リショウがぶつぶつ言いながら帰った後、急に風が出てきた。
 リツセは、ひょいと頭だけを縁側に出して、鈍い色の雲が渦巻いている空を見上げ、これは時化る
な、と思った。夜になればもっと風が吹き、海は大荒れだろう。陸に上がって管を巻いている漁師達
も、おっとりがたなで船を海から引き離しているかもしれない。
 今日は、早めに雨戸を閉めてしまおうか。
 雨で客足が遠のいているとはいえ、店は一応開けてはいる。しかし雨だけではなく風も出てきたと
なれば、客はまず来ないと考えて良いだろう。
 久寿玉は紙を組み合わせて作ったものだ。外に飾る時のことも考えて、膠で補強するとはいえ、や
はり雨風に強いものではない。普通の人ならば、物見遊山の客であっても、こんな日に久寿玉を手に
入れようとは考えないだろう。
 普通ではない客は、どうか知らないが。
 リツセは足元から視線を感じ、そちらにちらと眼を落とす。たまが、背中に小さな水守を背負って、
こちらを見上げていた。身をかがめて、首筋をこりこりと掻いてやると、眼を細めて、きゅう、と声
を上げる。
「屋号を仕舞わないとな……。」
 屋号代わりに出している六連の久寿玉。あれも、屋根の下にあるとはいえ、外にあることに変わり
はない。父が作り、しっかりと膠が塗りこめられていても、雨風に強いとは言い切れぬ。早く家の中
に引っ込めて、乾かしたほうが良い。
 リツセが店のほうへと向かうと、たまも背中にちびを乗せたまま、てくてくと付いてくる。
 足音も立てない水守を侍らせて、リツセが店の中に降りると、そこは煌々と明かりが灯るだけの誰
もいない空間になっていた。
 少し湿気た空気が漂う店の中を割り、リツセはひんやりとした引き戸を開く。店の外へと繋がる扉
は、雨の所為で少し開きにくかったが、それでもリツセの力で難なく開いた。
 途端に、さっと耳を打つ雨音。
 ざあざあという音の高低に従って、けぶる視界の白い模様も変化する。風が強くなってきたから、
その斑もひとしおだ。
 リツセの店の周りからは、職人達の声が賑やかに聞こえているが、雨と風が強くなったせいか、先
程よりも幕一つ隔てたかのように聞こえる音が小さい。ゆっくりと人の世界どうしが離れていくよう
だ。
 雨の日は、人ならざるものが浮かび上がりやすい。
 人が家に籠り、人気が薄くなるからだろうか。人の気配が雨によって遠く閉ざされるからだろうか。
しかし逆に、人が行き交う辻には、人の気が淀み、マガツジのようなものが現れる。
 おかしなことだ、と屋号代わりの久寿玉を降ろしながら、リツセは思う。
 人がいなくても人が多くても、彼岸は此方側に近づいてくる。人が居ない時は人の気を捜すように。
人が多き時はそれを貪るように。
 誰かの声は遠くに聞こえるが、白い針のような雨で気配は遠ざけられた街並みのそこかしこに、薄
らと何者かの影のようなものが見える気がして、リツセは顔を顰めた。彼らが――良きものであれ悪
きものであれ――店の中に入り込むことは好ましくはない。
 リショウが来たおかげで、その気配に掻き回されて、良くないものはほとんどが散り散りになった
ようだが、しかし少しばかりは、まだそこかしこに蹲っている。蟠って人の中に付け入る隙を伺って
いる。
 やはり、店は閉じてしまおう。
 リツセは六連の久寿玉を右手に店の中に戻る。足元ではたまが、相変わらず円らな眼でこちらを見
上げている。この水守もまた、人ならざる気配に気が付いているのかもしれない。彼らは人ではない
が故に、やはり人ではないものを見ることもできるのだろう。
 きぃきぃ。
 背中にちびを乗せたまま、たまが子供のような声で鳴く。それと同時に、いつの間にかリツセの足
元には、一つの影が落とされていた。はっとして顔を上げれば、店の玄関先に、朱色の傘を差した人
影が浮かび上がっていた。
 海老茶に白いかすりのある単に若草の上着。雨だというのに白い足袋に少しの汚れもなく、鼻緒は
浅黄色だ。遠目に見ても分かる派手な様相だというのに、何故気が付かなかったのか。
 リツセの眼前にまで迫っていた人影は、す、と傘を少し持ち上げて顔を見せる。三十路を越えたか
と思われる、黒髪を丁寧に結い上げた上品そうな女だった。傘を持っていないほうの手には、紫の風
呂敷に包まれた四角い物を持っている。
 何処かの大店の奥方かとも思ったが、しかしそれにしては連れがいないし、そのような身分の女な
らこんな雨の中やってきたりはしないだろう。
「いらっしゃいませ。」
 何者かは分からぬ。
 だが、店に来た以上は客であり、リツセは迎え入れる言葉を出す。女はリツセの声にするりと店の
中に入り込み、器用に片手で朱い傘を閉じた。
  「突然お邪魔して申し訳ありません。わたくしの坊やを捜しておりますの。」
 女は、開口一番の謝罪の後、そう告げた。黒い円らな眼でリツセを見つめ、口元には不可思議な笑
みを湛えている。
「お子様、ですか………。」
 唐突な出現と言葉に、リツセは一瞬面食らった。女の言葉を小さく繰り返す。
「こちらにお邪魔していると伺ったものですから。長々とお邪魔しているのもご迷惑でしょうから、
迎えにきましたの。」
 微笑みと共に吐き出される言葉に、さて、と首を傾げたところ、ぽん、と足に何かがぶつかる衝撃
がした。ちょうど、たまが気を惹くために足にぶつかってきたような感じだ。
 脚元を再び見下ろせば、予想に反して、そこには白い水守ではなく、リツセの膝をようよう超えた
かと思われる背丈の子供が立っていた。
 その子供は、今リツセの目の前にいる女に良く似た円らな眼でリツセを見上げると、視線を女に移
し、ぽてぽてと女の脚元へと走っていく。己に走り寄る子供を見て、女は不可解な笑みをますます濃
くし、坊や、と声を上げた。
 しゃがみこんで腕の中に子供を迎え入れると、女は口調は叱るように、しかし声は甘く子供に語り
掛ける。
「坊や、一人で遠くへ行っては駄目と言ったでしょう。心優しい方に助けて貰えたから良かったもの
の、人攫いに会ってしまったらどうするの。」
 抱擁する母子にリツセは眼を細め、
「無事にお会いできたようで良かったです。近頃は野良犬も多いですし、雨の日は人も少ない。子供
一人では心配ですよね。」
 リツセの言葉に、子供に頬ずりしていた女は、ほんとうに、と強く頷く。
「野良犬もですが、最近は人攫いも多いそうで。わたくしの近くに住む者の坊や達も攫われてしまっ
たとのことです。近々人攫いの根城に攻め入るそうですが、坊や達の無事と親御さん達のことを考え
ると、堪りません。」
 女の言葉に、リツセは少し、訝しむ。人攫いのことは初耳だったからだ。いくらリツセが、最近は
店に閉じこもりっきりだったとはいえ、野良犬のことはきちんと噂として耳に入ってきていた。それ
以上に大きな、人攫いの問題が聞こえないというのはおかしい。
 だが、女はリツセの疑問に気付かないのか、先程から全く変わらぬ同じ調子のおっとりとした声で
続ける。
「この子も、こちらのお宅に伺っていると聞くまでは気が気ではありませんでした。こちらにいるの
なら安心だとは思ったのですが、居ても立ってもいられずに迎えに伺ってしまいました。」
「ええ…………。」
 小さな呟きを零しながら頷くリツセに、女は傘を降ろした手で子供を抱き上げ、困ったように微笑
みかける。
「親子して急に押しかけるような真似をして申し訳ございません。こちらはせめてものお詫びとお礼
の品です。どうぞ、お受け取りください。」
 差し出される、桔梗色の風呂敷包み。何処からどう見ても、良く見かける包みだ。
「いえ、私は何もしていませんし、おそらくお子様を助けたのは別の者かと。」
 包みを押し返そうとするリツセの固辞する手に、もちろん、と女は頷く。何もかも分かっているの
だという光を灯した円らな瞳で。
「承知しております。どうか、リショウ様にも、くれぐれもわたくし共が感謝していた、とお伝えく
ださいませ。」
 同時に、再び脚元に、ぽん、と何かがぶつかる。咄嗟に見下ろせば、そこには今度こそ、たまがい
た。円らな眼で――というか魂を狙う幽鬼のような眼で、風呂敷包みを見つめている。
 リツセの気が、たまに逸れた時を見計らった隙に、女はリツセの手の中に風呂敷包みを押しやる。
そして、鳥の羽ばたきのような素早い囁きを、リツセが顔を上げている間に、リツセの耳に滑り込ま
せる。
「お気を付けなさいませ。今宵は天が荒れに荒れる模様。備えを尽くしても誰も恨まぬでしょう。そ
れと、海と宮に悪しき者が渦巻いています。近々我ら同法を救うため決起いたしますが、それまで、
くれぐれもお気を抜かぬよう。」
 何、と顔を上げて問うた時には、既に女の姿も子供の姿も、影も形もない。店の扉の前に、小さな
雫が広がっているだけだ。扉の向こうの雨の街並みにも、先程と同じく人影はない。蠢く何かはいる
ようだが、あの二人はそういうものではなかった。
 裾に何かが引っ掛かっているような感触に、リツセが誰もない雨の中から眼を逸らせば、たまが身
体をよじ登って、リツセの手の中にある風呂敷包みに手を伸ばそうとしていた。結び目を食い千切る
勢いで引っ張っている。
「分かったから止めなさい。すぐに開けるから。」
 きぃ。
 はやく、と急かすたまの背中には、もう何も乗っていない。ちびの姿は何処にもない。
 リツセは雨の中を一瞥し、ぴしゃりと店の玄関を閉じた。
 桔梗色の風呂敷の中身は、つぶあん、こしあん、栗、芋の、四種類の羊羹だった。