昨日、陽が沈んでから雨が降りだした。
 別当スイトの屋敷を辞した後、そのまますぐにワタヒコのところを訪ねようかと考えていたのだが、
雨が酷くなる一方だったので、止めにしたのだ。別にワタヒコが何処かに逃げ出す事などない。だか
ら、そんなに急いで合いに行く必要もないだろう。
 そう思って、リショウは長屋に戻ってそのまま寝たのだ。
 そして、明け方。耳元で、きぃきぃと水守が煩く鳴く声で、リショウは叩き起こされた。ついでに、
顔をぺしぺしと叩く感触もあった。
 まだ部屋のそこかしこに夜の残滓が蹲る部屋で、リショウはぼんやりとした頭を抱えて上半身を起
こす。途端、リショウの胸の上に乗って、尻尾で顔を叩いていたらしい水守の一匹が、ころりと転が
り落ちた。きぃ、と抗議の声が上がるが、そんなところにいたほうが悪い。
 残りの二匹は寝ているリショウの頭の左右両脇で鳴いていたらしく、むくりと起き上がったリシ
ョウを見上げて、やはり、きぃきぃと鳴いている。
「なんだよ、まだ日も明けてねぇじゃねぇか。」
 光よりも闇の多い部屋を見回し、再び布団に潜り込もうとするリショウの顔に、転がり落ちた水守
が飛び掛かる。花が、水守の腹で押し潰された。微妙に息苦しい。
 ぺりっと顔に張り付く水守をはがし、
「お前なあ、たまみたいな事するな。」
 たまの名前が出た瞬間、水守達のきぃきぃがいっそう強くなった。
「なんだよ、さっきから。」
 布団の上に座ったまま、何かを訴えるように鳴く水守達を見下ろす。
 腕組みして円らな眼を見ていると、不意に部屋の外の床がきしむ音がした。何者か、と警戒する前
に、足音の主が名乗る。
「リショウ殿、宜しいか?」
 堅苦しい物言い。ヨドウだ。
「ああ、どうした。」
「長屋の玄関先に水守が倒れております。」
「なに?」
 先程まで騒いでいた水守達が、一斉に黙り込む。ただし、訴えるような眼差しは変わらない。
「ずぶ濡れで、しかも身体中に塩が付いている。おそらく、海に落ちて此処まで水路を通じて泳いで
やって来たのではないかと。」
 ただ、とヨドウが口籠った。
「腹に、刃物で切られたような傷が。」
 ヨドウは瀬津郷に来て日が浅い。しかし水守が瀬津郷でどれほど重要視されているかは十分に知っ
ている。
「すぐに原庵殿を呼び、原庵殿が介抱しております。ただその水守を見た原庵殿が、たま、と。」
 予想だにしなかった名前が出てきて、リショウは布団を蹴り上げて立ち上がった。水守達が、リシ
ョウの身体に飛び乗る。
「リツセには、伝えたのか?」
 扉を開くと、扉の前で膝を突いているヨドウがいた。ヨドウは君主の質問に、ザイジュを向かわせ
ました、と答える。同時に、聞こえるかどうかの細い足音が短く聞こえ、ザイジュが走り込んできた。
 ザイジュはリショウの部屋の前に駆け込むと、ヨドウと同じように膝を突く。
「リショウ殿、リツセ殿にたまの事を伝える為に、リツセ殿の上に伺いました。ですが、何度呼びか
けても返事はありません。それどころか。」
 人の気配が、しません。
 リショウの顔が、凍り付いた。
 その日は、リショウにとって後悔が何にも勝る日となった。





 リショウは、ようよう東の空が白みがかった町をひた走った。
 たまの容態は分からない。原庵がとにかく介抱しているし、グエンがその様子を見守っているから、
何かあればすぐに連絡が取れるだろう。
 それよりも、問題はリツセだ。何度呼びかけても返事がない。まだ寝ているだけかと思うには、些
か無理がある状況だ。何よりもザイジュが、家の中に人が居る気配がないという。
 たまがあんな状態で見つかった以上、リツセにも何かあったのではないかと思うのが普通だ。
 リショウは、リツセの家の前に立ち、木の扉を叩く。日がまだ差さない店先には、リツセが看板代
わりにしている久寿玉もかかっていない。
 名前を呼びながら何度も扉を叩くが、返事はない。リショウも、返事が返ってこない事は、想定し
ていた。ザイジュの言う通り、家の中からは返事がない。しかしそれでも確認しなくてはならない。
 家の中で、もしかしたらリツセもまた、たまと同じように斬られている可能性があるのだ。
 無理やりに扉を抉じ開けようとした時、
「なにやってんのよ!」
 つんつんと尖り切った声が背後から突き刺さった。振り返るまでもない。小間物屋のチョウノだ。
空が白み始めたと同時に、職人達は目を覚ましたのだろう。そして、久寿玉師の家の前で、騒いでい
る男を見つけたのだ。
「近所迷惑よ!リツセにとっても迷惑よ!さっさと帰りなさいよ!」
「そんな事言ってる場合じゃない。お前も手伝え。」
「はあ?」
 リショウの心境とは裏腹の、間抜けな声を上げるチョウノに、リショウはようやく向き直った。チ
ョウノは箒を構え、今にもリショウを叩きのめす寸前の姿をしていた。
「たまが斬られてるのを、原庵先生の長屋の前で見つけた。」
「え?」
「たまは今、原庵先生が介抱している。それをリツセに告げようとしてるんだが、いっこうに返事が
ない。」
「ちょ、ちょっと待って。」
「だったら、リツセに何かあったと思うのが、当然だろうが。」
 嘘、と言うチョウノに、そんな嘘を吐いてどうする、とリショウは扉を引っぺがそうとしながら答
える。正直なところ、これ以上チョウノの相手をしている暇はない。
「だから俺は忙しいんだ。当り散らしたいんなら、別の奴に当たれ。」
 がたがた、と木の扉を揺らす。古いが作りがしっかりしていて、なかなか外れそうにない。壊すか、
と思考を乱暴な方向に切り替えようとしていると、
「ちょっと、ちょっと待ちなさいよ。」
 チョウノがようやく事態を理解したのか、慌てたような声を上げて箒を放り出し、自分の家にぱた
ぱたと駆けこむ。父さん、父さん!と叫びながら。
 娘の呼び声に応じて、チョウノの父親が家から走り出てくる。そういえば、チョウノの父親を見る
のは、リショウは初めてだった。自らで小間物を作り、それを売りに出しているとは思えないほどの、
がっしりとした体躯の持ち主だ。その太い指でどうやって作業をするのか、常ならば疑問に思うかも
しれないが、今はそれどころではない。
 リショウがチョウノの父親についての感想を述べる暇も見いだせぬ状況で、チョウノは既に父親に
状況を説明していたのか、武骨な父親はリショウがガタガタと無意味な音を鳴らしている扉を抱え込
むと、どういう仕業を使ったのか、あっさりと扉を外した。
 リショウはそれに大して賛辞を贈る事もなく、ただ、ぽっかりと開いた店の中に飛び込んだ。
 夜明けの店の中には、勿論一つの灯りも灯っておらず、薄暗い。壁際で、売り物の久寿玉達が、無
言を貫いているばかりで、ただただ静かだ。
 何も語らない久寿玉を置き去りに、リショウは店の奥にある、リツセが生活の場としている部屋に
駆け込む。
 客間には当然誰もおらず、仕事場である部屋には、紙がその他の作業道具と一緒に、纏められ、い
つでも仕事ができるようにしてある。しかし、やはり此処にも誰もいない。仕事道具も、動かされた
形跡はない。
 最後に、リツセが寝室として使っているだろう部屋を見る。そこは、ただがらんとして、何もなか
った。布団を敷いた形跡もない。
「何勝手に入り込んでるのよ!」
 後からついてきたチョウノが、ひそひそと文句を言うが、その声は微かに上擦っている。たまが斬
られたという事実が、それほどまでに衝撃だったのだ。
「……誰もいない。」
 リショウは、背後にいるチョウノに、ぽそり、と呟く。
 リツセの家には、誰もいない。少なくとも、昨夜から誰かがいたという様子はない。リショウは、
台所をちらと見るが、そこに朝飯や晩飯を食べたという形跡もなかった。リツセは、昨夜からこの家
を留守にしていたのだ。
「おい、リツセが何処に行ったとか、見てないのか?」
「見てないわよう。」
 リツセの影が何処にもないことに呆然としつつも、チョウノは答えた。
「昨日、あんたが帰ってから、あたしも家に帰ったもの。その後はずっと家の手伝いをしてて、リツ
セには会ってない。」
 それならば、その後にリツセは何処かに向かったのだ。もしも何者かがこの家に忍び込んでリツセ
を攫ったなら、チョウノ達が気づくだろう。リツセが出かけた先で、何かしらが起こったのだ。
「ねぇ、それよりもたまは大丈夫なの?ねぇ。」
 不安げにリショウの裾を引くチョウノを、リショウは振り返らずに答える。
「今は原庵先生に任せるだけだ。俺には何とも言えない。」
 ちらりとヨドウが告げたのを聞くと、見事に腹を一閃、切り裂かれていたらしい。どういう具合な
のかは、正直リショウも分からない。
 身を強張らせた若者二人を、朗々とした声とどんどんと床を響かせる足音が割れに帰らせる。チョ
ウノの父親が入ってきたのだ。
「おう、どうやらリツセはいないみたいだな。」
 ぐるりと辺りを見回し、父親はそう言った。そして二人に向き直ると、
「ひとまず遣いをやって、検非違使に知らせるようにした。何せ事が事だからな。」
 厳つい顔に、更に厳つく眉間に皺を寄せた男は、今現在自分に出来る手を打ったことを伝えた。
「この家におかしなことがないかは、検非違使の連中が調べてくれるだろう。だから、お前さんらも
落ち着きな。」
「でも、父さん、リツセがいなくなって、たまも斬られちゃったのよ!落ち着いていられるわけが!」
「だからといって、チョウノ、お前に何かできるわけじゃあねぇだろう。お前は探し物が得意なわけ
でもねぇし、やっとうの心得があるわけでもねぇ。」
 事実を突かれ、しかしチョウノは納得できないという顔で父親に言い返そうとする。しかしそれと
男は押しとどめる。
「安心しろ。リツセは宮様のおひい様だ。ヒルコ様の加護を一身に受けている。俺達なんかよりかよ
っぽどか護られてる。リツセに何かあったら、瀬津郷全体が只じゃすまされんだろうて。」
 しかし、とチョウノの父親は少し首を傾げる。そして独り言のように呟いた。
「徳利がなくなってるな……。まさか社にでも行こうとしたのか?」
「徳利?」
 リショウは聞き咎めて問う。
「徳利って何だ?社と何か関係あるのか?」
 ん、と父親は頷く。
「ヒルコ様の社に向かう時、お供え物として徳利に酒を入れて持っていくことがある。リツセは酒は
飲まんから、徳利の使いどころは大抵それだからな。」
「社……。」
 社は宮家のある方向だ。けれどもたまは塩だらけで発見された。つまり、たまは海の近くで何かに
襲われたと考えて間違いないだろう。しかしそれならば、リツセは徳利を持って何処に向かおうとし
ていたのか。
 考え込むリショウの耳に、何事かと眼を覚ました人々の声と、訪れた検非違使達の声が飛び込んで
きた。