たまの胃袋がこなれた頃、リツセの家の周りの片付けも終わった。リショウはたまに尻尾で膝を叩
かれるという嫌がらせを受けつつ――羊羹ごときでそんなに怒るな――リツセからお茶を貰い、残り
の羊羹を持って診療所へと戻った。
 たまは、羊羹の包みを睨んでいたが、飛び掛かってはこなかったので、ひとまず諦めたのだろう。
あとで何をしてくるか、分からないが。
 たまの鋭い眼光――円らな眼で鋭いというのも妙な表現だが――を背中に受けつつ、小さい三匹の
水守を、いつものように両肩と頭に一匹ずつ乗せて、リショウは診療所の扉を開いた。
 ただいま、と扉を開くと、リショウを射抜いたのは、羊羹の袋を睨み付けるたまと同じくらい鋭い
視線だった。まさかたまが先回りして診療所にやってきたのかと一瞬疑ったが、そこにいたのは己の
臣下と、原庵、そして見知らぬ若者の姿だった。あとは、こちらは本当に先回りして帰ってきたらし
い、むにが床に寝そべっている。
 好々爺然とした原庵は置いておくとして、己の臣下のうちいつも眉間に皺を寄せているグエンが視
線の主だろうかと疑ったが、どうも視線の形はリショウの知らぬものだ。むにに至っては床の上で眼
を閉じている。
 では、と別当を見れば、果たして若者が、リショウを見ていた。
 当の本人にはリショウを睨んでいるという自覚はないのかもしれないが、しかし確かに彼の目的は
リショウにあるようだ。
「リショウ。」
 まず、リショウに声を掛けたのは忠実なる臣下の一であるグエンだった。相変わらずの眉間のしわ
の深さを眺めながら、リショウは己を呼んだグエンに近づく。
「なんだ、どうかしたのか?」
 何かあったから、名を呼んでいるのだろう。そしてそれは、見知らぬ若者に関係することなのだろ
う。
 こちらを見るグエンの脇を通りすぎ、若い男がすすっと此方にすり寄る。
「リショウ殿でいらっしゃいますか。」
 グエンがそう呼んでいるのを聞いているであろうに、わざわざ問うてくる男に、リショウは曖昧に
頷いた。
 男は、若いが腰に剣を帯びている。まだ数か月ほどしか滞在していないが、リショウは瀬津郷で剣
を常に携帯していられるのは、武家や役人、あるいはそれらの手下であると気づいていた。普通の町
人も護身用として刃物を持つ事はあるが、こんなふうに誇示するように剣を持つ事はない。
 つまり、この男も武家か役人、もしくは手下であるという事だ。武家がわざわざここまで足を運ぶ
とは考えにくいので、おそらくはその手のものなのだろう。
「確かに俺がリショウだが。俺に何か用か?」
 中には、役人や武家相手には、腹が地面につくほど平伏する者もいるだろうが、生憎とリショウは
大陸から来た余所者で、それらに無条件に媚びる趣味はない。それは、不本意ではあるが、一族の長
として立つ矜持もあったのだろうが。
 真っ向から見据えるリショウに、男はこちらもリショウから眼を逸らさずに答える。
「別当殿がリショウ殿をお招きしております。私は別当殿のお屋敷までの案内を任されたミカサと申
します。籠を準備しておりますので、どうぞ、お乗りになってください。」
 こちらの意見をまるで無視した台詞に、リショウは少し呆れたが、すぐにグエンの刺すような視線
に我に帰る。
 忠実なる部下は、リショウに目線だけで『別当に呼び出されるなんて一体何を仕出かしたのか』と
問うている。
 部下の眼差しは、リショウにとっては不本意な事この上ない。リショウは別当に対して何かを仕出
かした覚えは微塵もないのだ。
「俺は別当殿のお招きを受けるような事はしていないんだが。」
 なので、殊更丁寧にも、かといってぶっきらぼうにも聞こえぬ、ただし何処かぞんざいな口調で告
げれば、男はそのような口調で揺らぐほどの使命感は持っていないのか、いやいや、と首を横に振る。
「別当殿は、昼間リショウ殿に手間をかけて貰ったと申しております。つきましては、是非、屋敷に
招きたい、と。」
 昼間のことと言えば、異人達の船を見つけたことだろうが、しかしリショウは別段何かをしたわけ
ではない。馬に乗って、言われるがままに川を遡っただけである。
 そういえば、あの後、異人達の船はどうなっただろうか。頑なに漁師達の助けを拒んでいたが。そ
れはすこしばかり気になるが、テオドロからの礼品もそうだが、リショウとしてはその件について何
か礼をしてもらうつもりはない。
 なので、別当からの誘いも、非礼にならぬように断るつもりだった。
 だが、それを遮ったのは、まさかの原庵だった。
「お言葉に甘えてはどうかね。」
 役人や武家に屈するとも媚びを売りたいとも思わぬであろう原庵の言葉に、リショウは眼を剥き、
グエンも片眉を上げる。だが、原庵は相変わらず、にこにこと好々爺然としているばかりだ。
「この郷について、色々な意見を聞ける機会だ。行ってみても損はないんじゃないかね。」
 原庵の続けられた言葉に、グエンも何か納得したのか、微かに頷く。リショウのほうも、それなら
ば良いかとも思うのだが、しかし別当の意図するところと、原庵の態度に引っかかるものがある。別
当はともかく、原庵が何かを企んでいるということはないだろうが。
ない。此処に来てはや数か月経とうとしているが、この郷に渦巻く不可思議な匂いが何なのか、未だ
よく分からずにいる。
 それは、ヒルコが坐すが故の魑魅魍魎ではなく、その裏に隠れて動き回る人々の息遣いによるもの
が多い。そして、それらは間違いなく、己の遠縁に位置するリツセにも関わっている。
 宮家を中心に、蠢く奇妙な人の感情の波。宮家の血を引くリツセは嫌でも巻き込まれかねず、しか
し既に市井にいるが故に深くは分からない。
 それらの一端を知り得るには、確かにまたとない好機だ。
「分かった。行こう。」
 引っかかるものはある。だが、別当から見た――この郷からしてみれば最近赴任してきたという別
当もまた異人だろう、その別当から見た、瀬津郷というのはどういうところなのか。それを知ってお
くのは、悪い事ではない。
 リショウが頷くと同時に、リショウの身体に張り付いていた三匹の水守達が、さっと離れていく。
ぴょんぴょんと地面に降り立った小さな白の代わりに動いたのは、とぐろを巻いていた巨大な水守だ。
 ごろりと横たわっていたむには、尾を一振りすると、ぬっと立ち上がりリショウの脚元に歩み寄る
と、ちらりと円らな眼でリショウを見上げる。そして、するりと脚元をすり抜けると、さっさと表に
停めてある籠のほうへと歩いていった。
 どうやら、理由は分からぬが、ついて行くつもりらしい。
 きんとき、しらたま、まっちゃの三匹は、原庵とグエンの身体によじ登り、こちらを見送っている。
 使者である男は、水守達の傍若無人さには慣れているのか、勝手に籠に乗り込んだむにに顔色一つ
変えず、どうぞ、とリショウにも籠に乗る事を促している。
 リショウはもう一度頷くと、既にむにでいっぱいになった籠に乗り込んだ。
 狭い。
 むにを押しのけつつ、自分の膝の上に乗せつつどうにか自分の居場所を確保する。押しのけられた
り膝の上に乗せられたりしたむには、特に文句を言うでもなく、のっぺりとリショウの身体に凭れか
かる。
 こうして、リショウはむにに身体の半分ほどを覆われるような形で、籠に揺られる事となったのだ。



 むにに身体を押し潰されるような形で籠に揺られる事しばし。
 ようやく籠が停まった時、リショウはむにのふかふかの身体に鼻やら口やらを塞がれて、窒息しそ
うだった。
「どうぞ、こちらです。」
 案内役の声に真っ先に反応したのはリショウではなくむにであり、むには開かれた籠の中からさっ
さと降りていく。リショウはむにを追いかけるような態で、籠を降りる。
 別当の屋敷は、社にほど近い武家屋敷が立ち並ぶ一角にあった。鎮守の森が滴るような緑を枝につ
けているのが見える。
 瀬津郷に派遣される別当は、代々この屋敷に住まう事になっているのだという。
 リショウは、あちこちに柳の植えられた庭を持つ屋敷を、白い壁の向こう側から眺める。柳に囲ま
れている所為だろうか、何処となく湿っぽい雰囲気が漂っている。しかも柳の一本一本が、かなり古
くから植わっているものらしく、大きい。雨がまた降りだしでもしたら、そこかしこから妖でも湧き
出てきそうだ。
 悪く言えば幽霊屋敷と見える別当の屋敷へと、妖の一種とも見られそうな巨大水守が、のしのしと
向かっていく。
 実に、奇怪な光景である。
 だが、瀬津郷ではおそらく、ごくごく普通の光景である。だがしかし、むにに勝手に別当の屋敷に
上がり込ませるわけにはいかない。リショウは、当然の顔をして門を潜る水守を追いかけ、その前脚
の脇の部分に手を差し込んだ。いつも、たまにしているように、そのまま持ち上げ動きを封じようと
したのだ。
 が、むには如何せん巨大である。重量もそこそこある。重くて、たまのように完全に抱き上げると
いうことができない。後脚と尻尾が、まだ地面についている。たまのように暴れる事がないのが唯一
の救いである。
 なんとかしてむにを抱え上げようとして四苦八苦しているリショウの横を、無表情で案内役の若者
が通り過ぎる。彼も瀬津郷の住人なのか、それとも水守の存在は無視すべきだと思っている他国から
やって来た別当の付き人なのか、むにの事など歯牙にもかけない。
 しかし、案内役はそうであっても、別当は違うだろう。生真面目な別当殿は、水守一つ見過ごす事
はできまい。故に、リショウは先を行こうとするむにを引き止めるのだ。
 ずりずりとむにを引き摺りながら玄関に辿り着いたリショウは、そこで一度むにを降ろす。すると、
むにはすぐに自分の脚で、屋敷の更に奥へと進もうとする。あたかも、勝手知ったる我が家のように。
 むにが円らな眼で奥を見つめる屋敷の中は、人が住んでいるはずなのに、酷くひやりとした空気を
纏っていた。廊下の向こうは、何かが暗く蟠っていて人ならざる者がいてもおかしくない。
 と、思っていたら、暗がりの中から、ぼんやりと白く光っているように見えるものが浮き上がって
きた。それは、丸っこいトカゲの形をした――水守だった。
 むにと同じくらいの大きさの。
 のっしのっしとこちらにやって来る新手の水守に、リショウはむにを抱えたまま動けない。そして
水守の背後から、どたどたと足音を響かせて、更なる新手がやって来る。
「ええい!貴様、待て!」
 声高く怒鳴り、足音を踏み鳴らしながらやって来て、水守を抱え上げようと四苦八苦している男―
―別当殿である。