のチョウノも含め、何かあればリツセに手を貸してくれるだろうし、海からも山からも離れているか
ら大丈夫だろうとは思うが。しかし、ザイジュ辺りに診療所を任せて、どこかで様子を見に行ったほ
うが良いじゃないだろうか。
 そう思いながら水守達の頭を撫でていると、こんこん、と診療所の扉を叩く音が聞こえた。
 風が木板を叩く音ではない。規則的に、こんこん、と二回叩いた後、一拍置いてから、また、こん
こん、と叩く音だ。
 誰か来たのだろうか。急な病人か、それともこの雨風の中をふらふらと歩き回っていて怪我をした
輩か。
 原庵は病人達の見回りに再び腰を上げていないし、そもそも先だっても悲鳴のような風が通り過ぎ
たばかりの扉を、かくしゃくとしているとはいえ老いた原庵に開かせるわけにはいかない。
 リショウは水守の傍を離れ、こんこんと音を立て続けている扉へと向かう。
「どちらさんですか?」
 扉越しに問えば、返事はなく、こんこんと扉を叩く音だけが返ってくる。気配を窺えば、何かがい
るような気もするが、何がいるとまでは言い切れない。ただただ、扉を叩く音だけが聞こえてくる。
 リショウは、背後で聞こえる診療所の奥で交わされている原庵と患者達のやりとりに振り返り、再
び、こんこんと鳴り続ける扉に向き直る。
 奇妙だ。そしてもしもこれが、背後に誰もいない風と雨だけが鼓膜を打ち鳴らす静寂の中で成され
ていることだったなら、不気味以外の何物でもなかっただろう。幸いにして、今は原庵や若医者、患
者達、そして水守がいる。
 それに、リショウはこういった現象についてあれこれと考え、そのまま先に進まないというのは性
に合わなかった。
 だから、風でがたがたと揺れている扉を、何度目かのこんこんが終わった時に、大きく押し開いた。
 軋みつつも、がらりと開いた湿気た扉は、途端に強い潮の香りを引き連れた風の侵入を許した。生
臭いほどの潮の匂いと、眼に刺さるような雨粒と風に、リショウは顔を顰めた。そして、開いた先に
は如何なる影もない。
 眼の前に広がる、銀の針の雨が降りしきるだけで誰もいない光景に、リショウは口を噤んだ。
 が、すぐに、いや、と首を横に振る。
 いる。
 ひたひたと押し寄せる、玄関先の水溜りの波紋の真上に、それはいた。のっぺりと白い体躯を重そ
うに動かし、診療所の中を荒らす風とは対照的に、堂々とゆっくりした足並みで、診療所の敷居を跨
いでいる。
 頭から尻尾の先までの大きさは、ゆうにリショウの腰ほどまではある大きさの――水守であった。
 絶句するリショウなど歯牙にもかけず、ゆらゆらと尻尾を揺らしながら、リショウの脇をゆうゆう
と通り過ぎていく。ぽたぽたと身体から落ちる水滴を軌跡として、その果てに、診療所の部屋の隅に、
どっかと腰を下ろした。その一角を我が物顔で占領すると、猫のようにとぐろを巻いて、自分の尻尾
の上に顎を乗せて休む体制に入る。
 此処までの間、それが、リショウを見ることは一度としてなかった。無視された態のリショウは、
しばらく固まっていたが、未だ荒ぶる風に慌てて扉を閉めると、既に眼を閉じて眠ろうとしているそ
れの元に駆け寄る。そして、それとは別の場所に固まっている三匹の水守と、それを見比べる。
 それの身体つきは、紛れもなく水守であった。三匹の水守と全く同じ身体の構成をしている。丸み
を帯びたトカゲのような身体。短い手足。ひれのある尻尾。そして今は閉ざされているが円らな眼。
 水守である。
 ただし、でかい。
 リショウは当然のようにずぶ濡れで人様の家に上がり込み、挙句眠ろうとしているでかい水守の前
に駆け寄る。そしてその不遜な――たまも大概であるが、この水守も大概である――水守を怒鳴るな
りなんなりして起こそうとした時、
「おや、むにが来たのかい。」
 戻ってきた原庵の声に、阻まれた。むにと呼ばれた水守は、少しだけ眼を開き、きぃ、と鳴いてみ
せると再び眼を閉じた。
 それよりも。
「むに。」
「ああ、リショウは初めて見るのだったね。この水守は、むにと言ってね。昔からこの診療所に住み
着いているんだよ。」
 知っている。ワタヒコに聞いた。巨大な水守が住み着いている、と。
「雨と風で寝床が駄目になったのかな?こうして診療所の中に入ってくるのは久しぶりだねぇ。」
 既に寝息を立てている水守を、何やら嬉しそうに語る原庵。水守の周りには水溜りが出来始めてい
る。それを見た原庵は、手拭を持ってきて、むにの身体を拭き始める。そうされても、むには起きよ
うとしない。
「勝手に入り込んできても、良いのか。」
 たまも、三匹の水守も勝手に住み着いているらしいから、良いんだろうな、と思いながらも問うて
みる。すると、案の定頷きが帰ってきた。
「良いも何も、むにのほうが先に住んでいたからね。」
 原庵がこの地に落ち着き、診療所を此処で開いた時には、既にこの診療所には、むにが住み着いて
いたのだ。
「なんでも、前の持ち主が来た時から既にいたらしいよ。」
「どれだけ長生きなんだ………。」
「さて。」
 原庵は首を傾げる。
「百年くらいは生きるんじゃないか、と代々瀬津で暮らしてきた人は言うね。」
 何処かには、もっともっと大きな水守がいるのだとか。宮様達が暮らす社を囲う鎮守の森には、齢
数百年を生きる水守がいるのだとか。
 そして、中には人の言葉さえ話すものもいるのだとか。
 そしてそれこそが、ヒルコ大神なのだ、とも。