暗闇の中で、リツセは水守達が閉じ込められている檻に寄りかかり、息を潜めた。
 何をどうしようが、彼らの船の中で身を隠す事は出来ないが、せめてこうしていれば手出しをされ
るまでの時間は僅かなりと稼げる。それも、微々たるものでしかないが。
 それに、囚われとは言え、水守達が傍にいる事は、なんとなくだが気分が落ち着く。勿論、水守達
は囚われて哀れな様相をしているが、しかし彼らもまたリツセがいる事で少し安心しているようだ。
 檻に触れたリツセの手に、水守達がすりと頬を寄せる。
「すまねぇ、リツセ。俺がもう少し若けりゃあな。」
 あんな奴ら、ぶちのめしてやったのに。
 悔しそうに言うのは、眼を覚ましたワタヒコだ。年老いて、漁師の網元としては一線を退いたもの
の、未だ矍鑠としたワタヒコは、それ故に異人からも放置はできないと見做されたのだろう。両手両
足を縛られて床に転がされている。
 気にしないで、と告げるリツセはといえば、女一人などどうとでもできると侮られているのか、何
処も拘束されていない。
 けれども、何も縛るものがなくても、何もできなければ同じである。ワタヒコを縛っている鎖は解
けず、水守を閉じ込めている檻も開くことができない。
 きぃ、と閉じ込められている水守の一匹が小さく鳴いた。不安そうな鳴き声に、仲間達が擦り寄る
が、しかし円らな眼を悲しそうに曇らせている。
 一体、どれくらいの間、彼らは此処に閉じ込められていたのか。
 リツセは顔を顰めながら思い、ふと気づく。小さな水守達は互いに擦り寄り、互いを慰め合ってい
る。
 一匹でいるよりは心強いだろうが、しかしそれよりも、彼らはちゃんと食事を与えられているのだ
ろうか。
 あの異人達が、異人の眼から見れば白トカゲとしか思えない水守に、きちんと食事を与えていると
は思えない。
 大勢でいれば心強いだろうが、しかしそれでは胃袋は満たせまい。
 何かあったか、と懐に手を入れれば、たまを宥める為にいつも持ち歩いている金平糖を入れた巾着
が出てきた。
 瀬津郷の住人は、何かあった時の為に――要するに水守に与える為に――お菓子を持ち歩いている
のが常である。
 巾着から掌の上に、ざらりと金平糖を出し、檻の隙間から流し込む。すると、何か期待していたら
しい水守達が、さっと群がった。よほど空腹だったのか、単純に甘い物を喜んでいるだけのか、さっ
ぱり分からないが。
 しばらくの間、水守が金平糖を食べる、ぽりぽりという音だけが響く。
「しかし水守をこんな目に合わせるなんて、罰当たりな連中だ。所詮、異人ってわけか。」
 毒づくワタヒコの言葉に、リツセは首を傾げる。
 水守は確かに人慣れしているが、決して人に懐いているわけではない。リツセなどの瀬津郷の住人
が与えるものはこうして食べるが、普段は警戒心が強く、どれだけ小さい水守であっても――むしろ
小さければ小さいほど――簡単に人に近づいたりしない。
 その事に、ワタヒコも気が付いたのか、
「だが、水守が異人にそう簡単に捕まるとも思えねぇな。見たところ、そこにいる水守は親から離れ
るくらいの、まだ警戒心の強いチビ共ばかりだ。」
「そもそも、親から離れる前の水守は、そう簡単には人前に姿を出さない。水守の子供は、人里には
住み着かないから。」
 人里に降りて、人の家に住み着くのは独り立ちした水守だけだ。
 水守に大人子供の定義があるかは分からない。ただ、瀬津郷の人々は、独り立ちした水守を大人と
し、その独り立ちする水守よりも小さい――独り立ちしたばかりの水守といえば、原庵の診療所に住
み着く三匹である――水守達を、子供としている。
 くどいようだが、子供の水守は警戒心が強く、滅多に人前に姿を見せない。だから、子供の水守が
いる場所を知っているのは、瀬津郷でもほんの一握りである。
「おい。」
 ワタヒコが床に転がったまま、低い声を出した。
「俺は、嫌な事を考えちまったんだがね。」
「…………。」
 リツセもだ。そしてその考えは、きっと同じだ。
「瀬津郷の中の誰かが、子供の居場所を異人に教えている。」
 もちろんそれは、物珍しさにはしゃぐ異人への親切からではない。
 いや、回り回って親切と言えるのか。
 何せ、異人達に、水守の子供を手渡しているのだから。
「誰かが、売り捌いていやがるのか………!」
 水守を、異人に。
 確かに珍しいだろう。水守は瀬津郷にしかいない。
 珍しければ、見世物になる、売り物になる、金になる。
 商売人としては、なんとしてでも手に入れたくはなるだろう。気持ちは分からないではない。
 だが。
 瀬津郷において水守の売買は、御法度だ。当然、水守を無理やり連れていく事も、檻に閉じ込める
事も。
 それは如何に、例えば捨てられた犬猫に施しを与える心持でそうやったとしても、決して許される
行為ではない。
 それは、水守がヒルコ大神の化身である事に由来する。
 あらゆる富事と幸いを司る奇霊。しかし転じれば何物にも抑えられぬ荒霊と化す。
 今でも何処かで、水守の中に交じって人を見ているかもしれないが故に、人は水守を人と同じく扱
い、時には畏れ。
「一体誰が――!」
 ワタヒコが憤怒に満ちた声を練り上げた時、波とは明らかに違う揺れと衝撃が、暗闇を襲った。
 ワタヒコの声は宙に浮き、ワタヒコ自身は衝撃によってごろごろと床を転がって壁にぶつかる。
 リツセは、水守の檻にしがみついてなんとか投げ飛ばされる事は避けたが、しかし水守が入ってい
る檻そのものが、ずるずると床の上を左右前後にずれ動く。
 何度も何度も繰り返される衝撃に、リツセとワタヒコは、船底で自分の意志とは無関係に転がるし
かなかった。
 一方で、この揺れが波の所為ではない事にも気が付いていた。
 衝撃が襲う度に、職人達が木槌で柱を叩くよりも遥かに鈍い音が、船全体を震わせているからだ。
 座礁でもしたのか、と思ったが停泊中の船でそれはない。
 では、何が。
 そう思った時、天井の上で何やら慌ただしい気配がした。異人達も、この事態に混乱しているらし
く、聞き馴染みのない言葉がくぐもって聞こえる。
 その声が、いきなり開けた。そして降り注ぐ橙の光。天井の一部が外れ、異人が松明片手にこちら
を見下ろしているのだ。
 松明の端でちりちりと零れたのは豪奢な金髪と、彫りの深い顔立ち。テオドロが、見下ろしている。
 だが、別にこちらの無事を確認したというよりも、積荷の様子を見に来ただけのふうでしかなく、
床に転がるリツセやワタヒコを、もう少しまともな場所に移動させようとは思わないらしい。水守に
ついては、大事な商品として少し思うところがあったのか、檻を見て何か考えている。
 けれど、その間も異様な音は一定の間隔で鳴り響いている。
 波の音ではないと言ったが、しかしその間隔は波に似ていて。
 転瞬、一際大きく船が揺れた。リツセとワタヒコは、壁際にまで押しやられる。
 が、それを気にする暇はなかった。
 何せ、眼の前で船の壁が――リツセとワタヒコ、そして水守を閉じ込めている船底の壁から、にゅ
っと巨大な丸太が生えたのだから。




 荒れ狂う黒い波間で、無数の白い影が湧き立つ泡のように揺れ動く。しかしそれらは波に翻弄され
ていると言うよりも、波を掻い潜り、むしろ激しくうねる波を利用して、海に散らばる丸太を御して
いるようだった。
 白い影――水守達は、尻尾を右に左に動かし、自分が捕まる丸太を操縦して一撃、二撃と異人達の
船に攻撃を仕掛けている。
 尻尾が揺れる度に丸太が尻尾とは逆の方向に動くのを見て、リショウはあの尻尾にはそういう役割
があったのか、と場違いな感心をしていた。
 そんなリショウの脚元に、ぼてっと衝撃が走る。見下ろせば、たまが、何をぼさっとしている、と
言わんばかりの表情で見上げていた。ふん、とたまは鼻を鳴らすと、リショウを置き去りにして、大
時化の海の中に躊躇い一つ見せず、さっさと飛び込んでしまった。
 波に弄ばれて、波に飲まれては次の瞬間弾き出されるように突き上げられる丸太の一つに、たまは、
ひょい、と飛び乗る。そして丸太が波に覆われる直前に、すぐに別の丸太に飛び移る。
 ぴょんぴょんと丸太を飛び移っていきながら、たまは確実に異人の船へと近づいていく。
 さて、たまに置いてけぼりにされたリショウは、自分も陸地でぼさっとしている暇はないと、慌て
て海に飛び込んだ。
 しかし、海に飛び込んでも、生憎と水守のように器用に丸太と丸太を飛び移っていくなんて事は出
来ない。海面は丸太が信じられない勢いでぶつかり合い、その合間を泳いでいくのは不可能に思えた。
 けれども、ここで大人しくしているわけにもいかない。リショウは意を決して海に飛び込み、その
まま深く潜り込む。
 夜の海の中は暗く、到底ものが見える状態ではなかったが、少なくとも海面近くのように丸太と水
守の戦争にはなっておらず、まだ安全である。時折、水守らしき白い物体が、視界を横切るのが見え
たが。
 それらを掻い潜り――時化ているが、しかし海中はやはり海面よりも穏やかだ――リショウも異人
の船に近づく。
 たまがどのあたりにいるのかは分からず、リショウもたまを探すのは諦めている。どうせ、たまの
ほうが此方を見つけるだろう。それに、当初の水守が落ちたからそれを助ける為に海に飛び込んだ、
という言い訳は、これだけの水守が海に飛び込んで異人の船を攻撃している時点で、色々と無理があ
る。まあ、出来なくはないかもしれないが。
 なので、リショウは水守云々はもはやなかった事にして、海にばら撒かれた丸太をどうにかする、
という方向で話を進める事にした。
 水守が丸太を操って、船に攻撃を仕掛けている点については、どうせ傍目ただの白トカゲである。
異人が文句を言ってきても、すっとぼける事が出来るだろう。
 それにしても、海中でも凄い衝撃が伝わってくる。水守が丸太を使って船を殴りつけている音は、
膨張して全身に響く。
 やがて、濁った視界の中で何匹もの水守が、船底に張り付いているのが見えた。そして彼らが取り
囲んでいる部分に、丸太を操る水守がやってきては、丸太をぶつけていくのが。まるで鐘撞でもして
いるかのように、何度も何度も。
 そして、幾つもの丸太を束にした、一際巨大な塊が海中に沈み込んできた。その上に、一匹の水守
が尻尾をくるくると回転させながら乗っている。
 霞んだ視界であっても、リショウにはなんとなく分かった。
 たまである。
 たまであろう水守が操縦する丸太の束は、恐ろしい勢いで異人の船の横腹に噛みついた。
 そして、リショウは見た。そ丸太の束が、とうとう船底を突き破るのを。そして、水守達が、突き
刺さった丸太に一斉に飛び付き、揺さぶり始めるのを。
 ぐりぐりと揺さぶられた丸太は、みしみしと船を揺らしながら、船に開けられた穴を大きく広げて
いく。その隙間から海水が流れ込み始めた時、水守達はこれで十分と判断したのか、丸太を一気に引
き抜いた。
 引き抜かれた穴の前に、海水が一気に船の中に注ぎ込まれようと、鋭い渦巻きが出来るのが見えた。
 そしてその奥。
 水が泡立ち流れ込むその直前に、リショウは確かにそこにいる黒い瞳を見つけた。

「リツセ!」

 呼び声は、気泡となって消えてしまったが、リツセもこちらに気づいたのだろうか。こちらを呼ぶ
声は届いた。

「リショウ?」