しとしとと糸のように長く続く雨に、リショウは顔を顰める。
 さっぱりとした初夏の香りは、男児殺しの呪いについて調べているうちに、あっという間に通り過
ぎ、気が付いた時には肌にじっとりと纏わりつく湿気ばかりが手元に残っていた。
 梅雨の時期だと、リショウに住処と職を与えた医者の原庵は教えてくれた。葦原国の最初の一年を
過ごすリショウに、この時期は雨が多く、そしてじわりじわりと温かさから暑さへと切り替わってい
くのだと言った。
 確かに、とリショウは細い雨粒が水溜りに幾つもの輪っかを広げる様子を見つつ、額の汗をぬぐう。
 なんとも言えない暑さだ。服の中に熱が籠るような、とにかく不愉快な暑さだった。
 大陸から渡ってきたリショウとて、季節による寒暖を知らぬわけではない。郷里は埃っぽい砂の多
い土地ではあったが、冬もあれば夏もあったし、春もあれば秋もあった。夏へと向かう時節の熱を、
知らぬわけがない。
 ただ、この、むしむしとした暑さは初めて体験するものだった。やたらと長く続く雨のせいかもし
れないが、とにかく肌にべっとりと付き纏う暑さなのだ。そもそも、太陽が隠れているのに暑いとい
う事態が分からない。日差しが和らいだなら、涼しくなるのが自然の理ではないのか。
 どちらかと言えば乾燥した土地に生まれ育ったリショウには、葦原国特有の、じめじめした蒸し暑
さというのは、気分を萎えさせるには十分すぎる威力を持っていた。正直なところ、動き回ることさ
え億劫である。
 だが、そういう気分になっているのは何もリショウだけではない。リショウと共に瀬津郷にやって
きた、彼の忠臣達も流石にこの湿気と長雨には辟易としているらしかった。
 生真面目なグエンは普段通りに見えるものの、眉間に寄る皺の数は明らかにいつもより多いし、ヨ
ドウとザイジュはどうにか調練をしているが、時折足元がふらついている。なお、リショウは雨を理
由に調練をさぼっている。
 大陸人には、どうも厳しい季節である。
 瀬津郷は港町であり、大陸から渡ってくる商業船が毎日のようにやって来る。それに乗って異国の
旅人が、町中をうろついていることは日常の光景だ。港周りに広がる商店街などは、いつも様々な国
の服を着た人々で溢れかえっているものだ。
 しかしこの長雨と蒸し暑さに、大抵の異人は辟易するらしく、表に出る気も失せるようだ。そのた
め、ここ最近は商店街も閑散としている。
 そんな彼らを、遥か昔に同じように大陸から渡ってきた原庵は、長年暮らしていれば慣れる、と苦
笑した。
 その原庵、町でもいっとう人気の医者であるため、常日頃から忙しく、当然のことながら蒸し暑さ
や長雨を理由に仕事を御座なりにすることなどできるわけがない。それに、どうやらこの時分は、ど
うやら雨や暑さが原因で、体調を崩す者が増える頃合いらしい。原庵曰く、季節の変わり目で身体が
変化についていかないというのと、雨や暑さで食べ物が痛むのが早くなって腹痛を起こすことが多く
なる。
 なので、雨だというのに診療所はいつもよりも盛況であった。
 さて、その原庵から薬の担ぎ売りの仕事を任されているリショウも、慣れぬ暑さにげんなりしてい
るからといって、仕事を放り出すわけにもいかない。
 原庵が、腹下し用にと調合した薬は、先の理由もあってこの時期はすぐに切れる。リショウはそれ
を補充するため、薬問屋に材料を買いに行き、その足で家々を回って必要な薬を渡さねばならない。
 気分がげんなりしていると言っても、別に具合が悪いわけでもないので、仕事をさぼるわけにもい
かず、リショウはのろのろと担ぎ売りに使っている、薬を入れた背負子を背負い、傘をさして、しと
しとと止まぬ雨の中へと足を踏み出す。
 それをどこで見ていたのか、ぴょんぴょんと白い物がリショウの背中やら肩に飛び乗った。原庵の
家に住み着いている三匹の水守達である。
 水守は瀬津郷に住む、トカゲのような白い生き物である。身体の三分の一ほどを占める尻尾には鰭
があり、トカゲにしては丸っこい風貌をしているため、トカゲとは違う種類の生き物らしい。大きさ
は様々だが、原庵の家に住み着く水守は、リショウの二の腕ほどの体長を持っている。手足は短いが、
犬猫並みに素早く動き、犬猫よりも人の言っていることを理解している節がある。
 瀬津郷では、この生き物の体型と珍妙さから、この郷に坐す不具にしてしかし幸齎す偉大なるヒル
コ大神の化身であるとして、彼らを大切に扱っている。
 そのせいか、水守達は人に対して色々と容赦がない。今も、三匹の水守達はリショウに何の伺いも
立てず――立てられてもリショウは彼らの言い分を理解できないので意味はないのだが――リショウ
の両肩と頭に、それぞれよじ登って居座っている。彼らにとって、此処が定位置なのである。リショ
ウも、まあ、慣れてしまったし、正直身体によじ登られるくらいは可愛いものである。酷いものにな
ってくると、何処からともなく飛び掛かって尻尾で顔面を叩いていくのだから。
 さて、リショウの身体によじ登り、両肩と頭に落ち着いた水守達であるが、彼らはこの雨も蒸し暑
さも、いっこうに気にしていないようだ。むしろ、なんだか活き活きとしている。そういえば、水路
を泳ぐ水守の数も、普段よりも多い気がする。
 もしや、この季節が活発に活動する時期なのか。蛙と同じで。
 リショウはふっと思ったが、問うたところで彼らから返事が返ってくるはずもないので、黙って両
肩と頭に乗せたまま、雨の町を行くことにする。
 雨の日の町は、いつもより静かだ。
 といっても、異国からも国中からも物が集まる瀬津郷の静かさは、他の郷に比べると騒がしいもの
かもしれない。通りは閑散としていると言っても、店の中からはぺちゃくちゃとしたお喋りが聞こえ
ているから、客足がまるでないわけではなさそうだし、職人達が働く音が裏手から聞こえたりする。
 一番普段と違うのは、船を陸地に上げて暇を持て余している漁師連中なのかもしれない。多少の雨
では漁を止めるということはないらしいのだが、なにせここ数日はずっと雨が続いて、晴れ間の一つ
も見えないし、雨脚も随分と強いので、漁は一旦取りやめているようだ。
 海から陸に上がった漁師達は、水を失った魚よろしく大人しくしている。だが、如何せん元々が騒
がしいので、海に出れなくなったくらいでは完全に口を閉ざす事はできない。漁師街のあちこちから
は、酒でも飲んで海に出れない憂さを晴らしている男達の笑い声や、魚を焼く匂いやらが聞こえてく
る。
 そういった漁師連中にも薬を配り回っている間、ウオミが少しばかり強張ったような表情をしてい
た。
 ウオミには、先の男児殺しの呪いの時に、ちょっとした脅迫を受けていた。そしてその後、図った
かのように謎の――というかリショウには大体分かっているのだが――男達に襲われた。
 そういうこともあって、少しばかり溝のようなものが出来ていた。
 そんなウオミよりも、ウオミの祖父であるワタヒコとの距離が縮まったのも、やはり男児殺しの呪
いについて調べている最中であった。リショウの血の中に、瀬津郷を治める宮様の出奔した弟の姿を
見たというワタヒコは、薬を背負ってきたリショウを自分の小屋に招き入れ、サザエの焼き物と酒を
振る舞った。
 仕事の合間にちくちくとサザエを突くリショウの傍では、三匹の水守達もお零れに預かっている。
 人里に住み着く水守達は、こうして人から与えられる物を口にしていることが多い。残り物だとか
そんなではなく、料理として出される物を同じように食べる。特に甘い物など大好物で、瀬津郷の人
々は水守に与えるために、懐に金平糖を忍ばせていたりもする。
 リショウとしては、何でもかんでも食べる水守に、お前達は本当にそれで良いのか?と聞きたくな
る。瀬津郷では水守は大事にされているが、瀬津郷にやって来る旅人の中に悪意を持った者がいて、
そいつが食べ物に毒でも仕込んでいたらどうするつもりなのかと。
 サザエを貝殻から引っ張り出している水守の頭を、ちょんちょんと突きながら、リショウは呆れた
ようにそう言った。
 すると、酒を飲んでいたワタヒコが、その点については大丈夫だ、と告げた。
「水守ってのはな、実は随分と警戒心が強い生き物なんだ。」
 どこが、と言いたくなる台詞である。顔にはそれが出ていたのだろう。ワタヒコは赤ら顔を破顔さ
せた。
「まあ、別のとこから来た奴らは、人懐っこい水守しか見たことがねぇだろうからな。だが、水守っ
てのは元来、人に懐く生き物じゃねぇ。」
 こうやって人が焼いたサザエを食っているが、と水守の尻尾を指先で突きながら、ワタヒコは言う。
「見ず知らずの人間が出した物なんかは絶対に口にしねぇし、信用ならねぇ奴には絶対に近づかねぇ。
水守が住み着く家ってのは、それなりにちゃんとした人の家なんだよ。こいつらは、どういうわけか、
そういうのを嗅ぎ分ける力を持ってるんだ。」
 ごうつくばりな者の家には住み着かない。弱いものを甚振る者には近づかない。気位の高い者には
興味も示さない。自分達を飼い慣らそうとする者など、言わずもがな。
「余所者だとかそういうのは関係ねぇなあ。でなけりゃ、おめぇさんにそこまでくっつくわけがねぇ。」
「生まれつき、こいつらはそういう力をもってるのか?」
「さて?俺達は水守の赤ん坊っていうのを、見たことがない。」
 この三匹だって、産まれて十年くらいは経っているだろう、とワタヒコは言った。
「この三匹が原庵先生の家に住み着いたのは一年くらい前だな。原庵先生の家には、もう一匹、でか
いのが昔から住み着いてるが。」
「え、俺は見たことないぞ。」
 初耳である。
 三匹どころか、もう一匹――しかもでかい――のが、あの家にいたとは。
「まあ、あのでかいのは出不精らしくてな。俺も最近だと、一か月前に見たっきりだ。軒下に転がっ
てるからな、あいつは。」
「…………。」
 軒下にいるのか。
 こいつらの、でかいのが。
「まあ、でかいのは良いとして、この三匹は瀬津だと若いほうじゃねぇか?大きさから見てな。水守
は、年を取るにつれてでかくなるから。んで、人里に姿を見せるのも、こいつらくらいの大きさから
だ。」
 つまり、これくらいの大きさになると、人の良し悪しが分かる力が備わるということだろうか。そ
れが、水守本来の力であるのか、それとも少しずつ身に着けられるものなのかは分からないが。
「ちなみに。」
 リショウは、足元で尻尾をぱたぱたと動かしている水守達を見下ろして問う。
「原庵先生のところに住み着いてるでかい奴ってのは、どれくらいの大きさだ?」
 さぁて、とワタヒコは首を捻り、手を水平にしたまま上下に動かして、大きさを思い出そうとして
いる。
「尻尾の先から頭まで、お前の腰辺りまでじゃなかったか。まあ、俺がはっきりと見たのは随分と前
だから、もっとでかくなってるかもしれねぇが。」
「………そうか。」