リショウが帰った後、リツセは残りの塵屑を片付けていた。雨上がりのすっきりとした気配もあっ
て、そう広くはないリツセの家の庭は随分と小奇麗になった。
 チョウノがまだ何か手伝うと言っていたが、他には特にする事もないので、さっさと帰らせた。随
分と名残惜しげにしていたが、本当に何もすることがないのだと気づくと、すごすごと小間物屋の手
伝いに戻っていった。
 さて、騒がしい連中が帰って、残るのはリツセと、羊羹の食べ過ぎで動けなくなっていたたまだけ
である。流石にもう腹がこなれたようだが、まだ縁側でころころしている。
 そんなたまを置き去りにして、リツセは徳利を戸棚から取り出していた。
 徳利など、酒を嗜まぬリツセの普段の生活ではほとんど使うことがない。リツセの母も酒は飲まな
い。しかしそれでも念の為にと置いてある徳利である。
 その、念の為に置いてある徳利を取り出したリツセが向かったのは、台所の隅に置いてある、これ
またリツセが飲むわけでもない酒の入った酒樽の元である。
 リツセもリツセの母も飲まぬが、しかし酒樽に酒が常備してあるのは、酒が神事に近いからに他な
らない。神の元に赴く時には、酒を持ち行くことが幸いだ。縁起物である久寿玉を作るリツセも、当
然のことながら、久寿玉を納める時には酒も共に納めることがある。
 いや、酒樽を持っておくことは、別に神事や縁起に関わる者に限ったことではない。瀬津郷の大概
の家には、酒が常備してある。
 酒樽の蓋をあけて、とくとくと徳利に酒を注ぐリツセの脚元に、ぽん、と何か柔らかいものがぶつ
かる。見下ろさなくとも分かる。白い身体に丸っこい顔。円らな眼でこちらを見上げる水守。先程ま
で羊羹で腹を膨らませていたたまが、酒の匂いを嗅ぎつけてやって来たのだ。
 リツセもリツセの母も酒は嗜まぬ。が、たまが嗜むのだ。子供の水守はともかく、大人の水守は酒
を嗜むのが、水守にとっては当然らしい。
 これが、瀬津郷の家に酒が常備してある理由である。
 といっても、家に住み着く水守の為だけではない。水守はヒルコ大神の化身だ。ヒルコ大神は水守
に良く似た姿をしているという。水守の中に紛れて人の暮らしを見守っているとも。水守に紛れたヒ
ルコ大神は、時に酒を飲みにやってくることもあると。
 酒は、水守を介してヒルコ大神に捧げられるものなのだ。
 なので、たまが酒を所望している以上、たまに酒をやるべきなのだが。
「さっきまで、羊羹を食べて動けなくなっていただろう。」
 そんな腹に酒を入れたら、今度こそ吐く。
 そう言うと、たまが、きぃ、と抗議の声を上げる。聡く己の立場を知る水守は、時に非常に貪欲だ。
「今から私は出かけるが、もしも一緒に来るのなら、酒を飲んだらふらついて歩けなくなるんじゃな
いのか。」
 すると、たまが馬鹿にしたように鼻を鳴らした。そのような醜態は曝さないと言っているようだが、
先程まで腹が膨らみ過ぎて動けなかった様子を見ている者としては、信用ならない。
 たまはそんなリツセの思いを汲み取ったのか知らないが、小馬鹿にしたような目つき――円らな眼
でそんな目つきができるのか――で、しかしそれ以上酒をたかろうとはしなかった。どうやらリツセ
と一緒に出掛けるつもりのようである。ただ、酒樽に鼻先を押し当てているあたり、完全に諦めたわ
けではないようだが。
 そんなたまを脚元に置いて、リツセは徳利の栓を閉める。
 今から行くのは社でも何でもない。神事には関係のない場所だ。ただ、手土産として酒を持ってい
くだけであって、それ以上の意味は特にない。尤も、見返りは多少は期待しているが、返ってこない
可能性も十分にある。
「さあ、行こう。」
 促すと、たまが隙あらば徳利を奪おうとする目つきのまま、ぽてぽてと付いてくる。
 町は風で散らかされたこの場や塵をあらかた片付けており、そろそろ日が傾く頃合いだ。西の空は
微かに赤らんでいる。しかし東の空を見やれば、暗く重い色をした雲が立ち込めていた。今晩あたり、
また雨が降るかもしれない。
 また、漁師は海に出られずに家の中で酒を喰らうしかないな、と思う。今日の晴れ間に少しでも漁
ができれば良かっただろうが、それも異人の船を探すのに費やされてしまった。
 その船はどうなっただろうか。リショウが言うには、無事見つけたとの事だったが。異人は自分達
の手で川から海に戻すと言って聞かなかったようだが。
 それらがどうなったのかも含めて、今一度、海の様子を見に行く。朝向かった時は、異人の船のご
たごたの所為で、海の様子を見ることはできなかったが、今ならばゆっくりと見ることができるだろ
う。
 それに、海の近くにはワタヒコがいるはずだ。
 よほどの大時化でもない限り、海の近くにある小屋で黙々と網や船の手入れをしている老漁師なら
ば、海で起きたことは良く知っているに違いない。
 海で、攫いごとが起きていないのか。
 それを聞くための、酒だ。たまに渡してやるわけでにはいかない。尤も、ワタヒコがたまを相伴す
るというのなら、話は別だが。
 たまも、リツセが何処に行くのかを察したのか、ふと徳利から眼を離し、揚々と歩き始めた。ワタ
ヒコが焼いているサザエやら何やらが目当てに違いない。ぽてぽてと白い腹を揺らしながら歩くたま
に、リショウが甘やかして色んな物を与えると太るぞ、と忠告してくる。が、たまは別に太っている
わけではない。
 たまはこう見えても、かなりしっかりとした身体をしている。良く肥えているように見えるが、食
べる以上によく動いているのだ。瀬津の人々が見回りと呼んでいる水守の散歩には、少なくとも朝と
昼には行くし、木登りもわりとしょっちゅうやっている。リツセとこうして出かける時も、偶にリツ
セに抱き上げてもらうが、ほとんど自分の脚で歩く。
 だからたまは、他のどの水守よりも身軽だ。たまよりもずっと大きさ水守もいるが、いざ喧嘩とな
れば、身軽なたまに軍配が上がるだろう。まあ、水守どうしの喧嘩など、子供の水守のものしか見た
ことがないが。
 ただ、水守の大人と子供の境界は分からない。人のように成人を迎える時に何らかの儀式があるわ
けでもない。水守達には何か彼らにのみ分かるものがあるのかもしれないが、人の眼にはその境は見
えない。
 強いて言うならば。
 ちゃぽん、と徳利の中の酒が音を立てる。その音に、たまが反応して振り返る。
 酒を飲み始めた頃、だろうか。少なくとも、小さな水守達は酒を飲んだりはしないのだから。
 たまは、一度振り返ると、再び前を見て歩き始める。しかし徳利の中身については全身で意識して
いることが分かる。
 そんなに酒を気にしなくても、ワタヒコの元を訪れたなら飲めるだろうさ、と思う。
 昔気質の、宮家の為に荒く渦の巻く海に船を出した事もある老漁師が、ヒルコの化身たる水守に酒
を分けぬということはないだろう。そんな事くらい、サザエの壺焼きを期待しているたまとて分かっ
ているだろうに。
 しかし分かっていても止められないのが、ヒルコ大神の化身である。
 随分と人間臭い神の化身だが、ヒルコ自体が人の根本である欲望を満たす神であるから、そこは仕
方がないのかもしれない。
 人のありとあらゆる慶事、富事を司る福の神。人の些細で傲慢な欲望を聞き流し、時にその尾の一
振りで人の願いを叶える。言い伝えでは、弟が放り出してしまった海の平定を一時ではあるが預かり
治め――その名残で瀬津の海はヒルコが今も治めているという――妹が岩屋に隠れ陽の光を運ばなく
なった時には、代わりに葦船に乗って日差しを届けたという。
 親神に捨てられ、人に拾われた不具の神。甘い物が好きで鮮やかなものを気に入り、美味い酒を喜
び、女子供の膝の上で寝るのが幸せだという妙に人間臭いこの神は、常に人の側に立っている。
 だから、その化身がやたら俗っぽくても仕方がないのかもしれない。
 そんな事をつらつら考えていると、たまが再び振り返り、きぃ、と鳴いた。早く行くぞ、というよ
うに。
 サザエの壺焼きがそんなに早く食べたいのか。
 足早に歩く水守の尻尾が、ふらりふらりと揺れた。
 リツセがワタヒコの小屋に着いた時、ワタヒコは皺だらけの指先で、網の修理をしていた。昨夜の
大雨と風で、あちこち痛んでしまっていたらしい。所々破けて、藻屑以外の塵も引っかかっている。
 しかし、ワタヒコの小屋の周りは既に掃除が終わっているのか、綺麗なものだった。
 ワタヒコはリツセの姿を見ると破顔し、作業を止めて小屋の中に入るよう勧めた。
「といっても、まだ小屋の中は全部乾いてはいねぇんだが。」
 どうやら、高潮で浸水したらしい。幸いにして、昨夜ワタヒコは漁師街にある本来の自分の家――
ウオミの家に帰っていたので、事なきを得たようだが、置き去りにされた小屋のほうは無事とは言い
難かったらしい。
「まあ、船も流されてはいたがその辺に引っかかっていたし、小屋も中身はあれだったが壊れてもい
ねぇ。大きな問題じゃねぇな。」
 老漁師はそう言って豪快に笑うと、海に浸かって破れた網の中に引っかかっていたというサザエを
見せた。こいつを焼いてやろう、と言って火を起こしにかかるワタヒコの後を、たまが当然のように
追いかける。
「ワタヒコ殿、酒は。」
「ああ、そのへんに置いといてくれ。おっと、たま。お前さんにも振る舞うから抜け駆けはするんじ
ゃねぇぜ。」
 リツセの声に返事をしたワタヒコは、たまは今度は徳利に駆け寄ることを見越していたのだろう。
たまを牽制しながら、網の上にサザエを手早く並べていく。ちょっとばかり小ぶりだがまあ味に問題
はねぇだろう、と日に焼けた顔をこちらに向けるワタヒコに、リツセは無言のまま徳利を床に降ろし
た。
「ワタヒコ殿。お聞きしたいことがあります。」
「おう。分かってる。でなけりゃお前さんが来るわけがねぇからな。何か、海のことで知りたいこと
があるんだろう。だが、話を聞くのはもうちょっとばかり後だ。」
 サザエが焼けてからだ。
 リツセに乾いた茣蓙を差し出しながら、ワタヒコもどっかと網をかけた囲炉裏の前に座り込む。ワ
タヒコの手には、いつの間にやら三つの杯があり、それぞれを自分とリツセ、そしてたまの前に置い
た。
 サザエがぷつぷつと泡を立てるたびに、磯の香りが小屋の中に染み渡っていく。青と緑の匂いが広
がる中、ワタヒコはずっと何事か喋り続けている。この小屋の掃除が大変だったことや、網に色々な
ものが引っ掛かっていたわりには小屋のある浜辺は随分とすっきりと綺麗だったことなど、昨夜の大
雨の影響を話している。
「そういや、異人の船が行方不明になったらしいな。」
「もう、見つかりましたよ。」
「おう。川の上のほうにあったんだってな。妙なこともあるもんだ。川が遡るなんてこと、余程のこ
とがない限り起こらないんだがな。」
 昨夜の大雨は、瀬津郷の者にとっては余程のことではない。高潮も想定されていた範囲内だ。川が
遡るなど、津波でもない限りはそうそう起こらない。
「それとも、何かの前触れかね。今年の祭りは、いつもよりもしっかりとヒルコ様をお祀りしたほう
がよいかもしれねぇな。久寿玉の準備はもう終わったんだろう?」
 祭りとは御輿屋祭と夏祓のことだ。皆から依頼のあった久寿玉は既に作り上げ、ヒルコ大神の元に
奉納されている。祭りの時にこの久寿玉は再びこちらに賜り、代わりとなる久寿玉を再度奉納する。
この、代わりとなる久寿玉についても既に出来上がっている。
 ワタヒコの問いに頷き、リツセは口を開く。
「遡った船はもう海に戻してあるはず。ウオミから聞いたのでは?船の持ち主達が漁師の手を借りず
に自分達の手で引き下ろすと言って聞かなかったようです。」
「ああ。まあ、仮に引き下ろしてくれと言われても、漁師共も喜んで頼みを聞いてやりはしなかった
だろうな。」
 ワタヒコの言葉に、何、とリツセが怪訝な表情を浮かべる。その顔に、お前は知らなかったか、と
ワタヒコは腕を組む。
「あの船に乗ってきた異人は、宮家の客人なんだがな。ただ、宮家は宮家でも、端野宮なんだ。」
「端野宮……?」
 宮家と一口に言っても、その血筋は広い。皆が宮様と呼んでいるのは本家の直系男児であり、現在
の宮家の当主だ。リツセにとっては伯父にあたり、この本家は正式には瀬津宮という。その本家直系
男児の兄弟の繋ぐ家系にも『宮』のつく呼称が与えられるのだ。尤も市井に降りたリツセの父や、出
奔した叔父は持っていないが。
 さて、ワタヒコの告げた端野宮もそんな宮家の一つである。今の宮様のハトコであるが、一方で妾
腹――しかも母親は庶民であるため、やや宮家からは軽視されがちになっている。
 サザエの焼き具合を見ながら、ワタヒコは頷く。
「別に悪い方ではないんだが、やはり宮様に比べるとどうしても俺達の眼から見ても、劣るんだ。ど
うしてもな。もう少し気位が低けりゃ良かったんだろうが、妾腹ってことで苦労しすぎた所為か、ち
ょっとばかり碑ねて高慢になっちまってる。」
 それが、瀬津郷の住人から反発を喰らっているわけだ。だから漁師達も検非違使達も、その客人の
船の捜索に気乗りではなかったのだ。
 かつて宮家の為に船を出した事もある凄腕の漁師は、宮家の内部についても少しばかり詳しい。
 焼き上がったサザエを取り、たまの前に置くと、たまは器用にサザエの中身を穿り始めた。
「しかし、お前が聞きたいってのは、そういう話じゃあねぇだろう。」
 そう。リツセが聞きたいのは宮家のごたごたではない。宮家は、リツセとは関係のない場所にある
ものだ。それは、リツセの父が市井に降りると決めた時に定まったことだ。
「ええ。ワタヒコ殿。ここ最近、海で――港で、子供の拐しなどは起きていませんか?」
 途端、ワタヒコの顔が珍妙に歪んだ。何か妙なものでも飲み込んだ顔をしたワタヒコは、なんだそ
りゃ、と呟く。
「お前、そんなどえらいことが起きてたら、俺だけじゃなくて誰でも知ってるだろうに。もしも誰も
知らないってんなら、そりゃあ攫われた親が脅されて黙ってるか、武家かなんかが外聞が悪いってん
で黙ってるんだろうよ。」
 俺にゃあ分からん。
「そもそもどっからそんな話を拾ってきた?」
「さて………。」
 説明のしようがない。事情を唯一理解できているであろうのは、たまであるし、そのたまは、もり
もりとサザエを食べている。
 そんな水守にちらりと視線を向け、リツセはもう一度問うた。
「そういう話は、噂話でも、聞きませんか?」
「聞かねぇな。俺の耳にだけ入ってないってこともあるかもしれねぇが、まず考えにくいだろう。」
 ワタヒコの言葉に、リツセは頷く。
 ワタヒコは第一線を引いたとはいえ、漁師のかつての元締めだ。ワタヒコを未だ頼る者は多い。彼
らが、海や港、漁師街で起きた事件をワタヒコの耳に入れないというのは考えにくい。
  つまり、子供の拐しなどは起きていないか、それとも漁師達も気づかぬほどに巧妙に行われてい
るか、それとも。
 可能性としては一番高いが。
 人間の世界の拐しではない、ということだ。