リショウはその日から奔走した。瀬津郷中を薬の担ぎ売りと称して歩き回り、女しか産まれぬ、或
いはその逆、男しか産まれぬ家系の話について、何かないかと聞いて回った。些細な噂話でも良いの
だと言って、お喋りな奥方連中の口を覗いてみたり、首を捻る者には何か思い出したら連絡してくれ
と言い置いて、小さな話も聞き洩らさぬようにした。
 グエンのほうは、アカネの郷里である針間郷について調べてくれているようだった。医師である原
庵の家には多数の書籍が置いてある。薬草や人体の構造についての書物がほとんどであったが、算術
や気候、動物についての文献なども雑多にある。その中に混じって、お伽噺や伝説、民俗などについ
て纏めたものも置いてあったのだ。
 もしもアカネの嫁ぎ先の呪いというのがそれほどまでに昔のものであったなら、とグエンは言う。
どこかで捻じ曲げられて、伝承として残っているかもしれない、と。
 黄ばんだ紙を捲る厳格な忠臣に、リショウは、では頼む、と言うだけだった。夜にもなればリショ
ウも共に文献を捲るが、しかしどう足掻いてもグエンのほうが読み進めるのが早い。
 リショウが読み物が苦手というわけではない。司法書を常に傍らに置いていたグエンのほうが、ど
うしたって読むことには慣れているのだ。難解な文言も、グエンにとっては呼吸をするように読み解
く事ができる。
 ただ、一方でグエンは法官である故に、言葉に容赦のないものが含まれる。気難しい性格も災いし
てか、グエンに話しかけられた者はそれだけで叱責されているような気分になる。おまけにグエン
は堂々たる体躯を持つ。がっしりした上背のある男が、眼光鋭く見下ろして来たら、それは怖いだろ
う。グエンは何もしていないのに子供が泣く、というのはいつものことだった。
 そういうわけで、主従の役回りは自然と決まったのだ。外回りはリショウが、内々のことはグエン
が、というふうに。
 ザイジュについては噂に噂を重ね掛けする必要もあるまい、ということで、原庵の診療所でアカネ
と大人しく籠らせている。
 幸いにして原庵は、身重のアカネを診るだけ診て放り出すという無責任な医者ではなかった。ひと
まず落ち着くまで此処にいなさい、といつもの穏やかな口調で言い、長屋の一間にアカネが寝食する
場所を開けてくれたのだ。
 原庵のこの気遣いは、アカネにとっても有り難いものであったが、リショウにとってもアカネを見
張りやすいという意味で有り難いものだった。
 なにせ思いつめたアカネが、いつ黙って神社に駆けていくか分からない。ザイジュを付けてはおく
が、先だって言ったように、アカネがふらふらしてそれをザイジュが追いかけていたら噂に拍車がか
かるだけである。
 だが、原庵の長屋にアカネが落ち着いていれば、アカネがふらふらしようとすれば誰彼の眼に着く
し、原庵からも身重を口実に引き止めていて貰える。そういった意味で、アカネが長屋に身を置く事
は幸いであった。
 かといって、それにも限界があるだろう。
 アカネが痺れを切らして、何もかもを振り切って神社に走る前に、リショウは呪いを解く鍵を見つ
けなくてはならない。鍵でなくとも、最悪アカネの眼を瀬津郷から――ひいてはリツセから逸らせる
ことができればいいのだ。呪いが解けなくとも。
 最低の考えかもしれないが、血は水よりも濃いのだ。長い年月では消し去れないものがある。
 リショウはどんな些細な事でも手に入れようと、瀬津郷を行く歩を早める。気だけは五臓六腑が焼
け切るほどに急いた。宮家が口を出す前に、とにかく、気ばかりが急いた。
 リショウがそうやって胃に穴が開くほど急いている様に、冷や水を浴びせかけたのは苦々しい顔を
したウオミだった。
 何か耳寄りな話はないかと港町を訪れ、船から降りたばかりの旅人や商人達を物色しているところ
を、件の苦虫を噛み潰したような顔をしたウオミに出会ったのである。原庵の調合する薬の中でも、
腹痛にとびきりの効果を発揮するという薬を飲まされた患者のような顔だった。
 なんだ、腹でも痛いのか、と声をかければますますしかめっ面が酷くなる。おや、と首を傾げてい
ると、
「あんた、瀬津郷の噂話について嗅ぎまわってるらしいじゃないかい。」
 と、随分と悪意を割り増しされた言い方をされた。やけに刺々しい物言いに、リショウも眉を顰め
る。
 ウオミの言っていることは大体は合っている。だが、噂話を嗅ぎまわっている羽目になったのは別
にリショウのせいではない。
「あのなあ、そういう言い方はないだろ?」
「人様の家系に土足で入り込むような真似している奴に、いちいち言葉遣いなんて気にしてやる義理
はないね。」
 男が産まれやすいか女が産まれやすいか。
 確かに、産み分けの呪いについて問い質すことは、そういったことで悩んでいる者にとっては愉快
なものではないだろう。リショウとて楽しくて聞いているわけではない。だが、そ失せねばならない
事情があるのだ。そしてその事情の一旦は、
「お前がリツセにアカネ殿を押し付けたからだろ?」
 呪いについて問われた時に、真っ先にリツセの名を挙げたのは他ならぬウオミだ。しかし、リショ
ウの糾弾をウオミは一蹴する。
「あたしがリツセのことを黙ってたって、あんたがリツセのことをあの女に行っていたさ。あの女の
連れは、あんたの知り合いなんだろ?」
 ぐう、と言葉に詰まる。ザイジュがアカネと一緒にいる以上、リショウ自らがリツセの元にアカネ
を連れて行った可能性は高い。
 絶句したリショウを、ウオミはほら見ろと言わんばかりの眼で見つめ、ふん、と鼻を鳴らす。
「あんた、自分が余所者だって自覚がないんじゃないのかい?此処で暮らす以上、瀬津郷のやり方に
は従って貰わないといけないんだ。あんたのやってることは、明らかに此処でのやり方に反してるよ。」
 女しか産まれない呪いだなんて、妄りに口に出すもんじゃない。
 一見すればそういう家系に対して気を遣ったように聞こえる台詞だった。
 しかしリショウはウオミの眼に、微かな揺れを見出した。何かに怯えているような、禁じられた道
にそうと知りつつ入り込んでいく生贄のような怯えが。
「女だけしか生まれない呪いについて調べる事が?確かにそういう家系にとっては笑いごとじゃない
だろうが、そういうお伽噺や伝承を聞くのも駄目だってのか?」
 たかが呪い。
 そう言いかけてリショウは口を噤む。たかが呪い、ではないのだ。未だ神が住まうこの地では、呪
いは確かに存在する。人と神との境界が薄い瀬津郷において、呪いと祝いは振り返ればそこにあるよ
うなものなのだ。
 だが、だからこそこの地では、偉大なるヒルコ大神の加護が息づく。
 呪いなど恐れるに足らぬほどに。
「ウオミ、お前まさか何か知ってるのか。」
 だからリショウは問うた。ヒルコ大神の加護を受けるこの地で、何を恐れるのか、と。ウオミの唇
が固く引き結ばれて、頑として開く気配がない。
「良いか、この呪いについては下手したら宮家が動くかもしれない。そうなったら、リツセの身柄も
宮家に行っちまうことだって考えられるんだぜ。」
 ウオミの唇が一瞬震えた。漁師とて、宮家とリツセの間にある確執については知っているだろう。
宮家が絡んだ瞬間、リツセという市井にいる宮の血が、権力闘争の一端を担うことも。
 だが、ようよう開いたウオミの唇からは、酷く硬い声が出ただけだった。
「だったら、どうだっていうんだい?あたし達が、宮様のことに口を出すとでも?」
 何、と眼を見開いてウオミを睨めば、ウオミも負けじと睨み返してきた。険のある眼差しともに放
たれた台詞に、リショウは一瞬言葉を失う。
リショウは、ウオミはリツセの友人であると思っていた。二人はよく一緒に久寿玉の奉納に行ったり
していたし、ウオミの行動の節々からは、リツセを思いやるような仕草が見え隠れしていた。
 だが、ウオミは今、リツセが宮家を巡る渦の中に巻き込まれても仕方がないと言っている。宮家が、
己の欲望のためだけにリツセの腕を引いても、手を拱いて見ているだけだと告げている。
 瀬津郷に君臨する宮家というのは、それほどまでに偉大であるのか。友人の去り際の背を追いかけ
られぬほどに。
「それに、リツセが宮様の元に戻ることが、本当に悪いことなのか、あたしらには分からないからね。
ただはっきりしてんのは、余所者のあんたが首を突っ込むことじゃないってことさ。」
 ぐいと、ウオミが指をリショウに突き付ける。その指一本分の隔たりが、自分達の間にはあるのだ
と言うように。
「あんたがリツセの何を気取ってんのかしらないけど、瀬津郷を引っ掻き回すのは止めな。」
 豹変したウオミの背後に、リショウは見たこともない宮家に連なる人々の顔が見えたような気がし
た。リツセに関わるリショウに対して含むところがあるのか、呪いについて調べていることを煙たが
っているのか。
 前者であるならばリショウは鼻先で笑うだけだが、後者であるならばアカネの持ち込んだ呪いには
下手をしたら瀬津の宮家が関わっているかもしれないのだ。
 随分と妙なことになった。
 リショウは顔を顰め、けれどもどちらも宮家がリツセの行く手に影を落としていることに変わりが
ないのなら、リショウはそれを払うだけである。
 ウオミはリショウを余所者だと言い、隔たりある者としたが、血の流れを分け隔てるものなどある
ものか。瀬津郷の民が神の言葉を頼るというのなら、李翔の民はその血脈に頼る。
 彼らはこれまでも血脈を頼って旅を続けてきた。
 故にリショウもリツセを頼り、故にリツセに影が降りかかるならば、それを振り払うのが道理だ。
 ウオミの硬い顔を見つめて、リショウはゆっくりと頷いた。ウオミの言い分はわかった、と言うふ
うに。
 だが、ウオミの言い分は分かっても、李翔の名を冠する以上、リツセに宮家の粟を掴もうとする触
手が及ぶことを見過ごすわけにはいかない。
「ウオミ。お前が宮家のやることを信頼して、何が起きても口を出すつもりがないことはよく分かっ
た。それが瀬津郷のやり方なら俺は何も言わない。でも、それは俺には関係のないことだ。アカネ殿
のいう呪いについて調べることが、宮家の具合が悪かろうがなんだろうが、俺が歩みを止める理由に
はならない。」
 何せ俺は。
 如何に付き従う氏族が五人しかおらず、うち二人は行方不明という体たらくであっても、リショウ
は一族の長だ。五人の氏族を率いて、新たな土地でその血を広げることを許された名を負っている。
宮家であろうと、他国の長であろうと、その眼の前で無様に膝を突くような真似などするものか。
「俺は余所者だからな。」
 リショウは背を向け様に、言い捨てた。