夕方頃、リショウは漁師街に向かった。いつものように、三匹の水守を頭と両肩に一匹ずつ乗せて。
 漁師街は何処か気忙しげな空気が流れていた。それは谷間のように現れる晴れ間に、今まで雨で船
を出せなかった分を取り戻そうとしてなのか、それともリツセが消え去り、同じく漁師のワタヒコも
その姿を忽然と消してしまったからだろうか。
 リツセが消えた事に、ワタヒコが噛んでいるかもしれない。
 グエンは、検非違使達が少なからずともそう見立てていると言った。
 リショウも、ワタヒコが何か知っているであろうとは思っている。ワタヒコが消えた後に残されて
い栄螺の殻と、たまが吐き出した栄螺と。きっと、リツセはワタヒコに会いに行ったのだ。そこで、
栄螺を振る舞われた。それは間違いないだろう。リツセの家には栄螺を食べた形跡はなかったし、で
は他の何処かで食べたのなら――何処かの店か知り合いの家か――そこの家の主人が申し出ているだ
ろう。
 けれども今のところ、そういう申し出はない。ならば、申し出る事ができない人間――つまり、ワ
タヒコが昨夜リツセに栄螺を振る舞った相手だ。
 ただし、リショウはワタヒコがリツセをどうこうした、とは思っていない。ワタヒコは代々宮家に
仕えてきた漁師一族の一人だ。そのワタヒコが、宮家の血筋であるリツセ危害を加えるはずがない。
 検非違使達も、そう思っていて間違いないだろう。
 そう、ワタヒコはリツセが消えた時の事を知っている。それで間違いない。リショウと検非違使の
意見は同じだ。
 決して、ワタヒコがリツセに何かをしたわけではないのだ。
 漁師達もそう思っているだろう。が、そう思っていも、検非違使の、ワタヒコが何か事情を知って
いる、という言葉の裏を深読みするのが人間だ。
 ワタヒコがリツセに危害を加えるわけがない。が、それは如何なる証拠にも裏付けされていない。
心無い誰かが――例えばワタヒコを少しでも快く思っていない誰かが、ひそひそと囁けば、それは人
の心の隙間に入り込む。
 ワタヒコの家系が代々漁師の元締めであったことも踏まえれば、そこに絡む妬みや利益が、心無い
噂を立てる事もあるだろう。
 夕暮れ時の漁師街を駆け巡るのは、そんな噂話とそれを信じないようにしながらも横目で見てしま
う人々の思いだ。気忙しげな中に、はっきりと何か様子を窺うような後ろめたさが入り混じっている。
「うちの爺さんはそんな事しないよ。」
 久しぶりに立ち寄ったウオミの料理屋は、随分と空いていた。おそらく、ワタヒコの件が客足に響
いているのだろう。
 リショウがやって来るなり顔を曇らせたウオミを無視して、リショウは空いている席にさっさと座
る。三匹の水守達も、ぴょんぴょんとリショウの席の卓に飛び降り、何を食べようかとお品書きを眺
めている。三匹で一つの品物を食べるので、きぃきぃと三匹で何か話し合っている。意地汚い何処か
の水守とは大違いである。
 意見がまとまったらしい水守を見て、リショウはウオミを呼ぶ。ウオミはむっつりとした表情で、
注文を聞きに来る。リショウと話をしたくないのだろうが、ワタヒコの噂話もウオミの態度に影響し
ているに違いない。
 そんなウオミに、ワタヒコの事を投げつけた時に返ってきたのが、先程の台詞だ。
「爺さんは何考えてるのか分からないところはあるけど、リツセに何かしたりしないよ。」
「俺も、そう思う。」
間髪入れないリショウの返しに、ウオミは一瞬虚を突かれたようだったが、すぐに、ふんと鼻を鳴
らす。
「あたしの機嫌を取ろうっていったって、そうはいかないよ。」
「なんで俺が、お前の機嫌を取らないといけないんだ。」
 リショウにはウオミの機嫌を取るつもりなど、爪の先程も思っていない、先だっての呪い騒ぎ以降、
確かにウオミとは妙な具合に疎遠になった。が、だからといってリショウがそれをどうこうしたいと
思っているか、と言われればそうではない。リショウにしてみれば、まあ仕方ないな、くらいの事で
ある。
「お前の機嫌を取ったらリツセが帰ってくるっていうんならともかく、そうでもないのにそんなこと
して何になる。」
 にべもないリショウの言い様に、ウオミは完全に言葉に詰まったようだ。ぐ、と喉を引き締め、し
ばらくリショウを睨んでいたが、物凄い勢いで踵を返し、足の裏を床に叩きつけるように立ち去る。
その背に、リショウは一言だけ、言い放つ。
「リツセの居場所なら、大体分かった。」
 ぴたりとウオミが立ち止まる。
「おそらく、ワタヒコ殿もそこにいるだろう。一緒に捕まっていると、俺は踏んでる。」
 グエンが気が付いた、商船の船底の音。グエン以外の誰も気が付かず、そして商船の持ち主である
異人も、そこについては何も言わなかったという。グエンの見立てでは、船底にもう一つ、部屋があ
るのだ。そこを異人達が見せなかったのは単に忘れていたのか、そこには何もなかったからか、それ
とも何かあったからか。
 リショウとしては思い切り調べてやりたいが、その権限を持っていない。
「まあ、一応頼んではみるつもりだが、多分無理だろう。だから、別口でお前に頼んでおこうと思っ
たんだ。」
「頼むって、何を。」
「乗るって言うなら、聞かせてやる。嫌なら言うつもりはない。お前に頼らず、どうにかしてリツセ
を助け出してみせるだけだ。」
 ウオミが、再び斧凄い勢いで踵を返し、リショウの前にやって来て、どすん、と音がしそうな勢い
でリショウの前の椅子に腰を下ろした。
「……あんたが、何を知ってんのさ。」
「乗るのか?」
 リショウは、ウオミを見つめる。リショウだけではなく、三匹の水守もウオミをじっと見つめてい
る。四対の眼に見つめられ、ウオミはもう一度、鼻を鳴らした。
「リツセを助けられるんだろうね。」
「たぶんな。」
 確証には至っていないが、おそらく間違いない。その為には、ある意味で漁師の力が必要だった。
「リツセと爺さんの為だ。やるよ。」
 きぃ、と水守が頷いた。




 日が暮れると、また雨が降り始めた。飽きる事なく振り続ける雨に、リショウはむっつりとする。
よくもまあ、これだけ降るものだ。どうやら天には水が有り余って困っているらしい。
 リショウとしては有り難くない雨は、最初は遠慮がちにしとしとと降っていた、すぐに厚顔無恥な
表情に豹変し、あっという間に土砂降りになった。
 見る間に地面に染みをつけて、その染みが一瞬で広がって、瀬津郷は雨の只中に再び放り込まれた。
脇を通る水路も茶色く濁った水を、泡立たせながら運んでいく。
 蛙でさえもはや鳴き疲れたのか、軒下やら木立の隙間に避難している中、リショウは水守を抱えて
診療所に戻った。
 ひとまず、ウオミを通じで漁師連中に話は伝わった。ウオミの処に寄ったその足で、別当殿の様子
も見に行ったが、どうやら忙しいらしく会う事はできなかった。リツセの件で何か呼び出されたのか、
とも思ったが、会うことができない以上は話を聞くこともできない。
 代わりにナチハを捜したが、こちらは本当にリツセを探しているらしく、あちこちを駆け回ってい
て捕まえる事ができなかった。
 別に、検非違使と話したところで、どうにかなるわけでもないんだが。
 リショウは、グエンが気が付いた異人の船の下の空洞について、思いを馳せる。あれについて、検
非違使達に伝えようかと思い探していたのだが、しかしどうも知っている者がいないとなると、伝え
る事は難しい。その辺にいる輩に言伝て、意味が伝わらなくなってしまっては大事だ。
 まあ良いか、とリショウはすっぱりと諦める。捕まえられないなら、仕方がない。仮に話す事がで
きたとしても、それで検非違使が再び船を改めるかというと、はっきりと頷くことができない。
 あの船は、都に坐すという帝への献上品を積んでいるという。それを何度も何度も、つつくような
真似ができるか、というところだ。
 検非違使の協力は、最初からそこまで期待していなかったから、良しとしよう。リショウは自分に
言い聞かせる。むしろ、検非違使よりも漁師の手助けがあるほうが有り難いのだ。
 思いながら診療所の玄関を潜れば、あ、と慌てたような顔をしたザイジュと鉢合わせ田た。ザイジ
ュの顔を見て、リショウも、あ、と気が付く。
そういえば、夕飯はウオミの処で食べてきてしまった。その事は、当然の事ながら誰にも伝えていな
い。
 連絡が、報告が、と口喧しいグエンを思い出し、げっそりとしたところに、慌てふためくザイジュ
が駆け寄ってくる。そしてそのまま、土下座しそうな勢いで、
「リショウ殿!申し訳ございません!」
「いやいや、悪かったのはこっちのほう……。」
 夕飯の事を考えていたリショウは、ザイジュの突然の謝罪の意図を問わず、とんちんかんな返しを
してしまった。
 しかしそんな、とんちんかんなリショウの言葉を奇妙に思わずに、そのまま話をつづけたザイジュ
は、流石リショウの臣下と言うべきか。
「それが、たまが!たまが………!」
 臣下の口から突いて出てきたのは、腹を斬られて介抱されている水守の名前だった。
「なんだ、どうした?たまに何かあったのか?奴の具合が、とうとういけなくなったか?」
 たまについてザイジュが謝罪することなど微塵もないはずなのだが、たまの怪我という非日常的な
事象が起きている以上、そこを問い質すだけの感覚が、リショウからは失われていた。
「たまが………!」
 ザイジュは、ぐったりと項垂れる。
「リショウ殿の夕餉を食べてしまいました。」
「……………。」
 たっぷりと時間を置いてから、リショウが吐き出したのは、
「…………は?」
 それだけだった。
「脱皮前で皮が二重になってたから、その分、内臓や血やらが守られたんだね。特に命に係るような
事はないよ。こうしてご飯も食べているから、体力もすぐに戻るだろう。」
 原庵の見立てはこうであった。
 まだ脱皮をしていないたまは、全体的に皮が二重になっている。従って、斬られても分厚くなった
皮がそれを阻み、結果的に、つまりは大した怪我はせずに済んだ、と。
「じゃあ、吐いたりしたのは。」
「酔っていた上に、水の中を泳ぎ回ったことで、気分が悪くなったんだろう。二日酔い、というやつ
だね。」
 とはいえ、腹を斬られた事に変わりはないし、その身体で雨で増水した海やら水路やらを泳いだこ
とは紛れもない事実だ。疲れ切っていたことに変わりはない。と、思う。
 だが、それとリショウの夕飯を食べる事との間に、何の関係があるというのか。いや、ない。
「………それで、あの白トカゲは?」
「リショウ殿の夕餉を食べるだけ食べた後、寝ています。」
 腹いっぱいになった後、即座に眠る態勢に入ったらしい。確かに、消耗している体力を元に戻すに
は、一番手っ取り早い方法ではある。
 ただし、リショウにしてみれば、色々と納得いかないことがあるが。
「いや、良い。飯は食ってきたし、無駄にならなかったと考えればいいんだ。」
 ぶつぶつと一通り呟いた後、リショウはザイジュに向き直る。
「そうだ、お前達に話がある。あとで長屋に集まれ。」
「……と、言いますと。」
 リショウの言葉のうちに、何かを察したのだろう。ザイジュが顔を引き締める。それにリショウは
頷く。
「ああ、今晩、リツセを助けに行く。」




 既に夏に近づいているというのに、夜の帳が引き下ろされるのが早い。それは、空という空に暗雲
が立ち込めているからだろう。雲の隙間から落とされる雨粒は、あまりにも大きく地面に落ちる度に
激しいおと共に爆ぜる。
 破裂音が周囲を囲む中、リショウは傘を持たないままに、ひっそりと長屋を後にした。
 手には、愛用の得物である戟を持っている。瀬津郷に来た当初は、これを普通に持ち歩いていたが、
検非違使でもないのに武器を持ち歩くことを、この国の人々はしないようだ。まして、小太刀程度な
らともかく、戟というあまりにも目立つ得物は検非違使でも持たない。
 なので、リショウはここ最近はこれを持つのは、朝の鍛錬の時に限っていた。
 それを手にして豪雨の中を行くのは、明らかに異常だろう。むろん、すぐにばれないように、戟は
布で包んでいるが、調べられたら忽ちのうちにばれてしまう。
 けれども、だからといって丸腰で行くわけにもいかなかった。これから先、何が起こるか分からな
いのだ。武器は必要だった。
 あっという間に濡れ鼠になったリショウは、重くなった衣服を崩しながらも、歩調を緩めずに歩く。
その先を白い塊が滑るように進む。家々の灯りだけが滲む雨夜に、真っ白なそれは良く目立つ。
 ぺちぺちと音を立てて歩くそれは、時折リショウを振り返りながらも、けれどもこちらも歩く速さ
はむしろ徐々に早くなりながらも、先へ先へと急いでいる。
 たまである。
 今から少し前、リショウが長屋を出る前、リショウは数少ない部下と、小さな水守に自分達の作戦
を話して聞かせた。
「奴らの船底に、穴を開ける。」
 そう言って聞かせた時、その場にいた全員の反応は薄かった。理解できなかったと言うよりも、そ
んな事をしてどうするんだ、という態であった。
「確かにそれだとリツセ殿を見つける事はできるかもしれません。ですが、危険と隣り合わせすぎは
しませんか。」
 ザイジュの言葉に、ヨドウも頷く。
「それに、もしもそこにリツセ殿がいなければ、どうなさるおつもりか。全く無実の者の船を壊した
事になりますぞ。」
「ちゃんとそこは考えてある。」
 リショウは、部下の問いに答える。
「まず、船底からリツセを助けることだが、ウオミに頼んで船の周りには漁師連中を集めて貰ってい
る。奴らには気づかれないように、自分達の船の隙間に潜り込んでもらっている。そいつらの力を借
りれば、救助は何とかなるだろう。あと、船を壊した事で、文句を言われるかどうかだが。」
 事故にしてしまえば良い。
 リショウの言葉に、部下二人がきょとんとした顔をする。グエンは、無表情でリショウを見つめて
いる。
「あの異人の船の周りで、雨風の影響で、木材を乗せた船が転覆して、乗せていた木材が海に散らば
る……そういう事になっている。しかも乗っている木材は、大きな束になっていて、波に煽られて何
度も船に当たれば、船に穴くらい空く。かもしれない。」
 そういう事になっている。
「俺は、その木材と一緒に波に煽られて、船に穴が開く瞬間を見て、船底に何があるのかを、偶々、
見ることにする。」
「………何故、海に入っている事になっているのだ?」
「水守が海に落ちて、それを助けようとして。」
 グエンの質問に答えながら、リショウは三匹の小さい水守を見る。三匹の水守は、眼をぱちくりさ
せて、互いの顔を見合わせ始めた。自分達が此処で使われるとは思っていなかったのだろうし、そも
そもこの雨の中、海に入ることになるとは微塵も考えていなかったようだ。
 リショウも、この小さい水守達を海に連れて入るのは危険だな、と思う。冗談抜きで流されてしま
うかもれしれない。けれども、巨大水守であるむには、今に限って姿が見えず、他に協力を要請でき
る水守がいなかったのだ。
 不安そうに三匹で固まる水守の中の、どれか一匹を選ぼうとリショウが考えている矢先、脚元に軽
い衝撃があった。
 見下ろすと、非常にふてぶてしい眼付きと眼があった。
 きぃ。
 不機嫌そうな鳴き声に、円らなのに目つきの悪い顔立ち。
「たま。」
 散々、人の飯を食い漁って、ぐっすりと眠っていたはずの水守である。
 たまは、ふん、と鼻を鳴らすと、リショウの手から三匹の水守を護るように、その前に立ち塞がる。
「……お前が来るっていうのか?」
 腹を斬られた、昨日の今日だというのに。すると、たまは何を当たり前のことを、と言わんばかり
に、再び鼻を鳴らす。
「大丈夫なんだろうな。腹の傷が開いたとか、洒落にならないからな。」
 今度は、馬鹿にしくさった目つきでリショウを眺める。
「後で、やっぱり嫌だった、とか言っても聞かないからな。」
 きぃ。
 小馬鹿にした鳴き声だった。
 そういうわけで、リショウはたまと一緒に、驟雨の中を歩いている。
 太い針のような雨粒が幾多も闇を裂く中、さっと一人と一匹の行く手を、さらに深い闇が遮った。
その細い闇は、形の良い顎から何度も何度も雫を滴らせ、瞼に雨が突き刺さるのも厭わず、きり、と
リショウを睨み付けている。
「そろそろ時間かい?」
 硬く強張った声は、けれども以前よりは柔らかい。呪いでぎこちなくなったウオミとの関係は、呪
いを上回る事態によって解かれ、別の緊張を孕んでいるが、そこには気まずさはない。
 リショウが頷くと、ウオミはくるりと背を向けて海から上げられてひっくり返された漁船のもとに
向かう。漁船、と言っても一人か二人が乗り込んで、釣り糸を垂らすような小さな漁船だ。陸に上げ
て、船底に水が溜まらないようにひっくり返しておくことは、度々ある。
 そんな船が、港の至る所に置いてある。その下では、ウオミが声を掛けた漁師達が、息を潜めてい
ることだろう。小さいといっても、人一人隠すには、十分な大きさなのだ。
 ウオミの後について船の下に潜り込み、船と地面との隙間から、荒波に揉まれる異人の商船を見る。
ぐらぐらと揺れる、巨大な暗がりの化け物は、しかし所々に、光の点を指している。微かに揺れ動い
ているのは、そこに異人達がいるからか、それとも単純に炎が風で揺れているからか。
 けれども、それらの眼に見える光の何処かに、リツセがいない事をリショウは知っている。リツセ
は、グエンの耳を信じるならば、あの暗い船の腸の底にいるのだ。そこにはウオミの祖父であるワタ
ヒコもいるはず。
「準備は出来てるのか?」
 隣にいるウオミに問えば、頷く気配がする。商船から少し離れたところに、幾つもの三角形が揺れ
動いているのが見えた。丸太の束を、ああして船に積み上げているのだ。
 あの丸太が荒波の所為で崩れ落ち、海に投げ出され、異人達の船にぶつかっていく。そういう手筈
になっている。少ししたら、リショウも海に落ちた水守を助けるという名目で、海に飛び込まなくて
はならない。そして、丸太に掴まり――もとい、丸太を異人の船にぶつけて、穴を開けなくてはなら
ない。
 さて、そうも簡単に、穴を開ける事が出来るか――丸太の先には、一応、木を叩き割るような鉈や
ら、石鎚を仕込んでいるが。駄目ならば、散らばった丸太を拾い上げるふりを漁師達にさせて騒ぎを
起こさせ、その隙に船に忍びこむか。
そう、つらつらと考えていた矢先、あ、とウオミが声を上げた。
「丸太が海に落ちた!」
 その声に、リショウも、何、と声を上げる。丸太が落ちるには、まだ早い。リショウが
 船から去って、海の傍に寄った時がその合図なのに。
「誰かしくじったな。」
 ウオミが忌々しそうに唸り、リショウは船の下から飛び出す。あの船を見てるのは誰だ、と肩を怒
らせるウオミに、もしかしたら、自分達が思うよりも波が激しく、勝手に丸太が海に投げ出されてし
まったのかもしれない、とリショウは思う。リショウの眼には、誰かが――漁師の誰かが丸太を養生
している綱を切ったようには見えなかったのだ。
「ウオミ、俺はすぐに海に飛び込む。」
リショウは邪魔な上衣を脱ぎ捨てると、得物をウオミに預けて海に駆け寄る。丸太が海に流れ込んだ
のは予定よりも早い。だからといって中止にするわけにもいかない。予定が早まったからといって、
問題はない。とにかく、たまが海に落ちて、リショウがそれを助ける為に海に飛び込む、という構図
さえ出来ていればいいのだ。
 が。
 海に飛び込もうとするリショウの後ろを、たまが、ぽってりぽってりと、特別急ぐふうでもなく歩
いている。
「おい、お前急げよ!」
 たまが先に海に飛び込まなくては、リショウがたまを助けるという構図にはならないではないか。
 が、たまはそんな事は興味がなさそうに、リショウの後から歩いてくる。
「お前、まさか怖気づいたのか。」
 海は、想像していた以上にあれていた。丸太はぷかぷか浮いていると言うよりも、波に飲まれたか
と思いきや、鮫のように波間から飛び出し、別の丸太を押しのけ、そしてくるくると回転しながら水
飛沫と共に波に沈む。そして再び飛び出してくる。それを、繰り返している。
 人間でも飛び込みたいとは思わない。たまも、飛び込みたくはないだろう。
 が、リショウの台詞に、たまはいつものように、馬鹿にしたように鼻を鳴らしただけだった。
 そしてさっさとリショウを追い抜き、その後ろ姿をリショウが追っていると、視線の先で再び、丸
太が波間で激しく踊った。
 リショウは見た。
 波から飛び出しては海に叩きつけられ、人の背丈も越える水飛沫を放つ丸太に、何か白い物がしが
みついているのを。それは、一つや二つではなく、そして決して小さくもない。
人の腰ほどの大きさもある、水守が、丸太にしがみついているのだ。
 そして、確かに丸太を商船のほうへと誘導している。港に溜まる海の波が、リショウが思うよりも
激しく打ちつけられていたのは、無数の水守がそこで渦巻いていたからか。
 水守に舵を取られた丸太は、異人の船を取り囲みつつある。
 やがて一際大きな丸太の束が、二匹ほどの水守に操られ、鋭い勢いで異人の船底にぶち当たった。
 何度も、何度も。
 その度に轟音がして、船の巨躯が震える。
 船の中で、点状の灯りが慌ただしく動き始めた。異人達が、異変に気が付いたのだ。けれども、も
う遅い。
 水守達は間合いを十分に取って、最後に火花のような速さで、丸太を勢いをつけて船底にぶつけた。
 みしり、と。
 音が聞こえなかったのが不思議なくらいだ。丸太は、船底に確かに突き刺さっていた。