眼の前に、にゅっと生えた丸太を、リツセとワタヒコが呆然として見ている間に、壁から突き出た
丸太は小刻みに震え始めた。
 最初は小さく、本当に僅かな震えだったが、次第に大きく左右上下に揺れ始める。それに伴って、
丸太と、丸太が突き刺さる壁の隙間から、じょぼ、じょぼ、と断続的に水が漏れ始めた。丸太の揺れ
に従って溢れる海水は、当然丸太の揺れが大きくなればなるほど量が増していく。
 あまりにも危険すぎる状態である事は、眼に見えて明らかだ。いや、むしろ危険とかそういう状態
を既に超えているのではないか。逃げ出すにも既に手遅れである気がする。
 それでも、リツセはワタヒコを引き摺り、しかし檻の中の水守を見捨てる事はできず、彼らの近く
で立ち尽くすしかない。
 と、不意に強い明かりが真上から差し込んできた。
 先程まで慌ただしく足音と怒号が行き交っていた天井が開いたのだ。沈没の間際になって、積荷を
背負って逃げ出そうというのか、それとも積荷を投げ捨てて逃げ出そうというのか、異人達が喚き立
てながら、違法な物を押し込めた船底に降りてくる。
 その先頭に立つのが、金の髪も豪奢なテオドロだ。ただし、秀麗な白い顔は今や苦々しげに歪めら
れ、眉も唇も捻り上げられたかのようだ。その右手に掲げた炎で自らの横顔を照らし、ますますその
歪さが際立つ。
 しかし、テオドロが今からどのような判断をしようとしても、無意味だろう。
 その事に、船底を見た瞬間に立ち止まった事からも、テオドロも気が付いたのだろう。何せ、太い
丸太が船底を囲む壁を突き破ってしまっているのだ。しかも、ぐらぐらと丸太は揺れ、隙間から海水
を掃き出し、船に空いた穴を大きくしているのだ。
 積荷を捨てたところで沈没は免れず、全ての積荷を持ち運ぶには時間がない。

「―――!」

 テオドロが、何やら異国の言葉で悪態を吐いた。そして、周りにいる男達に矢継ぎ早に指示を出し
ていく。出しながら、その手はリツセの腕を掴もうと伸びてきた。
 白く枝のように細い指が、腕に食い込まんとした正にその時。
 丸太が、抜けた。
 壁から。
 轟音。
 水飛沫なんて生易しい言葉では済まされない、むしろ黒い塊が獣よりも速く、重く、壁に空いた穴
すら破壊して船底に拡散した。そのほとんどは、テオドロとその後ろにいた男達を直撃する。
 そして、黒い海の塊の中に、何が別の白いものが混じっている。
 その白いものの間から、叫び声がした。どうして、水の中でそんな声が出るのかと思うほどの声で。

「リツセ!」

 黒い塊を突き破るようにして、固く骨ばった手が伸びてくる。しかし、そこにはテオドロの指に見
えた疚しさのようなものはなく。

「リショウ?」

 何よりもその声に、リツセは唖然とした。
 黒い海水を蹴り上げるようにして、げほげほと呑み込んだらしい海水に噎せながら、こちらに駆け
寄ってくる。
 と思っていたら、その両脇から飛び出してくる白いもの――何かと思っていたら水守達だった。こ
ちらは小さい水守が閉じ込められた檻に、次々と飛び掛かっていく。

「とにかく逃げるぞ。」

 リショウはそれ以上を言わなかった。というか、言う暇などない。船底は既に海水で満たされ、大
人が立つのもやっとだ。しかしその水を利用して、水守達は檻を動かしている。
 出口は当然の事ながら、先程丸太で突き破った壁の穴だ。そこは既に海水で埋もれており、一旦潜
ってから出ていかねばなるまい。それよりも、その丸太で壁をぶち破ったのは、もしかしなくても水
守か。だが、そんな事を聞いている暇はない。
 それよりも、

「待って、ワタヒコ殿を。」

 手足を縛られているワタヒコは、水に浮く事は出来たとしても誰かが手助けしなければ泳げないだ
ろう。
 リツセの言葉に、リショウはどうにか水に浮いているワタヒコをちらりと見やり、すぐにそちらに
片手を伸ばし、もう片方の手をリツセに伸ばす。

「行くぞ。」

 リショウの声にリツセは頷き、二人同時に黒い水面の下に沈んだ。
 船底を浚った黒い海水の中は、想像以上に暗く、何が何処にあるのかまるで分らない。そんなリツ
セの手を引いて、こちらは分かっているのか――分かっていない可能性も多大にあるが――リショウ
が海水を割って進んでいく。
 ふと気が付けば、両脇に何か白く柔らかいものがぴたりと付き添っていた。水守達も、共に異人の
船を後にするつもりらしい。その姿に、たまはどうしているだろうか、と暗い気分が靄のように浮か
んだ。
 靄の浮かぶ頭上で何かが、ごんごんとぶつかり合っているのが気になるが――たぶん丸太だろう。
やけにうまい具合に、自分達を避けていくのが、何となく水守が何かしているんだろうな、と想像で
きる。
 水守のおかげかどうかはともかく、なんとかして水面から顔を出すと、港のあちこちで炎が灯って
いるのが見えた。その中の一つに、良く見知った――ウオミの顔がぼんやりと浮かんでいる。その顔
に幾つもの斜線が走っているのを見て、リツセはようやく、今、雨が降っている事に気が付いた。
 ウオミが何か叫びながら、手にしていた綱を海に放り込んだ。リツセはそれを、両手が塞がってい
るリショウの代わりに受け取った。
 リショウとワタヒコとの三人で、綱を渡って岸辺へと辿り着く。

「無事かい?!リツセ!」

 ウオミの声に、リツセは、ああ、と頷く。その横でワタヒコが、

「儂の心配はせんのかい。」

 とぼやく。祖父のぼやきに、ウオミが溜め息を吐くのが聞こえた。

「何言ってんだい。殺しても死なない爺のくせして。」

 言いながらも、ワタヒコが縛られた状態である事を見たウオミは、真っ先に祖父を海から引き揚げ
た。そして次にリツセを。
 二人を岸に上げて手ぶらになったリショウは、一人で岸に這い上がる。
 そんなリショウの隣にあった海面が、いきなり盛り上がった。かと思うや、四角い檻が浮かび上が
り、ざざっと岸に持ち上げられる。
 どさ、と重い音を立てて岸に持ち上げられた檻に、人間達がぎょっとする中、檻の中では小さい水
守達が、きぃきぃと跳ねて自己主張する。まるで、水揚げされた魚のようである。
 小さい水守を水揚げした大人の水守達も、次々に海から上がってくる。当初の目的を達成したらし
い彼らは、沈みゆく船には興味も示さず、今度は檻をどうやって破壊しようかと考えているようで、
檻の上に乗ったり、周りを検分したりと、うろうろしている。

「何があったんだい、ありゃあ?」

 どうもただならぬ状態であると悟ったウオミが、祖父の鎖を解けないかと四苦八苦しながら、リツ
セに問う。

「水守を売り飛ばそうとした罰当たりもん共がいたんだ。」

 ウオミの言葉に答えたのは、ワタヒコである。

「しかしこの鎖も、あの檻も鍛冶屋に言って如何にかして貰わんといかんもんだ。男衆に頼んで、運
んでもらえ。」

 それしかないとリツセとウオミが頷いた時、もう一度、一際大きく水音がした。同時に、リショウ
が身構える。
 まるで海藻に手足が生えたように蠢くそれは。
 遠く近くで揺らめく炎に照らし出された煌めく藻と、その隙間から見える白磁。
 テオドロだ。
 沈没船から逃げ出してきたのだろう。ただ、その顔は船で見た時よりもいっそう歪み、更に濡れ鼠
になっている所為で、当初の美しさは何処にもない。
 青い眼で、爛々とこちらを睨み付ける様は、完全に人のものにも見えなかった。
 歪んだ白磁の中で、紅を差したかのような唇が、より深く吊り上がった。笑ったのだ、と気が付い
た時には、テオドロは左手に何かを掲げている。
 白い骨だけのような指が食い込んでいるそれは、じたばたともがいている。

「たま!」

 ぱたぱたと手足を動かしているその物体を見て、リツセは思わず声を上げた。見間違えようもなく、
それは、リツセの家に住まう水守である。その腹に、一筋、斬られた痕がある。

「ふん、こんなトカゲが、お前達は大事だと言うのだな。だが、それが我等にとっては好都合。」

 テオドロは悪役もかくやと言わんばかりの顔を歪めて、たまを見せびらかすように掲げる。

「さあ、このトカゲの命が惜しければ、妙な言いがかりをつけるのは止すのだな。そもそも、我等は
許可を得て、このトカゲどもを売り買いするのだ。お前達如きが口を出す事など出来はしない。分か
ったら、我等の沈んだ積荷を拾い上げ、代わりの船を………。」

 テオドロが得意げに語るその間も、人質として扱われていた水守はじたばたと蠢く。
 そして。
 ずるり。
 テオドロが、口を噤んだ。
 唐突に、たまの腹に走っていた傷跡が、ぱっくりと裂け、そこから白い何かが溢れ出した。同時に、
テオドロが掴んでいた、たまの身体が萎んだのだ。
 いや、そうではなく。
 たまの皮が、斬られた痕から割れて、そこからたま本体が抜け落ちたのである。
 要するに、脱皮だ。
 つるり、と新しい皮になったたまは、ぱしゃり、と軽い水音を立てて地面に飛び降りた。かと思う
や、唐突に手の中の水守が萎み言葉を失っているテオドロに向き直り、当然こうすべきと言わんばか
りに、テオドロに飛び掛かった。
 空を飛ぶたまの身体は、宙で反転し、そして反転した勢い以外にも思い切り身体を撓らせた勢いを
加え――尻尾でテオドロの頬を殴打した。
 松明で照らされたテオドロの顔が、たまの尻尾に押されるまま、身体ごと横を向く。顔から、何や
ら赤いものが飛び散ったのが見えたが、気の所為ではあるまい。
 そしてたまは、テオドロを尻尾で殴って気が済んだのか、意気揚々と勝ち誇った顔をしてリツセの
脚元に駆け寄ってきた。そのまま、リツセの胸元に飛び込んでくる。

「たま!」

 リツセも無事な――というか想像以上に元気な様子の水守を抱き留める。そんな様子を、リショウ
が非常に微妙な顔をして見ていたが、たまがそれを勝ち誇った顔のままで見返し、ふん、と鼻を鳴ら
していた。
 一方、水守に叩かれたテオドロと言えば、

「お、おのれ………。」

 水守の皮だけを握り締め、痛みと屈辱に塗れた顔でこちらを睨み付けている。鼻血が出ているのは、
たまに叩かれた所為だろう。
 腰に帯びていた剣を、とうとう抜き払い、喚き散らす。

「貴様ら!もう一度言うがな!我等は、貴様らの帝と通じているのだ!これは貴様らの王の意志だ!
貴様らは、自分達の王に逆らっているのだ!ただではすまされんぞ!」

 今にも剣を振り回しそうなテオドロから皆を庇うように、リショウが戟を構えてテオドロの前に立
つ。リショウの戟の切っ先を見つめ、テオドロは、嘲笑う。

「何度も言わせるな。私は帝に通じているのだぞ?」
「それは、端野宮様のことだろう?」

 テオドロの言葉に返したのは、リショウではなかった。リツセでも、ウオミでもない。
 無数の揺らめく松明がこちらに向かう中から、一際速く雪崩れ込んできた光の先頭――ナチハが、
髪の先端から雨粒を滴らせながら、酷く物憂げな表情で言ったのだ。
 吐き出された、宮家の中でも端にいる妾腹のハトコの名に、リツセは眼を瞬かせる。
 ナチハはそこにリツセがしゃんとして立っている事に、安堵の溜め息を吐くと、再びテオドロに向
き直った。 

「お前の言う帝と通じている――という意味は、帝の血を引く端野宮様を通じて、帝と繋がっている、
と言いたかったんだろう?だが、生憎だが、あの方は帝と通じているどころか、あの方の名を出して
も切り捨てられるだけだろうよ。」

 宮家の端で暮らす、妾腹の。確かに帝の血は流れているが、けれども決して表舞台には立てない。
そんな宮が異人と違法な取引をしていたと知れたら、ただ、切り捨てられるだけだろう。
 そんな事、瀬津郷の住人は誰でも知っている。分かっている。だから、ナチハは物憂げなのだ。

「端野宮様は、先程、自害なされたよ。」

 物憂げな事が、起こる事が分かっていたから。