仄かな明かりが、灰色にけぶる視界にすらりと入り込む。それの中心に、白い袷を着たリツセが立
っていた。
 久しぶりに会う遠い縁者は、リショウが思っていたほどやつれたりはしていなかった。忙しいと聞
いていたので、寝食も惜しんで働いているのかと思ったが、服はさっぱりと綺麗で、髪もほつれたり
していない。眼元に少しだけ陰が落ちているが、隈となるほどではない。疲れ果てているわけではな
いその姿に、顔には出さぬがリショウは少しばかり安堵した。
 リツセはそんなリショウの内心を知ってか知らずか、微かに眼を細め、リショウの姿を上から下ま
でゆっくりと眺める。そしてもう一度リショウの上――頭の上に乗っている小さい水守で視線を止め、
「原庵先生のところには、また水守が住み着いたのか。」
 と言った。
「違うぞ。」
 手足をぱたぱたさせている水守を縁側に降ろして、リショウは頭の上に乗っているちびの水守を摘
まんで、リツセの前に出す。
「こいつはさっき、木の上にいたのを拾ったんだ。降りられなくなってたみたいでな。」
「ああ、住み着くには随分と小さいと思った。」
 言いながら、リツセは開かれた障子の脇へと身体を寄せ、リショウが家の中に入る通路を開けてく
れる。このまま入れば、真っ直ぐ客間に行けるが、忙しいのではないのか。そう問いかけると、リツ
セは微かに笑った。
「そこまで忙しくはないよ。」
「でも、また祭りがあるんだろう?」
 ヒルコ大神が瀬津郷に流れ着いたことを祝う祭りが。その準備で、雨が降る中であろうとも職人達
はおおわらわだと聞く。
 すると、リツセは問題ないと首を横に振った。
「久寿玉作りに時間がかかるのは前も言っただろう。ヒルコ大神にお渡しするのはそのままお渡しす
ればいいけれど、ヒルコ大神の加護を頂いた久寿玉は、一か月前には作っておかないと。」
 作られた久寿玉は、一か月の間ヒルコ大神の元でその加護を一身に受ける。それが魔除けとして人
々に手渡されるのだ。
 ヒルコ大神の御輿祓の祭りは、最も加護が強くなると信じられている、故に、その時に人々はヒル
コ大神の加護を受けた久寿玉を受け取りたいと思う。つまり、その一か月前に人が手にする久寿玉は
作られていなくてはならないのだ。
「私が今作っているのは、ヒルコ大神からお返しいただく久寿玉の代わりに、ヒルコ大神にお納めす
る久寿玉のほうだ。まあ、大抵の人は早い時期から依頼をするから、そんな余裕がないなんてことに
はならない。今の時期は手直しの依頼がほとんどだよ。あとは私の家からお納めする久寿玉とかかな。」
 お茶をする時間もないなんてことはない、と言われてリショウは遠慮しつつも、それじゃあ、と縁
側に上がりそのまま客間に向かう。
 客間へ足を踏み入れる際、きょろきょろと辺りを見回し、気配を探る。そういえば、今日はまだ攻
撃を受けていない。
 突然緊張感を醸し出したリショウを、リツセは一瞥した。
「たまなら、今はいないよ。」
「なに?」
 たまとは、リツセの家に住み着く水守である。そして、リショウの知る限り、最も可愛げのないふ
てぶてしい水守である。
 今現在リショウの身体に纏わりついている小さい水守達は、リショウの身体を止まり木のようにし
ていることはあるが、それ以外では非常に大人しくリショウのいうことも良く聞く。円らな眼で人を
見上げながら、ぽてぽてころころと歩き回っている姿は、それなりに可愛らしい。
 が、たまは違う。大きさこそ人の赤ん坊ほどもあるが、それ以外は小さい水守達と変わらぬ円らな
眼を持つ顔立ちをしているのに、可愛げなるものが微塵もない。
 リショウがリツセの家を訪れるたび、何処からともなく飛び掛かってくる。時には尻尾で顔を叩く。
リショウの皿の上にある饅頭やら羊羹を、当然のように掠め去っていく。濡れた状態でわざわざ近づ
いてきて、リショウの傍で水を篩い落とす。
 など、可愛げのない点については枚挙に暇がない。
 リショウは一度リツセに、たまを甘やかしすぎではないのか、と言った事がある。それに対するリ
ツセの答えは、
「たまは私よりも年上だけど。」
 だった。たまはリツセが赤ん坊の頃に、この家に住み着いたから確かにリツセよりも年上ではある
が。
「でも躾くらいしたらどうだ。」
「水守を?どうやって?」
 ヒルコ大神の化身であることを差し引いても、水守は知性の高さの点で躾けることは難しい。もし
かしたら、人と同じほどに知恵ある彼らを、どうやって人の定義で躾ければ良いのか。
「慣れるんだな。」
「毎回攻撃されている俺の立場は。」
「たまはリショウのことを遊び仲間だと思ってるんだ。自分に絶対に危害を加えないと信じているか
ら、あそこまで態度が大きくなれるんだ。」
「一度危害を加えれば、あんな態度を取らないと。」
「噛まれるから止めておいたほうが良い。」
 大惨事だ、と真顔で言うリツセの隣で、当のたまはぱかっと口を開き、自分の牙を見せつけていた。
爪はないが、人の指くらいは引き千切ると言われている鋭い牙である。リショウも、たまは人の手首
の肉を食い千切っているのを目の当たりにしている。
 さて、そんな傍若無人な水守は、今は居ないという。
「珍しいな。軒下にでも潜り込んでるのか?」
 原庵の家の軒下にいるらしい巨大水守のことを思い出しながら問うと、見回りだという返事があっ
た。
「見回り?」
 リツセが茶を出しながら頷く。茶の隣にはきんつばがある。薄い砂糖で覆われた四角い餡子は、見
ているだけでも甘さが舌に広がっていくようだ。
「最近、野良犬が多いだろう。」
 五月を過ぎて梅雨に入った時期から、瀬津郷のあちこちで野良犬がうろつくようになった。長雨で
元々あった塒が使い物にならなくなり、新しい塒を捜しているのか、肋の浮いた犬が雨に打たれなが
らも、人気のない道を歩いていく。
 野良犬は確かに人の捨てた物を漁って糊口を凌いでいるが、けれども人前に姿を見せることはあま
りない。元々が警戒心が強く臆病だからだ。しかし、塒を失ったことが原因か、人の前にも姿を見せ
るようになった。今は特に誰それが襲われたという話は聞かないが、そうなるのも時間の問題かもし
れぬ。
「祭りが終わったあたりで、一度その辺を浚って、追い払ったり捕まえたりしようかっていう話も出
てる。」
「ふうん。」
 別に野良犬に対して特別な情はないが、この雨の中、行き場もなくうろつく犬達は、少しばかり哀
れな気もした。
「それで、なんでたまが見回りを?」
 水守を使った自警団でもあるのか。
「小さい水守が襲われるからだろう。」
 リショウの連れてきた水守の前にもきんつばを出しながら、リツセはあっさりと答えた。
「たまくらいの水守ともなれば、大抵の相手には勝てるけれど、小さい水守は別だ。」
 木の上から降りれなくなっていた小さな水守を、リツセは摘み上げて膝の上に降ろす。水守は眼を
ぱちぱちさせて固まっている。この水守も、案外犬に追われて木の上に逃げ込んだくちかもしれない。
「だから、野良犬が水守を襲ったりしてないか、見回っているんだろう。」
 たまは、小さい時分、自分よりも大きな野良猫を撃退し、その座を奪った豪の者である。野良犬を
相手取る事くらい何てことないのだろう。その様は、この辺りの元締めというよりも、餓鬼大将の風
情があるが。
 もしや、だから水守達は、ちびの水守を元締め、もとい餓鬼大将であるたまに任せようと考えたの
だろうか。リショウは、自分を此処まで誘導した、今はきんつばにかぶりついている三匹の水守達を
見る。
 そう言うと、リツセはそうかもしれないと頷いた。けれどもリショウは少しばかり腑に落ちない。
「俺は今日初めて知ったんだが、原庵先生の家にはもう一匹でかい水守がいるんだろ?もしもこのち
びを他の年上の水守に任せたいっていうなら、そっちでも良いと思うんだ。」
「ああ、むにのこと。」
 リツセの口から、奇妙な言葉が飛び出した。
「むに?」
「原庵先生の家にいる、もう一匹の水守の名前。」
「………むに。」
「むには出不精だから。このちびを親元に送り届けるのなら、たまのほうが適役。」
 出不精なのは、リショウが原庵のところで世話になっているこの数か月間、一度として見たことが
ないから理解できる。しかし、その名前は一体どういう意味合いで付けられたのか。無二だろうか。
それとも牟尼か。
「でも、こんな小さい水守は珍しいな。野良犬に追いかけられたとしても、普通こんな小さい頃は、
出歩く時は誰かと一緒にいるはずなのに。一匹で出歩くのは、せめてきんとき達くらい大きくなって
からなんだけど。」
 名前を呼ばれたことに気が付いたのか、きんつばにかぶりついていた水守のうち、一匹が顔を上げ
る。こいつがきんときらしい。他の二匹との差は、リショウの眼には全く分からないが。
 何の目印もないのに、どうやって水守達を見分けているのか。
 ずっと思っていた疑問を口にしようとした時、邪魔するかのように障子の向こうで、きぃきぃと鳴
く声がした。水守の鳴き声である。
「ああ、たまが戻ってきたのかな。」
 リツセは膝の上に乗っているちびを、きんときの背中に乗せると腰を上げる。そして、壁際にある
箪笥の一番下の引き出しから手拭を取り出して、水守が鳴いている縁側へと向かう。
 障子をリツセが開いた瞬間、その足元をささっと白い何かが素早く駆けた。それはそのまま、リショ
ウに飛び掛かる。
 リショウは、眼前に広がる丸みを帯びたトカゲの輪郭を避けることもできず、それを顔面で受け止
めた。短い手が、頬骨を掴んでへばり付いており、微妙に痛い。しかもその白い身体はたっぷりと雨
を吸い込んで濡れているので、へばりつかれると非常に不快である。
 リショウは、顔にへばりつく不快な白い物体を引き剥がし、それを見下ろす。途端に、ふてぶてし
く煌めいている円らな瞳にぶつかる。
 たまである。
 リショウに脇の下に手を差しこまれて持ち上げられている状態で、たまは勝ち誇ったようにリショ
ウを見ている。尻尾の先からぽたぽたと雨粒が垂れ、それがリショウの膝を濡らしている。
 そんなたまとリショウの頭に、リツセが手拭を被せる。リツセはリショウからたまを受け取ると、
たまをごしごしと手拭で拭き始めた。水守に飛び掛かられて、予想はしていたがずぶ濡れになったリ
ショウは濡れた頭と膝を、自分で拭く。
 さて、リツセに拘束されて手拭で身体を拭かれている間も、たまは予断なく周囲に眼を光らせてい
る。自分の塒に変わりがないか、あちこちを眺めている。その視線が、概ねリショウを見ていること
が、リショウには非常に嫌な予感しかしない。
 やがてたまの円らな眼はリショウと、リショウの前に出されているきんつばとを行き来し始める。
 食い意地の張った水守は、リツセの手が離れるや否や、先程と同じ素早さでリショウの元に駆け寄
ると、皿の上に乗ったきんつばに襲い掛かった。いわく、ぱかっと口を開けて丸呑みにしようとした。
 それを、リショウは自分に被せられた手拭を放り出して防ぐ。即ち、たまの頭に右手、顎に左手を
添えて、きんつばにかぶりつく直前でその口を無理やり閉じさせたのだ。その時の衝撃で、手拭がひ
らひらと何処かに舞っていったが構っていられない。
 リショウに逆らって口を開こうとするたまと、たまの口を無理やり塞ぐリショウ。その力は拮抗し
ている。
 というか、どんだけ顎の力が強いんだこの水守。ちょっとした口輪など、引き千切ってしまうんじゃ
ないだろうか。口輪をしようにも、口先が丸っこくて尖っていないから無理だが。
 きんつばを巡り拮抗し合う一人と一匹に、小さい水守達が眼を見張っている。リツセは呆れたのか、
濡れた手拭を持って何処かに行ってしまった。
 ぐぬぬぬ、とリショウはたまの口を塞ぎながら、
「お前、自分よりも年下の水守の前で、そんなに食い意地が張ってるとこを見られて、情けなくない
のか。」
 水守相手に張り合う自分のことは棚に上げて、言い募る。が、たまは尻尾をぶんぶんと振っただけ
で、退く気配はない。
 一人と一匹の膠着状態が解けたのは、呆れて何処かに行っていたと思われるリツセが帰ってきた時
だった。
「たま。こっちに取ってある。」
 三つのきんつばを皿の上に乗せたリツセの声に、たまはようやく退いた。そしてリツセの元に駆け
寄ると、一刻を争うかのようにその身体によじ登って、身を乗り出してきんつばのほうに顔を近づけ
ようとする。
 リツセがたまを片手で抱え上げ、座布団に腰を下ろしながら皿をたまの口元に持っていくと、三つ
のきんつばのうちの一つが、瞬く間に消え去った。次いで、二つ、三つと消え、あっという間にきん
つばは、たまの口の中に吸い込まれていった。
 きんつばを胃袋の中に納めて気が済んだのか、たまはリツセの膝の上に落ち着くと、再びじっくり
と辺りを見回し始める。リショウのきんつばに再び視線を向けようとしたので、リショウは急いでき
んつばを口の中に放り込んだ。その光景に、ふん、と鼻を鳴らすと、たまはここでようやく、きんと
きの背中の上に乗る小さい水守の存在に気が付いたようだ。
 するりとリツセの膝から降り、きんときの傍へと向かう。たまの接近に気が付いた小さな水守も、
きんときの背中から降りて、たまへと向き直る。そして見つめ合う二匹。
 水守達は眼で意思疎通するというが、ちびよりも倍以上身体の大きいたまが、ちびを見つめている
様子は、リショウからしてみれば、食べれるかどうか品定めしているようにしか見えない。
 だが、リショウの懸念を他所に、しばらくするとたまがリツセを見て、きぃ、と鳴いた。人と水守
は眼だけでは意思疎通できない。そして声だけでも困難だ。しかし、長年水守と共に暮らしてきた瀬
津郷の者は、ある程度水守達と意思疎通する術を持っている。
「そのちびを、任せても良いのか?」
 リツセの問いかけに、たまはきぃと鳴く。そして今度はリショウを見て、きぃ、と。任せろ、と言
っているのかそれとも。
「ちびのことはどうにかしてやるから、今度来る時は何か手土産を持ってこい?」
 きぃ。
 ふてぶてしく、水守が鳴いた。