リショウが眉根を寄せた時、長屋の襖がすらりと開いた。小さく掠れる音と共に、白くて丸いトカ
ゲがのしのしと我が物顔で入ってくる。部屋の中で固まっている三人の男達を見回したトカゲは、ふ
ん、と鼻を鳴らすと、部屋の隅に積み上げられている座布団の上に陣取った。
 何処にいても我が道を歩く水守の後を追ってやって来たのは、つい先程まで話題に上げられてた彼
の人――リツセである。襖の前で膝を降ろしたままこちらを窺う縁者の様子に、リショウはどうした、
と声をかけた。
 声をかけながら、男所帯に女一人で――たまもいるとはいえ――やってくるのはどうか、と思う。
「アカネ殿が目を覚ましたか?」
「いいや、原庵先生がやってきたから任せてきた。」
 首を横に振ったリツセは、敷居を跨いでまでこちらに入ってこようとはしない。さすがに男三人が
寄り集まっている部屋に足を踏み入れようとまでは思わないのか。もっとも、彼女との間を阻むもの
は、敷居しかないのだが。
 跨いでしまえばそれっきりの結界を、けれども破れることはないと信じているかのように、リツセ
は頑なにそこから動こうとはしない。
 少し俯き加減の顔に黒い髪が一房落ちている。その向こう側から、髪と同じくらい黒い眼がこちら
を覗いていた。
「それで、お前はどうするつもりなんだ?」
 リショウも黒い眼でリツセの顔を覗き込む。緩やかに絡まった視線から何か読み取れるほど、自分
達の血潮は濃くない。だから、リショウはリツセの白い顔に言い募る。
「俺にしてみれば、お前がアカネ殿に言った提案は、少し浅慮だと思うぜ。アカネ殿が宮家に言った
ところで、何らかの手がかりが見つかる確証もないわけだしな。」
 下手にお前の弱みを宮家に握られるだけという状況を生み出すかもしれないだろう。
 暗にそう言ってやれば、ぱたり、とリツセが瞬いた。睫が蝶の羽のように開いたり閉じたりを繰り
返している。そこにどんな思惑が過っているのか、やはりリショウには読み取れなかった。
 だが、逆にリショウの言い分をリツセはきちんと読みとったのだろう、特に問題はない、と返答が
あった。
「今更、私の名前が出たところで宮家にはなんの影響もないだろうよ。」
「だが、痛くもない腹を探られることだってあるだろう。」
 昔からありがちな野望を持った輩がリツセを担ぎ出そうとすること、リツセ自身がそういう野望を
持っていると勘違いされること、こういったことが丸っきり起こらないわけがない。それはリツセ自
身も言っていた事だ。
 せめてアカネが庶民であったなら、宮家も掌を振って追い払うだけで良いだろうが、よりにもよっ
てどこぞの武家の嫁になる予定がある。何人かは警戒し、何人かは野望の触手を動かすだろう。
「リツセ殿。」
 リショウの言い分に被さるように、低いが良く通る声が響いた。水守三匹に膝の上を明け渡してい
たグエンが、腕組みをしたまま声を上げたのだ。
「我が主は貴女のことを慮っているのだ。そこをご理解いただきたい。」
 切れ長の眼が揺るぎなくリツセを見ている。真っ直ぐに流れる視線を見て、慮っているのはお前の
ほうじゃないのか、とリショウは思うが、それは今はどうでも良いことなので口にしない。わざわざ
リツセに、我ら一族の内々のことまで背負わせる必要はない。
「ひとまず、我らでアカネ殿の言う呪いに近しいものについて調べてみようかと思っている。リツセ
殿の手と名を煩わせるのは、その後でも良い。」
「けれど、彼女は身動きできるようになれば、今にでも神社に走っていくと思うけれど。」
「そうならないようにザイジュを付ける。」
 ザイジュ、とグエンに呼ばれて、その姿勢がぴん、と伸びる。正に軍人といった態になったザイジュ
に、
「お前はこれまで通りアカネ殿に付き従え。」
 グエンが命じる。ザイジュが良いのかと言わんばかりにこちらを見たのに対し、リショウはゆっく
りと頷く。リショウも、グエンに言われずとも最初からザイジュをアカネに付けるつもりだった。
 どういう因果かは知らないが、アカネと最初に行動を共にするようになったのはザイジュだ。その
道中、おそらく謂れのない好奇の眼と、根も葉もない噂を立てられてきただろう。だがそれはザイジュ
の自業であって、そしてグエンの命令はザイジュが針の筵に座る期間が長くなるだけの話。或いは、
これが主から離れた罰であるのかもしれない。
「俺やグエンがつけば、またあらぬ疑いを生むだけだ。それなら、これまで通りお前がついていたほ
うが良い。」
 要するに、態の良い生贄だ。しかしそれを頷くのが五氏族の務めだ。断る余地は、元よりない。頷
いたザイジュに頷き返し、リショウは再びリツセに眼を向けた。波に飲まれて今にも朽ち果てそうな
ほど掠れた血の連なりに窘められた彼女は、その事実は些少なことだと言わんばかりに、何処か遠く
を見つめている。
 何かを思案する眼差しに、どうした、と声をかければ、形の良い眉が微かに顰められたまま、リツ
セが口を開く。
「いや、彼女は何故行きがかり拾い上げた男と瀬津までやって来たのか、と思って。」
 拾い上げたとはザイジュも随分な言われようだ。全く間違っていないが。
 リショウは何を言うのかと返答する。
「女の一人旅は危険だからだろ?」
「それなら何故最初から従者を連れてこない?目立たないようにするために大勢を連れて歩くわけに
はいかないだろうけれど、でも彼女自身も武家の出なのだから、彼女に付き従う者はいるはずだ。」
 例えば幼い頃から共にいた小姓。己を守り続けてきた護衛が。そもそも、これから婚礼を上げる娘
を一人旅路に出すわけがない。
 つまり、アカネは一人黙って瀬津にやってきた。従者を付けずに、一人で。ただ、道中で拾い上げ
た男だけを連れて。
 何故一人で瀬津にやってきたのか。
 婚礼相手の家系に絡みつく呪いを解く為、とは確かに相手側のこともあるだろうから大っぴらには
口には出せないだろう。この呪いについてアカネの親がどこまで知っているのかは分からないが、も
しも知らないと言うのなら、そして呪いの家系であると知ったなら、婚礼を破棄するかもしれない。
アカネが婚礼破棄を望んでいないのなら、呪いについては自分一人の腹の中に収め、一人で呪いを解
こうと奮闘するだろう。
「でも、それでも、見ず知らずの男を従者にするだろうか。」
 見ず知らずの男に何の危険もないと信じ込めるほど箱入りだったのか。女が危険ではないと信じ込
めるほどまでにザイジュがお人好しだったのか。それとも、見ず知らずの男を従者にすることに、他
に理由があったのか。
 敷居の向こうでリツセが遠くを見ている。アカネが辿っていた道を、頭の裡だけで追いかけている
のか、心ここにあらずといった具合だ。リツセの様子を気にしたのか、ふてぶてしく座布団に転がっ
ていたたまが、座布団から飛び降りて、リツセの膝元に駆け寄る。
 膝の上に顎を乗せた水守の頭を撫でながら、少女が呟く。
「アカネ殿の婚礼相手は、一体今どうしているんだろうか。」
 妻となる女が消えて、それからどうしているのか。血眼になって探さないのか。それとも何処か他
の男と出奔したと思い追いかけないのか。
 妙だ、とリツセが白い手を額に添える。
 アカネの話は、妙だ、と。
 リツセの言葉に、リショウもアカネの言葉を腹の中で繰り返して、確かにそうだと思う。
 一見すれば、アカネの言葉は、とある武家にかけられた呪いを解こうとする娘の話で終わるのだ。
その武家が娘の幼馴染の少年が養子縁組される家系であり、そして娘は少年と婚礼を迎える予定であ
ると付け加えれば、お涙頂戴の冒険活劇にならなくもない。
 しかし現実は細部にまで時間が宿っている。呪いを解こうとする娘は何故一人で旅立ったのか、娘
が旅立ってしまった少年はどうしているのか。紙芝居なら省かれる箇所だが、実際はその部分でも時
間は流れている。
「それに、懐妊してることもあるしな。」
 一番生々しい事実。
「婚礼前に懐妊しているということは、少ないことじゃないけれどね。」
 片頬を微かに歪めてリツセが笑う。お伽噺では語られない、血の通った人間の出来事が、此処には
ある。
 はたりと沈黙が落ちた。空虚な時間ではなく、各々が考えを纏めるための、深々とした沈黙だ。水
守達だけが、人間達の思考など気にも留めず、ただ黒い眼に人間達を映している。
 やがて、リツセが口を開く。
「もう一度、時間をおいてからアカネ殿には話を聞こう。彼女が呪いを解くために、瀬津にやって来
たという理由も少し気にかかる。」
 ヒルコ大神を頼ってきたと言うが、しかしヒルコ大神以外にも頼るべき神は大勢いるだろうに。
「本当は何か意味があって瀬津にやって来たと言うのなら、呪いの原因は瀬津に纏わる神にあるのか
もしれない。それなら、瀬津で起こった事件を調べれば何か手がかりが得られるかも。」
 その場合、アカネが何を意図して呪いの原因と思しき事を黙っていたのかが、また問題になるのだ
が。
「じゃあ、俺はその事件とやらを調べてみる。」
 しかし今は、出来る事から手を付けねばやっていられない。圧倒的に手がかりがない状況で、微か
に感じた違和感から巨大な絵を導き出さなくては。本当に呪いがあるのかどうかは分からないが、呪
いがあったならあったで、その時はやはり同じように、僅かな手がかりから解呪の方法を導き出すし
かない。
 それが、人間の手段だ。
 宮家などに手を出す前に、神と人との狭間に立つ前に、人としてやるべきことを、できることをや
っておかなくては。あらん限りの方法で、河の向こう岸でこちらを睥睨する神の眼差しを受け止める
しかないのが、人だ。
 敷居の向こうでは、リツセが相変わらずの姿勢で佇んでいた。