たまがたらふくサザエやら酒やらを飲んで満足した辺りで、リツセはワタヒコの処を辞することに
した。
 小さな小屋の周りは既に夜の帳が降ろされて、それともう一つ、光を浴びて銀に煌めく針がしとし
とと落ちかかっている。雨が降り始めたのだ。
「いい歳した娘が、夜に一人歩きするのは感心しねぇ。」
 小屋の中に残されていた古びた傘を片手に、ワタヒコもよっこいせと立ち上がる。家まで送るとい
う老漁師に、大丈夫だと言ったが頑として聞かない。
もしも何かあったらどうするのだ、と言い、むしろ何かあったら儂が困る、と言うワタヒコの中では、
やはりリツセは宮の一員なのだ。
 それ以上断り続けるのもなんなので、リツセは酔っ払って少しばかりふんにゃりとした表情をして
いるたまを抱きかかえると、ワタヒコの差す傘の中に入って、雨の降る夜の浜辺を後にした。
 背後では、黒々とした海が普段よりも波を荒くしている。昨夜まで大暴れしていたというのに、ま
だ暴れたりないのか。
「スサノオ様がやってきとるのかもな。」
 ぽつり、とワタヒコが呟く。
 スサノオはヒルコの弟で、葦原国を囲う海全てを治める神だ。しかしその性格は猛々しく荒々しく、
数々の無作法を積み上げてきた暴れん坊である。そんな神に治められた海は常に波高く、人が船を出
す事もできぬものだった。
 当然の事ながら、瀬津郷に面した瀬津ノ海も荒波激しく、人に幸を与えぬ海だった。これを哀れに
思ったヒルコ大神が、暴れん坊の弟から瀬津ノ海を取り上げ、自ら治めるようにしてからは、瀬津ノ
海は穏やかで、幸溢れる豊かな海になったという。
 スサノオはその後、改心し、海を真面目に治めるようになったが、瀬津ノ海だけは兄であるヒルコ
に譲ったままだ。ただ時折、兄の元に立ち寄ることがあり、すると時化や嵐が起こるのだ。
 海が荒れるのは、ヒルコ大神の加護が薄れているのか、それともスサノオがやって来ているだけな
のか。人々には神の心裡は分からない。
 二人と一匹は、とぼとぼと暗い海沿いを歩く。
 桟橋のあるあたりに差し掛かった時、ふと、リツセが足を止めた。徐々に波が高くなる雨の海の上
で、黒々とした巨大な塊が、ぐらぐらと揺れている。
 異国の商船だ。
 少しずつ距離を置きながらしっかりと陸と繋がれている船からは、明かりが漏れてこない。この長
雨で出航できない異人達は、港町に宿を取り、そこで時間を潰しているのだろうか。
 波と風に合わせて揺れる船を見ながら、リツセはその暗がりの中に何かが蟠っていないか捜す。あ
の、女の言っていたことが気にかかるのだ。一体、何の子供が拐されたのか。
 無言で船を見つめるリツセの腕の中で、急にたまが身動ぎした。その動きと同時に、ある船の中で、
確かに光が瞬いた。
 船番を置いているのだろうか。勿論、それ自体はなんらおかしい事ではないのだが、しかし、一方
でリツセは、その光零れる船の前で蠢く影に気が付いてしまっている。
「なんだ、あいつらは。」
 ワタヒコも気が付いたようだ。船の前で、何かをしている数人の人影に。
 リツセはワタヒコを促し、近くにある漁師小屋に身を潜める。見つかってはまずい。何かが耳元で
囁いたのだ。腕の中のたまも、一つ身動ぎした後、やけに大人しい。たまも、何かを察して周囲の気
配を窺っているのだ。
 どうやら、数人いるようだ。ばらばらに動く人影を見て、そう思った。船から降りてきた何者かと、
町のほうからやって来た何者か。彼らは顔を合わせながら、話をしているらしい。何を話しているの
かまでは聞こえない。ただ、町のほうからやって来た者達は、手に荷物を引っ提げている。
 それは、少し大きめの虫籠のように見えた。
 中で、白い物が蠢いている。
「あの野郎ども………!」
 ワタヒコが呻いた。籠の中で蠢く白い物がなんであるのか、ワタヒコは気が付いたのだ。それは、
小さな水守達だった。籠の中で何とか逃げようと動いている、まだ子供の水守達だ。
 瀬津郷では水守はヒルコ大神の化身とされている。故に捕まえて売り買いすることはおろか、あち
こちで寝そべっている水守を飼うことさえ許されない。固く禁じられて、もしも禁を破れば島流しだ。
 にもかかわらず、眼の前では小さな水守達が捕えられ、籠の中に入れられ、異人の船に乗せられよ
うとしている。
 水守は人懐っこいように見えるが、実際は警戒心の強い生き物だ。人里に住み着き、家々でご飯や
お菓子を貰っているから、一見すると人に慣れているように見えるが、彼らが何かを貰うのは、彼ら
が自分に危害を加えないと認めた者に限られている。見ず知らずの者が与えるものには、決して手を
出さない。
 そもそも。そもそも、だ。あんな小さな水守達は、まだ、人前にはほとんど姿を現さい。あんな小
さな水守を人里で見ることができるのは。
 幾重にも厳重に守られた、社の中くらいだ。
「あの罰当たり共が!」
 宮家に仕えた老漁師は、吐き捨てるなり、人影の集まる船の前に飛び出そうとした。同時に、たま
が鋭く尻尾でリツセの腕を打った。はっとしてリツセが飛び退れば、たった今、リツセがいた場所を
白刃が薙ぎ払っている。
 闇の中から、ち、と舌打ちする音が聞こえた。
「な………!こっちにもいやがったのか。」
 しゅっと短い音と共に、ワタヒコが小刀を引き抜く。
「リツセ!お前さんは逃げるんだ!少し走れば漁師共の屯があるだろう。」
 老漁師の男気は、けれどもこの場においては何の意味もなさなかった。船の前で水守を船に乗せよ
うとしていた連中が、こちらの騒ぎに気が付いて走り寄る水音が聞こえる上に、眼の前にいる白刃は
長々と伸び、ワタヒコの小太刀では到底相手にならない。
 ばしゃばしゃと背後に迫る足音は、あっという間に距離を詰めようとしている。
 それでも、ワタヒコが未だ隆々とした筋肉を撓らせて、雄叫びを上げながら小刀を振り回す。もし
も、雨音がもう少し小さければ、ワタヒコの声が漁師町にまで届いたかもしれないが、それは今は叶
わない。
 前にある白刃が再び大きく弧を描いた。ワタヒコはそれを飛び退って避ける。が、それと同時に追
い縋った背後の足音が、鈍い音を立ててワタヒコの頭を殴った。その手にあったのは見るも重そうな
棍棒で、ワタヒコは声もなくその場に崩れ落ちる。
「ワタヒコ殿!」
 駆け寄ろうとするリツセの前に、すらり、と白刃が突きつけられ、動きを封じられる。鼻先にある
水が滴る刃と、そしてその先にある溢れ零れんばかりの金髪に、リツセは顔を顰めた。
「………おや、あまり驚いた顔をしないな。」
「…………。」
 リツセの代わりに、水守を何らかの取引に使おうとしている連中が、ワタヒコの身体に近づき、そ
して水が溢れる地面に押し付ける。その気配を肌で感じ取りながら、リツセは眼の前で嗤う異人から
眼を逸らさない。
「それともあまりの事で声も出ないか?黄色い蛮族よ。」
「…………女が男のふりをしなくてはならない船である時点で、その船のお里が知れるというものだ。」
 端からお前の事など信用していなかった、とリツセは、片言の言葉をなくして流暢に話すテオドロ
に向けて、素っ気なく言った。
 女が男のふりをしなくてはならない。
 その言葉を聞いた途端、テオドロの柳眉がひくりと動く。
「……まさか気づいていないとでも?そんな下手な変装で、気づかないわけがない。西の果ての異人
は、どうやら女は男らしさを介せぬし、おまけに女の姿ではおちおち安心して出歩けぬほど治安が悪
いらしい。」
 冷ややかなリツセの言葉に、テオドロは一瞬憤怒の形相を浮かべたが、すぐに引っ込めた。
「ふん。ならばお前はその女にとっての地獄にも似た、西の果てに連れ去ってやろう。そこで延々、
嬲られるが良い。ちょうど、彼の国では自国民のが撤廃されてな。異人の奴隷が必要になっていたと
ころなのだよ。」
 言うなり、テオドロは真っ白な百合のような手を、しかし鬼の鉤爪のように折り曲げ、リツセに掴
みかかる。
「ぎゃあ!」
 が、悲鳴を上げたのはリツセではなかった。テオドロが掴みかかろうとした手から真っ赤な血を流
し、その手を痛みで振り回している。
 その足元には、威嚇音もないままにテオドロに噛みついたたまが、陣取っていた。
 たまは汚らわしいものを吐き捨てるかのように、口の中のテオドロの血を、ぺっと吐き出す。それ
は雨であっという間に流された。
 たまは、無言で異人共を睨み付ける。唸り声も上げなければ、威嚇もしない。ただ円らな眼を半眼
にし、その眼に激しい怒りの色を浮かべている。
 だが、怒り狂っているのは水守だけではなかった。
「この、このトカゲ風情が!」
 たまに手を引き裂かれたテオドロも、美しい顔を歪めている。
「汚らわしいトカゲの分際で、よくも私の白い手に傷をつけたな!」
 怒鳴るなり、両刃の剣をたまの頭上に振り落す。しかしそれはたまを斬らず、たまがいた地面を殴
りつけ悪戯に泥水を跳ねさせただけだった。その間にたまは方向を変えると、一とびでテオドロの顔
の横顔につき、その頬に噛みつく。
 テオドロの罵声にも似た悲鳴が上がる頃には、たまはさっと飛び退いている。
 テオドロが、何事か喚いた。それは異国の言葉でリツセには意味は通じなかったが、どうやら罵詈
雑言の類であったことは理解できた。
 そしてもう一度、テオドロが剣を振りかぶる。大きく振りかぶられたそれを、たまはあっさりと避
けた。そしてもう一発、テオドロにぶちかまそうとした時、テオドロが厭らしく笑った。
 般若の顔も可愛く見えるほどの、凄惨な顔だった。
 テオドロは振り下ろした剣をそのまま持ち上げたのだ。持ち上げるその軌跡の先には、テオドロに
飛び掛かるたまの、白い腹がある。
「たま!」
 ぎゅっ。
 水守の声にしては、やけに低い声だった。テオドロの剣は、見事にたまの腹を引き裂いた。仰け反
り跳ね飛ばされるたまの腹に、真っ赤な線が一筋あるのを、リツセは見た。
「たま!」
 ぽん、毬のように地面の上で跳ねるたまに駆け寄ろうとするリツセを、テオドロの鉤爪が今度こそ
引っ掴む。喉元を掴み、締め上げる。
「おっと、逃がすと思ったか、蛮族の女。」
 眼の前ではたまの身体が力なくころりと転がっている。ころころ、と転がって。
「お前は本国への重要な土産だからな。それに、この地の執政者の血を引くお前は、何かと利用価値
がある。」
 ころころ、と。
「そうとも。お前達蛮族は、蛮族らしく蛮族同士で潰し合うんだ。我々の掌の上で踊り、我々の下で
生きるべきだ。」
 音もなく、たまは跳ねて転がり、荒れ狂う海に落ちた。
 声は、何処にも聞こえない。
 あるのは、小さな囚われの水守の、哀れな声だけだった。