その後、しばらくの間サザエを突きながら、毒にも薬にもならない話をしていたが、リショウは仕
事の合間である。昼飯だと言い訳はできるが、それにしたって長々と居座っているわけにもいかない。
薬の入った背負子を背負い、更に頭と両肩に水守を一匹ずつ乗せて、ワタヒコのいる小屋を辞する。
浜辺に近いワタヒコの小屋からは、港に停泊している船が並んでいるのが、良く見えた。さあさあ
と白糸のような雨で視界がけぶる中、何日か前に大陸から渡ってきた船が、今もまだ停泊していると
ころを見るに、陸地は長雨で鬱陶しいだけかもしれないが、沖合は船が行けないほど荒れているのか
もしれない。
湿気があちこちから立ち昇っているせいか、潮の匂いがいつもよりも強い。海から突然強い風が吹
いてきて、生臭く感じるほどの匂いが顔に当たる。リショウは少しばかり眉根を寄せ、踵を返す。
漁師街に立ち並ぶ小屋からは、相変わらず漁師達の賑やかな声が零れている。丸い水紋が幾つも描
かれている地面には、笑い合う男達の響きの他に、小屋の中に灯る明かりが絵具のように流れ込んで
揺れていた。
まだ昼だというのに、辺りは日が暮れる前のように薄暗い。
リショウは傘を少し傾けて、空を見上げた。鈍い色をした分厚い雲からは、無数の雨粒が針のよう
に落ちかかる。雲の切れ間は何処にもなく、しばらくこんな天気が続くであろうことを示唆していた。
溜め息を吐いたリショウの顔のすぐ横で、きぃ、と鳴き声がした。右肩に乗っていた水守が、突然
鳴いたのだ。
水守というのは、元来そう鳴く生き物ではないらしい。誰かの気を惹くために、或いは遠くにいる
仲間を呼ぶために鳴き声を上げることはあるが、それ以外では滅多に鳴いたりしない。彼らの意思疎
通は、鳴き声よりもその眼で行われることが多い。水守が、互いに無言で睨み合って、その場で硬直
しているということは良くある。
この、眼での意思疎通ができない相手には、声を上げて語るのである。
鳴き声を上げて、さっとリショウの肩から地面に飛び降りた水守は、雨に濡れることも厭わず、傘
のない場所にととっと駆けていくと、リショウを振り返り、きぃきぃと鳴いた。
リショウの身体に乗っている残りの二匹を呼んでいるのではない。眼で語れるほど近くにいるのだ、
その必要はない。つまり、これは眼で語れぬリショウを呼んでいるのだ。
「おいおい、一体なんだよ。」
水溜りの上にいる小さい水守に歩み寄りながら、リショウは口を尖らせながら問う。まさか水溜り
の上に乗ったその腹を、リショウの顔面に押し付けてくるなんてことはしないだろうが、しかしそれ
なら何故リショウを呼ぶのか。
すると、水守はリショウが自分を追いかけてくることを確認するや、再びととっと走り始める。
猫のような素早さで走る水守は、偶に立ち止まってリショウが追いかけてくることを確認し、再び
走り始める、という動作を繰り返す。
こうなると、どんな鈍い輩でも水守が自分を何処かに誘導しようとしていることは理解できるだろ
う。
なんだなんだ、俺を一体何処に連れて行こうっていうんだと呟きながら、リショウはそれでも水守
の後を律儀に追いかける。もしも追いかけなかったら、残る二匹が耳元できぃきぃと合唱し始めるか
もしれないし、それにもしかしたら水守の行く先で何かとんでもない事件が起こっているかもしれな
い。
以前、男児殺しの呪いを調べている時に襲われた時、水守が己の忠臣を呼びに行ってくれた時のこ
とを考えると、水守の誘導には従ったほうが良いと判断せざるを得なかった。
そういえば、あの時グエンを呼びにいった水守の名は、きんときというのだった。しかし未だにリ
ショウは、この三匹の水守のうち、どれがきんときなのか、判断できずにいる。もしかしたら、今先
導しているのがきんときなのかもしれない。それに、残りの水守の名前もまだ知らない。聞こう聞こ
うと思っているうちに、ついつい忘れてしまっていた。
そんな事を思いながら、水守の後を追いかけるうちに、少しばかり人気が多い場所から離れてしま
った。道端は刈り取られていない草で覆われて、遠くには誰もいない水田が見える。
農村地区にまで出てきてしまったようだ。
瀬津郷は、ヒルコ大神を祀っている社を中心に、沿岸部に張り付くように広がっているが、その最
外を囲うのが農村地区だ。田園広がる風景は、少し前までなら田植えが行われていたのだが、今は茶
色い水面にまだ小さな稲の苗が顔を覗かせているだけで、誰一人としていない。
人気のない畦道を、ちょこちょこと走っている一匹の水守。足が短いせいで、腹側はどう見ても泥
だらけである。けれども当の本人は腹が茶色くなろうがどうなろうが、知ったこっちゃないと言わん
ばかりに、ちょこちょこと駆けていく。その後を追いかけるリショウの足も、それなりに泥だらけだ
が、もちろん水守達はそんなことは気にしてくれはしない。
やがて、畦道が二又に分かれているところで、水守はぴたりと立ち止まった。そしてそこで、きぃ
きぃと鳴き始める。
水守が立ち止まった場所は、一本の松がひょろりと背を伸ばしており、松の根元には水溜りが出来
ていた。松はそれほど大きいわけではないが、しかし大人が見上げるほどには背が高い。
水守は、その松の上に向かってきぃきぃと鳴いている。
すると、松の木からも、か細いが、きぃきぃと応える声がした。リショウが見上げると、松の枝の
先っちょに、何やら白いものがへばり付いている。よくよく目を凝らせば、それは小さな水守であっ
た。遠目でよく分からないが、どうもリショウが従えている三匹の水守よりも小さい気がする。
リショウの知っている水守というのは、手足が短くその先端に爪もない癖に、やたらの握力が強い
のか、人間にもよじ登るし、木登りも達者である。木の枝の上で身体をだらりとさせ、昼寝をしてい
ることだってある。
だが、枝にしがみついてこちらを見下ろしている小さな水守は、そこから動こうとしない。
もしかしなくても、木に登ったは良いが降りられなくなったのか。
「俺に、あいつを助けてやれって?」
きぃ。
リショウを先導してきた水守が、当然のように頷いた。未だにリショウの頭と肩に乗っていた二匹
も、ぴょんぴょんと地面に飛び降りて、リショウを見上げて、きぃきぃと鳴く。水守の合唱に、リシ
ョウは分かった分かったと言って、背負子を降ろす。その上によじ登る水守達。そして、松の木に手
をかけているリショウを見上げている。
水守達の期待を、薬の代わりに一身に背負って、リショウは松の木をよじ登っていく。正直なとこ
ろ、松の葉があちこちに突き刺さって地味に痛い。
痛みに耐えて、どうにか小さい水守がへばりついている枝まで登る。こちらに尻尾を向ける格好で
へばりつく水守は、伸びるリショウの手にびくびくしながらも、無抵抗である。その首根っこを掴む。
掴んで自分のほうに引き寄せてから、リショウは、やはり小さい、とその水守を見て思った。
先程のワタヒコの言葉を思い返せば、これほど小さい水守が人前に出てくることは、まずないはず
である。長雨に惹かれて、人などいないだろうと高を括って出てきたものの、木に登って降りられな
くなって鳴いていたのか。
リショウの掌ほどの大きさしかない水守は、人間を間近で見たことがないのか、完全に硬直してし
まっている。
さて、これを持ったままどうやって木から降りるかと一瞬悩んだ後、頭の上に乗せる。頭から転げ
落ちたりしないか、と不安に思ったが、リショウの髪の毛を、水守がきゅっと掴む感覚がした。
水守が自分の頭の上にしっかりと鎮座したことを確かめ、リショウはするすると木から降りる。
無事に降りてきたリショウを見て、下で待ち構えていた三匹は、ひょいっと背負子から飛び降りる。
そして二匹はリショウの肩によじ登り、一匹は再びちょこちょこと元来た道を走り始めた。
リショウの頭の上には、小さい水守が乗っかったままである。
「おい、このちびはどうするんだ。」
駆ける水守の背中に問えば、振り向いて、きぃ、と鳴く。何を言っているのかさっぱり分からん。
とにかく、ついて来いと言うのは分かるが、小さい水守はどうするのか。
リショウが頭に手を伸ばし、水守を降ろそうとすると、今度は両肩がきぃきぃと鳴き始めた。降ろ
すな、ということか。
仕方なく、リショウは水守をそのままにして、駆ける白い後姿を来た時と同じように追いかけた。
さて、水守が今度リショウを誘導したのは、瀬津郷の中でも、長雨が続いても決して静かにはなら
ぬ区域であった。鉋で木を削る音や、金槌の音、鋸を牽く音は、普段と変わらない。時には、威勢の
良い男達の掛け声が聞こえてくる。
流石に人通りは少ないが、しかしいつもと変わらぬ――いや、それ以上の忙しい空気が通りを流れ
ている。
職人達が数多く住むこの地域では、梅雨の時期、雨漏りの修復の依頼やら、傘の作成やらが増える
ため、暇を持て余すということがないようだ。
忙しい空気の中を、水守はちょこちょこと駆け抜けていき、やがて一軒の店先に潜り込む。屋号の
代わりに、紅、桜、黄、若草、空、墨の六色の久寿玉を連ねてぶら下げているその店は、リショウも
良く知ったものだ。
魔除けとされる久寿玉は、瀬津郷ではヒルコ大神に一度捧げることで絶大な力を得ると信じられて
おり、それ故に祭事や祝事の度には、家々で久寿玉が掲げられる。より優美で華やかな久寿玉を飾れ
ば、得られる加護も強くなるだろうと思うのは人の性。だが、普通の家ではそんな凝った久寿玉を作
ることはできない。
そのため、神々に捧げる為の久寿玉を作る職人が、瀬津郷には住んでいる。
この店は、そんな久寿玉師の一人が住んでいる。
その久寿玉師は、市井に降りているが宮家の血を引いており、そしておそらくは、リショウとも遠
くで血を同じくしている。それは、リショウの忠臣達が察することができるほどに、確かなものだ。
だから、リショウは久寿玉師といえばすぐにこの家のことを思い出せるのだが、最近はほとんどや
って来ることがなかった。
今月、ヒルコ大神が瀬津郷に御輿になったことを祝う祭りがある。郷の根幹に関わる祭りであるの
で、それはそれは盛大なものであるらしい。雨で街が閑散としようとも、職人街だけは決して休まな
いのは、祭りで使う酒や菓子、神輿や太鼓などの準備に余念がないからだ。
そしてそれはもちろん、久寿玉師とて例外ではない。
久寿玉は縁起物だ。そしてどういうわけだか、ヒルコ大神が大層気に入っているものの一つである
らしい。不具であり、幼い頃に二柱の神に流された大神は、もしかしたら紙で作られたそれで、埋も
れた幼心を慰めていたのかもしれぬ。
いずれにせよ、ヒルコ大神が捧げられた久寿玉に加護を与えられると信じられている瀬津郷では、
ヒルコ大神の御輿祓には皆が盛大な久寿玉を作って捧げようとするのだ。瀬津郷全ての住人の依頼が、
この店だけに来るわけではないだろうが、何せ一つ一つが手作りで、しかも幾つもの紙を組んで作る
者だから、時間がかかる。
リショウがこの時期好き勝手に訪れても、邪魔になるだけだ。そんなわけで、来ることを自制して
いたわけだが。
水守に自制という言葉はない。ちょこちょこと庭を突っ切り、縁側をよじ登る。そしてきぃきぃと
鳴く。
お前ちょっとは遠慮しろよ。
当然のように中にいる人を呼び出そうとしている水守を、リショウは後ろから引っ掴んで持ち上げ
る。いきなり首根っこを掴まれた水守は、ぱたぱたと手足を動かして抵抗する。
そこへ、がらりと音がして、閉じていた障子の戸が開いた。