「懐妊しているね。」
 意識のないアカネを一目見るなり、原庵はそう断じた。その言葉に、ふあっと驚いた声を上げたリ
ショウの隣で、リツセは、ああやっぱりね、と言わんばかりに頷いている。
 瀬津郷で人気の医者である原庵の診療所は、職人街から出て門前町に向かう途中にある。原庵に一
目でも自分の容体を見てもらおうと集まった人々が行列を作る中、リショウは自分が厄介になってい
るのをいいことに、裏口からこっそりと入り込んで、診療中だった原庵を呼んだ。
 不躾にも仕事中の己を呼び出した青年を、原庵は怒りもせず、ただ青年の背に負われた女人を見る
なり、冒頭の言葉を告げたわけである。
 安静に寝かせておくように、とだけ言い置いて、原庵は診療所に戻る。寝かせておくだけで良いの
か、と思いもしたが原庵がそう言うのだし、そもそも患者の列に割り込むような真似をしたのは此方
である。文句をいう権利は何処にもない。僅かな時間でも手を止めてこちらにやって来てくれただけ
でも感謝せねばならない。
 とにかく奥の座敷に布団を敷いて、そこにアカネを寝かせて一息ついたところで、青年達の奮闘―
―というかなんというか――を眺めていたグエンが口を開いたのである。
「それで、ザイジュ、お前は今まで何処に行っていた。」
 凛とした声であった。感情の抑揚のない平坦な声は、淡々と事実だけを求めている。だが、それが
リショウとザイジュには――この場合はザイジュだけだが――恐ろしい。
 グエンは『李翔』の法を司る者だ。則を乱す者を捉え、律する者だ。平時ならば罪人を引き立てて
裁き、戦ならば軍規を引き締める。今回、ザイジュは瀬津郷で待つというリショウの言葉を無視し、
一カ月以上、主君の御前から離れた。これが何の罪に当たるのか、リショウにはわからぬが、しかし
グエンがザイジュを断罪するには十分ではあった。李翔の従う五氏族は、李翔の御前を離れることは
罷りならぬ。
 だが、グエンが腹の底からザイジュを両断する声を放つ瞬間、アカネの様子を布団の傍らで見守っ
ていたリツセが顔を上げ、
「此処では騒ぐんじゃない。」
 と切り捨てた。
 女人が眠る部屋に、彼女自身を運ぶためとはいえ男連中が入り込んでいる時点で褒められた話では
ないのに、更に怒鳴り声を撒き散らそうものなら、首根っこを引っ掴まれて放り出されても何も言え
ない。
 なので、リショウはアカネのことはリツセに任せるとして、一旦は己が氏族を引き連れて部屋から
離れることにした。
 配下であるグエンとザイジュについては、今現在リショウが住んでいる診療所の裏手にある長屋に
連れて行った。この長屋でリショウとグエンは寝起きしている。どうやらここは、原庵の診療所を手
伝う者達が住むために建てられたらしく、リショウとグエンの他にも下働きの女や診療を手伝う若い
医者などが住んでいる。ただし今は昼間、診療所は大賑わいなので、リショウ達以外に人気はない。
幸いにしてリショウ達の会話を邪魔したり立ち聞きしたりする輩は何処にもいないのだ。
 静かな長屋のリショウの部屋で、三人の男と、小さな水守三匹が座り込んでいる。水守達は、ぱた
ぱたと尻尾を振りながら円らな眼で三人の男の顔を見比べていたが、やがてこの時間を誰の傍で過ご
すかを決めたらしく、よちよちと移動し始める。三匹ともが、グエンの膝の上によじ登ったのは何の
冗談かとも思ったが、リショウは何を考えているか分からない水守の行動になど、今更突っ込む気も
ない。
 なお、たまはリツセと一緒にいる。
「それで。」
 グエンが再び、ぎろりと眼光鋭くザイジュを見やり、つい先程己が吐いた質問の回答を促している。
膝の上にいる水守達との間の抜けた顔との対比が激しく、恐ろしさも三割引となっているのだが、そ
れでもザイジュの喉の奥が、ひぃ、と鳴った。
 本人にその気はないのかもしれないがどう見ても相手を睨み付けるグエンと、逃げ出しこそしない
が明らかに腰が引けているザイジュを見比べ、二人の主君は渾身の溜め息を吐いた。
「グエン、ザイジュが一ヶ月間俺の前を離れたことは、不問にしようぜ。どうせこんなのがあと三人
もいるんだ。いちいち罰してたらきりがない。」
 残り三人の氏族。彼らの行方もまた、未だわからない。だが、正直なところ、彼らがいなくて困っ
たということは欠片もない。せいぜい、彼らが自分を捜すために瀬津郷にやってくるかもしれないか
ら、下手に瀬津郷から動けない、という程度である。だがそもそも瀬津郷以外に行く宛もないリショ
ウにとって、この制約は別に制約でもなんでもない。
 だが、グエンの中ではこれを不問にすることは大問題であったようだ。曰く、
「示しがつかん。」
 何に対してだ。
 リショウは腹の底でそう思った。示しも何も、リショウの部下は結局のところ五人しかいない。そ
の五人のうち四人がリショウの御前を離れた。その四人を罰するのはリショウの傍を離れなかったグ
エンである。
 当事者しかないこの状況で、果たして示しを見せつける相手がどこにいると言うのか。
 だが、それをいちいち言ってもグエンの眉間のしわがいっそう深まるだけなので、リショウは妥協
案を出した。
「だったら、全員が揃ってから一気に裁けばいい。一人ずつ罪をあげつらっていたらきりがない。ど
うせ残りの奴らもすぐに見つかるだろ。」
 残りの三人がすぐに見つかる根拠など、ない。ただ、リショウは瀬津郷に根差すと決めた時、リツ
セが海で失ったものはこの地では必ず見つかる、と言っていたことを思い出した。実際に、偶然かも
しれないがザイジュはリショウの元に戻ってきた。だから、何となくだが残りの三人も近いうちに会
い見えることができるだろうと楽観的に思っているのだ。
「そんなことよりも、だ。」
 今は此処にはいない三人の氏族よりも、もっと重要な事がある。リショウはザイジュをぎろりと睨
み付け、
「ザイジュ、お前、まさかアカネ殿に手を出してるとかないだろうな。」
「何を言ってるんですか!」
 ザイジュの悲鳴のような声が返ってきた。壁から壁を突き抜けてしまいそうな声に、長屋の中が留
守で良かったと思う。
 主君の発言に、肩で息を吐くほどの勢いで否定の意を示したザイジュと、その様子をむっつりと黙
り込んで眉間に皺を寄せて見ているグエン。彼らを見比べて、まあそうだよな、とリショウは頷く。
 ザイジュがアカネに惚れた腫れたの感情があったとしても、基本折り目正しい性格である彼が、道
を踏み外すなんてことは考えていない。というか、そんなちゃらんぽらんな氏族が付き従う者になる
わけがない。むしろ一番ちゃらんぽらんなのは、彼らの頭であるリショウである。
「だかな、お前の行動はそうだと見られても文句は言えないぜ。」
 ザイジュの性格云々はリショウが良く知っている。だが、彼の性格からして人妻に手を出すはずが
ない、と言い張ったところで、それが通じるのはリショウと五氏族の間だけである。瀬津郷の住人に
は、彼ら余所者の道理など通じはしない。世間一般の考えに照らし合わせて、下世話な想像をされて
噂されるのがおちだ。
 しかも、まだ婚礼を上げる前のアカネが懐妊しているとなると、どうしたって相手の男の候補にザ
イジュは挙げられてしまうだろう。ザイジュよりも、アカネの婚約者のほうが子供の父親である可能
性は高いのだとしても、人々はより面白く他人が不幸であるほうに話を進めたがる。
「大体、なんだってお前はアカネ殿を気に掛ける?瀬津ではない港についてしまって右も左もわから
ないところを助けて貰ったからか?だが、それならアカネ殿を瀬津まで連れてくることで十分に借り
は返しただろう。」
 そう、ザイジュがこれ以上アカネに関わる謂れはない。もちろん、ザイジュがお人好しであること
は重々承知している。アカネと婚礼を上げる相手の家系に、男殺しの呪いがかかっており、呪いを必
死で解こうとしているアカネを間近で見て、絆されたのだろうと想像がつく。もし、呪いを解くこと
を手伝うというだけならば、リショウも苦笑いだけで頷いただろうが。
「ザイジュ。これ以上、アカネ殿の呪いに首を突っ込むことは許さない。李翔の名にかけてこの俺が
命じる。」
 有無を言わせぬ口調で、リショウは己が部下に告げる。グエンとザイジュが真っ先に考えるのは、
リショウの身の安全とその意中であり、そしてまたリショウの名に連なる者も同じく守るべき者とし
て扱わなくてはならない。アカネという第三者は、本来ならば一番最後に考えなくてはならない存在
なのだ。
 しかし、ザイジュはリショウが有無を言わさぬ口調で言ったにもかかわらず、問い返してきた。
「何故です?」
 頭を上げて口答え、下手をすれば謀反とさえ思われかねぬのに、ザイジュはリショウの真意を問う。
グエンがザイジュの様子に眉を顰め、咎める言葉を出すよりも早く、リショウはザイジュのために答
えを言った。
「お前は、リツセを巻き込み過ぎた。」
 言い放った後、リショウは部屋の外に耳をそばだてる。足音は何処にもしない。リツセはまだ此処
には来ないようだ。それを確かめてから、棒か何かを飲み込んでしまったかのような、口元を引き締
めているが眼は真ん丸という表情をしているザイジュに、もう一言告げる。
「察しろ。」
 リツセの顔を見て、まさか何も思わなかったわけがない。顔を合わせた時、息を呑んだ音をリショ
ウははっきりと聞いている。
 リショウの一番上の姉に似ているリツセを、よもや赤の他人ということで心を落ち着けたなんてこ
とはないだろう。もしもそうだとしたら、それほどまでにアカネに心奪われたのだというのなら、や
はりそれは危険なことだ。
「俺も説明はしていなかったからな。お前が戸惑って、リツセに対する対応を決め兼ねたというのは
仕方ない。だが、リツセを見ておきながら、何も察せず、それどころか別の女のことを優先させたと
いうのは、まずい。」
 これが神々のことであったなら、ザイジュは問答無用で呪われていることだろう。神々にとって、
自分達の考えを人間が察するのは当然のことなのだから。
 なるほど、確かにこれはザイジュにとっては理不尽かもしれない。リショウは己と部下の関係を、
神々と人々に当て嵌めて、己の言葉を実行するのが如何に難しいかを悟る。リショウは、神々の怒り
が何も知らぬ人間にとっては理不尽すぎないかと思っていた。自分もまた、神々と同じことをしてい
るのか。
 だが、一方で部下が主君の心の琴線を知っているのは当然であるとも思う。神々も、人々が己の怒
りが何によって齎されるのか、わかっていると信じているのかもしれない。
「あの、リツセ殿は、一体……。」
 アカネによって曇らされていた眼が晴れたのか、ザイジュが戸惑いがちに問いかける。その顔の線
に、はっきりと刻まれているリショウとの血の繋がり。
「俺と、遠く深くで血を同じくする者さ。」
 リショウと同じ祖を持つ、葦原国の娘。神と人の狭間の姫の末裔。そしてその血筋から分かたれた
久寿玉師。アカネの呪いを解くために、宮家に己の名を出せば、と告げた。
「だがそれはあいつにとっては良いことじゃないだろう。」
 瀬津郷の長を定める血を巡る争いの発端になりかねない。そんなものに、己が血と同じ存在を巻き
込むことは、リショウの血が許さない。まして、己の部下の不用意な発言のせいで、そんなことにな
ったなど。
「も、うしわけ、ありません。」
 許しを請うザイジュの声が徐々に小さくなっていく。李翔の血脈は深く、広い。歴代の李翔達は、
己が血脈を分かちながら、目指すべきものへと旅立っていった。血脈を伝手に、新たな繋がりを求め
て。そして新しい繋がりができれば、それを元に更に血を広げていく。付き従う氏族達も、李翔の血
の旅を知っている。故に血脈がいかに重要であるかも知っている。ザイジュもリツセの存在の深さに
気が付いたのだ。
「だが、どうするつもりだ?」
 グエンの低い声が空気を割った。水守に膝を明け渡している法官は、ザイジュの罪を見極めながら、
リツセと宮家の接近をどうやって止めるつもりかと問う。アカネは目覚めれば、藁にも縋る勢いで宮
家を訪ねるだろう。
「別の呪いを解く方法とやらを見つけるしかないだろうな。」
 宮家に行くのは最後の手段だとアカネに言いくるめておいて、他の方法を探すしかないだろう。
「アカネには、そうだな、宮家にいきなり行くのは失礼だとか、拝見を請う書状をまずは書くべきだ
だとか何とか言って、ひとまず誤魔化そう。その間に男殺しの呪いについて調べるしかない。」
 似たような呪いは幾つもあるだろうが、それらはあくまで似たような呪いであって、同じではない。
解呪の方法も同じだとは限らない。しかし、最大限に宮家を回避するためには、試してみるしかない。
骨が折れる上に時間もないが、やってみるしかないだろう。
「ザイジュ、グエン、とにかく似たような呪いについて掻き集めろ。噂話でもお伽噺でも何でもいい。
首を突っ込むなって言っといて、あれだがな。でも、リツセの命がかかっているようなもんなんだ、
やれ。」
 否、とは言えまい。
 特に、グエンは。
 しかし、とリショウは喉の奥にまだ何かが詰まっていることに気が付き、それを音にしてみた。罪
ではないかもしれないが、しかし世間的には眉を顰めたくなる事実に対して。
「アカネ殿の相手の男は、婚礼前に妻となる女に手をつけるなんて、何を考えてるんだ?」