端野宮の名を通して、異人達が様々な品を帝に送っていた事は、誰もが知るところだ。帝に取り入
って妾腹という己の立場を、もっとより良くしようとしているのだと、心無い噂もあったが、それは
半分以上が本当の事だったのだろう。
 ただ、そこには端野宮の思惑以上に、異人達の欲深さが絡んでいた。

「お前達の目的が只の商売であったのか、それともこの国そのものにあったのかは知らないがね。」

 ナチハは憂鬱気に髪から雨水を滴らせ、ひどく疲れたように言った。

「帝は、どうもお前達の事を、そこまで快くは思わなかったようだ。」
「何?」

 自分達の思惑やら後ろ盾やらが次々と崩れ去り、既に言葉も出ないテオドロに代わり、リショウが
問う。

「色々貢いでもらってたんだろ?何故?」
「帝は、愚かな方ではなかった、という事だね?」

 リショウの問いに対して、リツセがナチハへの問いかけの態を成して答えた。
 珍しい異国の品々に最初こそは喜んだだろう。しかしその異人の手引きをしているのは宮家の中で
も隅に弾かれている妾腹の端野宮であり、そして異人が無欲で物を贈るわけではない事は、帝も気が
付いた事だろう。
 何か、争いの火種――瀬津郷の宮家のお家騒動が引き起こされるかもしれないし、そこに最悪、異
人が出張るかもしれない。
 瀬津国は異人との貿易との要所だ。
 そこで争いが起こるのは避けなくてはならないし、まして異人に乗っ取られる事などあってはなら
ない。貿易港が異人に乗っ取られたら、財政にどれほどの影響がある事か。

「そう。だから帝は端野宮様と異人の動向を、今の今まで調べさせていらっしゃった。」

 そうした矢先、市井に下りたとはいえ宮家の血の繋がりの深いリツセが攫われたのだ。そして、今
眼の前には、違法に捕えられた水揚げされたばかりの水守がいる。

「俺達が、漁師と一緒に船に乗り込む時に、お前達は端野宮を押さえていたんだな?」

 ああ、とナチハは頷いた。
 ぽたりぽたりと、止め処なく雫が零れ落ちる。

「別当殿がね。」

 その言葉に、リショウも頷いた。

「別当殿は、リツセがいなくなった時に、あんたが動き回ってる事を知っていた。だから、」
「俺を見張っていたんだな?」
「そう。」

 別当スイト。
 瀬津国に馴染めぬ、都から派遣された男。端野宮の客人である異人を頼まれている男。それを聞い
た時に、リショウの頭の中には二つの予想があった。
 スイトは端野宮と異人とつるんで瀬津郷を牛耳ろうとしているか、それとも帝からの密命を受けて
端野宮と異人の動向を探っているか。
 瀬津の人々からは、その態度は少しばかり眉を顰めるものだっただろう。水守をヒルコの化身とし
て敬愛せず、端野宮という宮家の爪弾き者と異人いおもねっている。
 けれども、スイトが住む屋敷の水守うねは、スイトを厭う様子を見せない。
 水守が何処まで人を見るのかは分からない。けれども水守に嫌われぬという事は、少なくとも水守
そのものを傷付けるような輩ではない。だから、リショウはスイトに自分を見張らせるがままにして
いた。
 そうして、スイトは、

「別当殿は端野宮様の元へ赴き、そして帝が、端野宮様が異人と繋がっている事を快く思っていらっ
しゃらない事を伝えた。お前達の事も疑っていると。」

 テオドロは口を歪に開き、固まっている。もしや、帝を何も知らぬ、珍しいものを見せておけば喜
ぶ愚帝であると思っていたのか。東の地に住まう人々はそんな愚か者ばかりと信じていたのか。

「端野宮様は知らぬ存ぜぬを繰り返していたが、別当殿は、それならば異人の船から何が出るか調べ
てみようと言い、そして何かが見つかった時、帝は如何なる力添えもしないと言った。」

 そして、一つ、懐から短刀を取り出して端野宮に差し出したのだ。
 スイトは帝直筆の密命書を端野宮に見せた。それを見て、端野宮は逃れる術がないと悟ったのだろ
う。異人の船に、違法なものが乗っている事は、端野宮が良く知っている。帝の力添えがなく、そし
て勿論宮家からも――瀬津郷そのものからも庇護はないだろう。まして利害関係だけで共にあった異
人の手助けは期待できない。
 スイトが差し出した短刀の意図を、端野宮はどれだけ苦く見つめただろうか。
 何としてでも己の出生の呪縛から逃げたかったのだろうが、しかしそれ故に、己の穴だらけの貢ぎ
物が、帝が何も裏を見ずに受け取ると思ったのだろうか。
 だとしたら。

「我々を――我々の帝を、甘く見過ぎたな。」

 ナチハは腰に帯びた刀を抜き払い、切っ先をテオドロに向ける。刃は一瞬で雨に濡れ、鋭い刃先か
ら雫が流れ落ちた。

「我等をただの、東に住む蛮族でしかないと思ったか。その考えは、牢の中で改めるんだな。」

 ナチハが一歩踏み出す。
 その動きに、つい一瞬前まで凍り付いていたテオドロが反応し、手にぶら下げていた剣を翻した。
しかしその剣はナチハの刃を受け止めるのではなく、脇にあった水守を未だ囲う檻の中を指し示して
いる。
 投擲すれば、中にいる水守を幾許かは傷付ける事が出来るだろう。
 ナチハの足が、水音一つ起こして止まる。

「貴様……!」
「動くな。妙な真似をすれば、このトカゲ共が只ではすまんぞ。」

 水守というヒルコの化身で雁字搦めにされた瀬津郷の住人を、テオドロは喉の奥で嘲笑った。

「そんなに私を捕えたければそうすればいい。けれどもお前達は、このトカゲが一匹でも傷付くくら
いなら、私を見逃す方を選ぶだろう。」

 なんと、愚かしい。
 がらがらと笑うテオドロの声は、雨の所為かそれとも彼女の誇りがめいっぱいに傷付けられた所為
か、しわがれている。
 しわがれた声で、水守という檻で身動きできない人々を笑い、自分は逃げ道を探す。

「さあ、船を一隻準備しろ。そうすれば、このトカゲを傷付ける事は止めてやろう。私の手が痺れて、
この剣を放り投げる前にな。」

 形勢逆転したと思っているのか喚くテオドロに、リツセの腕に抱えられ顎をリツセの肩に乗せてい
たたまが、ふと何を思ったのか振り返る。円らな眼がテオドロを見据え、きぃ、と鳴いた。
 きぃ、きぃ、きぃ。
 短い音を、何度も何度も出す。
 きぃ、きぃ、と。その声に答えるように、檻に閉じ込められたままの小さな水守も、同じような調
子で鳴く。短い声を、何度も繰り返す。
 その声は、次第に波のように辺りに広がっていった。そこら中に集まっていた水守が、鳴き始めた
のだ。
 何を責めるでも請うでもなく、ただただ、きぃ、きぃ、と鳴く。
 きぃ、きぃ、きぃ。
 その声に、テオドロが顔を顰めた。

「耳障りな……奴らを黙らせろ!」
「いや、どうやって?」

 テオドロの言葉に、リショウは思わず呟いてしまった。水守を黙らせる者など、この世に存在する
のか。人の言う事など、欠片も聞かないのに。
 その間も、水守の短い泣き声は続いている。雨の音と波の音を掻き消すほどに巨大なうねりとなっ
た時、誰もがその声に気を取られて、自分達の現状に気が付かなかった。
 雨も波も、全く治まっていない事を。
 雨音は激しく、波は荒れ狂っている。
 港にいる自分達の目の前で盛り上がる海水を、見上げるほどの高波に、誰もその瞬間まで気が付か
なかった。
 テオドロの真後ろに、泡立つ白い波頭が、黒い壁面を押し付けるように迫りつつあるのを。
 きらり、と。
 リショウは見た。盛り上がった黒い海水の中に、何かが揺らめいた。そして得も言われぬほどに美
しい煌めきが二つ瞬いたのを。
 リショウがその二つの煌めきと眼があった刹那、膨らんだ海水は一撃のもとにテオドロを頭から飲
み込んだ。
 誰も悲鳴を上げる事さえ出来なかった。テオドロの真上に振り落ちた高波は、火花のように激しく
飛沫き、そして一瞬で再び海の中に戻っていった。
 テオドロが立っていたところには、その金の髪の一房すら、残っていなかった。