視界の隅を白い何かが回転しながら横切った。と思った瞬間、顔面をもの凄い勢いで、その白い物
体が横殴りして通り過ぎていく。横殴りされた一瞬のうちに見えたのは、白いひれのある尻尾だった。
 痛みのない衝撃をやり過ごして白い回転体の行く末を追いかければ、それはくるくると回転しなが
ら地面に着地した。そしてリショウを黒い円らな眼で見上げると、ふん、と鼻を鳴らした。
 リツセの家に住み着く水守たまの、毎度お馴染の出迎えである。本日は趣向を少し変えて、飛び掛
かりに回転を加えたらしい。短い手足でどうやってあそこまでの回転を生み出したのかは、完全に謎
である。
 なお、リショウの頭と肩に乗っていた三匹の水守は、たまの襲撃の一拍前にリショウから飛び降り
て、今はたまの周りに集まって、きぃきぃと鳴いている。間違っても、リショウに飛び掛かった事に
対する抗議ではないだろう。
「いらっしゃい。」
 そこへ、店先を箒で掃いていたリツセが挨拶をする。リツセがこうして、久寿玉を納める以外の用
事で店の外に出てくることは、つい最近はほとんど見かけなかった。久寿玉作りが立て込んでいると
いう話は知っている。だが、店先を掃除する余裕があるということは、ある程度、仕事に一段落つい
たのかもしれない。
 リショウとザイジュ、そしてアカネを見比べるリツセの足元には、たまから離れた三匹の水守が集
まり、きぃきぃと鳴いている。挨拶しているつもりなのだろう。
 リツセはリショウの背中の薬箱に眼を止めると、
「まだ薬に不足はないが?」
「いや、薬を足しにきたんじゃない。用事があるのは俺じゃないんだ。」
 リショウは、自分の背後にいる二人に顎をしゃくる。それを追いかけるリツセの眼は、静かではあ
ったが彼らを定める光を灯している。
 一人は身長こそ瀬津郷の男と同じくらいだががっちりとした大陸人特有の肩幅を持つ男。片やもう
一方は、白魚のような指をした深窓の令嬢を絵に描いたような娘だ。どうにもちぐはぐな組み合わせ
で、男のほうを知っているからリショウは何も思わなかったが、知らぬ者が見ればあらぬ疑いをかけ
られぬと二人組だった。
 だが、リツセはひたりと、ザイジュが目を丸くしている様に眼を止めると、一言言った。
「こちらは、貴方の知り合いか。」
「ああ。前に話しただろう?グエンと同じ、俺に従う五つの氏族のことを。その中の一人だ。」
「瀬津に来る前に船を乗り間違えて離れ離れになったんだろうって言ってたやつか。」
 そうだと頷きながら、リショウはザイジュの顔色を窺い見る。リツセの顔を見たザイジュはやはり
というか息を呑んで、そのまま表情を固めてしまっている。それはそうだ。リツセの顔は、リショウ
の一番上の姉に似ているのだ。故郷に置いてきた顔がそこにあれば、誰だって息を呑むだろう。
 リツセはザイジュの態度については言及せず、その隣にいる娘へと視線を移している。
「では、こちらの方は?瀬津の方ではないようだけれど。」
「ああ、用事っていうのはこっち。ウオミの紹介で。」
 言ってから、そういえば自分もアカネが何をしに瀬津に来たのか詳しく知らないことを思い出す。
ただ、久寿玉師が入用であることは知っているが。
 ふむ、とリツセは頷いて箒を脇に立てかけると、ひらりと裾を翻して、どうぞ、と腕を広げて掌で
店の中を示す。白い六連の久寿玉が屋号の代わりに垂れ下げられている店は、客人を中へと招き入れ
ようと扉を開いている。扉をくぐった先にあるのは、神々の加護を受けた呪物のある空間だ。
 しかし美しい貴人はその中には入らず、白の袷に身を包んだリツセを縋るような眼差しで見つめた。
今にもその場に跪きそうな、娘の眼差しを見て、リショウははっとした。
 この眼を自分は知っている。故郷で幾度か、ぶつかってきたことがある。いや、今も自分にはその
眼差しが向けられていることに気が付いている。その眼差しが、掟という名に変じていることも。
 リショウにとっては足枷でしかない眼差しを、リツセは真正面から受け止めた。黒い眼からは表情
は読み取れず、分からぬリツセの感情の代わりに、アカネが感情も顕わに悲鳴のような声を上げた。
「貴方は、呪いを解く事ことができるのですか?」
 絹を裂くような声は、幸いにして小さかったので隣近所には響かなかった。向かいの小間物屋から
チョウノが走り出てくる気配もない。代わりに、たまがととっと走り寄ってきて、リツセの脚に身体
をぽんとぶつけた。
 リツセの脚に体当たりをすると、たまはそのまま店のほうに走っていく。その後を追いかける小さ
な水守が三匹。リツセとリショウはその後ろ姿を追いかけ、逸らした際にふと目が合う。リツセの眼
に、厄介事を持ち込んだなという嗜めと苦笑いを示す光がちらちらと踊っていた。
「このような場所で話もなんですから、どうぞ店の奥へ。長旅でお疲れでしょうから、茶菓子でも準
備しましょう。」
 白いトカゲの輪郭が、店の中で待っている。リツセはリショウに対して向けた光を瞬きの間に消し、
再び恭しく店のほうへと促した。
 娘は少し戸惑ったようだったが、しかしやはり長旅の疲れがあるのは事実らしく、休息を求めてふ
らふらと店のほうへと歩いていく。最初の一歩は躊躇いがちだったが、進んでしまえばすぐに店の中
に辿り着いた。
 一方ザイジュのほうはといえば、リツセの顔を穴が開くほどに見つめている。その顔の中に、遠く
離れた気配を探している眼差しだ。探したい気持ちは、リショウにも分かる。だが流石に初対面の人
間をそうも見つめるのは失礼だ。
「ザイジュ、お前も来い。お前にも説明してもらわないといけないだろうからな。」
 アカネの言葉について補足してもらわねばならない。く、と顎を引いて頭一つ分ほど下にあるザイ
ジュの顔を見下ろせば、ぶつかった眼差しは信じられないものを見たという声を隠そうともしていな
かった。あからさまにリショウに説明を求めているザイジュの表情に、リショウは溜め息を吐く。
「お前の言いたいことは分かってる。でもそれは後だ。」
 リツセについて語るには、この場はあまりにも世間が広く、そして時間もない。リショウとリツセ
の遠い関係については瀬津郷の者には話していないし、まずはアカネの話を聞くのが先だ。
 主君の言葉に否応があるはずもなく、ザイジュは小さく頷き、今一度リショウを見、そしてリツセ
を見てから、アカネの後を追うように店の中へと入っていく。その後ろ姿がこちらを振り返らぬのを
いいことに、リショウはもう一度リツセのほうに視線を向ける。すると、リツセも何か思うところが
あったのか、目線をリショウに向けていた。
 目が合ったのは一瞬であったが、やはりその一瞬の中にリツセの言いたいことを籠めた光を読み取
ることができた。遠い縁者の眼の光に、今度はリショウが苦笑めいた光を浮かべる番だった。
「この件はウオミが持ってきたんだぜ?」
「分かってる。」
 自分は無罪だと主張すると、素っ気ない返事が返ってきた。
「私は茶菓子の準備をしておくから、貴方は彼らを奥の部屋に通しておいてくれ。」
「俺が?」
 勝手に家に上がり込んでも良いのか。目を丸くすると、今度の視線は少しばかり険と呆れが入った。
これまでも家に上がり込んだことがあるくせに何を今更、ということのようだ。確かにそうである。
 肩を竦めて分かった、と頷くと、同じように頷いて台所へと向かうリツセと別れ、店の中で所在な
さげにしているザイジュとアカネを追い立てるように店の奥に押し込んだ。
 店から入ってすぐの所にある部屋は、一応客人用で、卓を挟むようにして、既に座布団が四つ敷か
れていた。ただし、そのうちの二枚には白トカゲの輪郭がぽってりと乗っかっている。一枚には三匹
の水守が文字通り三つ巴状態で、もう一枚にはたまが堂々と寝そべっていた。
 大体予想していた出来事だったので、リショウはすぐさま三匹の水守を払い落とし、その間にアカ
ネに空いている座布団を進め、三匹を払い落としたばかりの座布団をザイジュに押し付ける。
 そして、さあ問題はもう片方の座布団である。でん、と鎮座するたまが、見事に腹を曝しながらも
意味ありげに円らな眼でリショウを見上げている。間違いなく、わざとこの水守は座布団に鎮座して
いるのである。
 水守の行動に、いちいちかまっていてはきりがないことは既に学習済みである。リショウはたまの
両脇に掌を差し込んで、ぶらんとぶら下げるように座布団から引っぺがす。そして、ぽい、と畳の上
に降ろした。これで、リショウの分の座布団も確保できた。
 だが、その様子を見ていたザイジュが呆気に取られたような声で言った内容が悪かった。座布団を
畳に敷いただけでまだ座っていないザイジュは、たまをしっかりと見据えてこういったのである。
「なんなのですか、その珍奇で無礼なトカゲは。」
 確かに瀬津郷の人間から見れば、たまは珍奇で無礼なトカゲだろう。しかしトカゲよりも遥かに知
性があり、人語も解しているたまは、トカゲではなく水守である。勿論、ザイジュの言葉も理解して
いる。
 畳の上に降ろされたたまは、ザイジュの言葉を聞くなり、すたすたとザイジュの座布団に近づくと、
その上にどん、と乗っかったのである。ザイジュを見上げて、馬鹿にしくさった眼差しまでこさえて。
「おい、こら。」
 確かにザイジュの言葉は悪い。しかし何も知らない者にしてみれば、水守は妙に丸っこい巨大なト
カゲなのだ。それぐらい、頭の良い水守ならば分かっているだろうに。
 リショウはザイジュの座布団からたまを引っぺがそうと、もう一度脇に掌を差し込んで、持ち上げ
る。なんなくたまは持ち上がった。ただし、座布団も一緒に。たまが紅葉のような手で座布団を掴ん
でいるのだ。ふん、とたまが鼻を鳴らす音が聞こえる。
「お前な、いい加減にしろ。ザイジュ、お前ももう一回座布団を奪われたくなかったらさっさと座れ。」
 リショウはたまを片手で抱えると、もう一方の手で座布団を奪い取る。そして奪い取った座布団を
ザイジュに押し付ける。受け取ったザイジュは慌てて座布団を畳の上に敷いて、その上に座った。リ
ショウはたま抱えたまま自分の座布団に座る。何故座布団に座るだけで、こんな騒ぎになるのか。
 リショウがたまを自分の膝の上に乗せて、その動きを封じ込めていると、ようやく家主であるリツ
セが戻ってきた。黒の盆の上には湯呑と急須、そして幾つかの皿が乗せられている。手早く湯呑に茶
を注ぎ、各自の前に湯呑と茶菓子の乗った皿を配っていく。
 リショウは皿の上に乗った、半透明の茶色の餅のようなものの中に餡子が入った物体を見て、なん
だこれとリツセに問う。席に着いていの一番に茶菓子について問うた遠き縁者に、リツセは淡々と答
えた。
「東の都からやってきた商家の方に頂いた生八つ橋とあられだ。」
 答えたリツセも、自分の座布団の上に腰を下ろす。途端に、三匹の水守がその膝の上に乗って、三
つ巴を作る。なお、リショウの膝の上に乗せられたたまは、リショウの前に配られた生八つ橋に手を
出している。たまの行動には色々と言いたいことはあるが、茶菓子の一つくらいは仕方あるまい。全
部くれてやるつもりはないが。
 肩身を狭くしているアカネに、リツセはどうぞお飲みくださいと茶を勧めている。
「一度気分を落ち着かせた後にお話しをお伺いしましょう。お茶を飲んでいる間に、呪いの話につい
て整理されると良いでしょう。」
 リツセの言葉に背中を押されるように、おずおずと茶を一口啜ったアカネの背が、ふと少しだけ緩
んだように見えた。視線が忙しない動きから、緩やかに辺りを観察するものに変わる。ゆっくりと辺
りを見回すほどには、心に余裕が戻ってきたらしい。
「あの……こちらの久寿玉で呪いが解けるのでしょうか?」
 湯呑を両手で包んだままリツセに問いかけた眼は、未だ縋る者の眼をしていたが。
リツセは自分の前にある茶菓子をリショウとたまのほうに押しやり――たまがすぐに手を伸ばして
いた――居住まいを正した。
「さて、呪いと一口に言いましても様々あります。如何なる呪いについておっしゃっているのですか?」
 対峙するリツセとアカネを見比べ、リショウは呪いなど解けまいに、と思う。久寿玉にはそんな力
はない。九頭大蛇の頭を封じていた玉でさえ、脆い紙でしかなかったのだ。リツセは久寿玉によって
神々と人々を取り成す事はできるが、取り成しの結果として呪いがとけたとしても、全てが全て呪い
を解くわけではない。なのに、そんな簡単に呪いについて口出しして良いのか。
 リショウの中に苦々しいものが広がる。それが、遠い血筋で連なる者への、親愛の情による心根か
らくるものなのか、判断はできなかったが、
 そんなリショウを差し置いて、リショウの膝の上にいたたまは、もりもりとあられの山に顔を突っ
込んでいる。リショウの為に出された茶菓子は、みるみるうちにたまの胃袋に収まっていく。だが、
たまの行動に口を挟むよりも、まずはリツセとアカネの間にかけられようとしている橋を崩す方が先
だと、リショウは判断した。
「淡ノ島に行きたがってたが、なんかあるのか、あの島に。」
 するりとウオミとの話を持ち出せば、アカネが少し視線を彷徨わせた。何か言いにくいことでもあ
るのかもしれないが、そもそもそこを言わねば呪いなど解けないだろう。原因が分からぬのに、解決
などできるはずもない。病の名前を言わずに、薬だけ寄越せと言っているようなものだ。
 持っていれば呪いが解ける。久寿玉は、そんな便利な代物ではない。
「泡ノ島に行きたいということは、アワシマ神の加護をお求めですか?今の時期はそのような方が多
いので、それ自体は別に珍しくはないですが。」
 失礼、と断りの言葉を入れると、リツセは立ち上がると店のほうに引っ込んだ。そうして戻ってき
たときには、掌に久寿玉を一つ乗せている。それは原庵の住まいにも飾ってある、籠の中にもう一つ
小さな籠を入れたような形の久寿玉だ。
「アワシマ神は女子供を守護する神です。故に、子宝の神とも言われ、祭りの時期には子宝を求める
人々がその加護を求めて瀬津にやってきます。」
 その加護を閉じ込めたのがこの久寿玉。
 リツセは手にしていた丸い籠を掲げる。子持ち久寿玉と呼ばれるそれは、その名の通り、子を孕ん
だ女を示している。アワシマに捧げる久寿玉としては一般的な、黒い籠の中に赤い籠が入った久寿玉
を、アカネは食い入るように見つめる。
「これは………。」
 ひくひくとアカネの紅色の唇が動く。別の生き物のように動く唇は、今にもそこだけ剥がれ落ちて、
彼女の中に溜まり込んでいる鬱屈を吐き出してしまいそうだ。
「これは、この久寿玉は、男の子を授かるようにという願いも聞き届けてくれるのでしょうか?」
「いいえ。」
 リツセは一語で淡い期待を否定した。
「神々は、産み分けはしません。男であれ、女であれ、神々は同等に扱います。故に産み分けの久寿
玉は存在しない。」
 子を願うことは許されても、男を女をと願うことまで、神々は許していない。神々自身が、産み分
けを行わなかったからだ。神々は産まれる己が子が女であろうと男であろうと、あらゆる役目を与え
てきた。故に、人々もまた、子供の男女を憂うことはできない。例え、跡継ぎを男としても、生まれ
る子供を明確に男とすることまで、神々は許さなかった。
 リショウはアカネの言葉で、彼女の言う呪いがなんなのか察することができた。
 男児を孕むことを望まざるを得ない呪いなど、大陸でも良く聞く。良く聞くからといって、そこに
関わる人々の焦燥や悲劇が差し引かれるわけではないが。
「呪いってのは、男が産まれないってやつか?」
 リショウが口を挟めば、はっとしたようにアカネがこちらを見る。そこに希望の光を見出して、リ
ショウは慌てて続ける。
「いや、良く聞く呪いだからな。大陸でもあった。だが、その呪いが解けたとかいう話は聞かないし、
聞いたとしてもたぶん、あんたの呪いとは関係がないから役には立てないだろ。」
「男児が産まれない、というのをアワシマ神の加護で解くのは無理でしょう。先程も申したように神
々は産み分けをすることはないし、アワシマ神は男児であれ女児であれ子宝を成就させる。子が産ま
れないという呪いならともかく、女児に偏りがあるとはいえ子供が産まれるのならば、それはアワシ
マ神の加護は必要ない。」
 リツセは、子持ち久寿玉をそっと卓の上に置いて、アカネを見据えた。唇から細い息を吐いている
アカネは今にもひきつけを起こしそうなくらい緊張している。それに対するリツセの声は、水音のよ
うに静かだ。
「これは子宝の加護を与えるだけです。縁起物ですので、呪いには効果を発揮しません。魔除けには
なりますが。」
 しかし、かけられた呪いを解くことはできない、とリツセは断言した。
「そもそも呪いには原因があります。それが分からないのに解くことなどできはしない。」
 偉大なるヒルコ大神でも、暗闇に沈む敵に銛を当てることは困難だ。その煌めく眼で見据えなくて
は。
「一体どのような呪いなのですか?分からねば誰にも解く事はできない。」
 波音のように響くリツセの声に、アカネの瞼がひらりと落ちた。瞼はひくひくと震え、睫は今にも
開くのか閉じるのかと言わんばかりに痙攣している。
「分からないのです。」
 瞼を閉じたまま、アカネが絶え入るように呟いた。何かに祈るように手を固く握りしめ、閉じた眼
で遠くを見つめている。
「原因は分からないのです。ただ、わたくしが嫁ぐ先は、代々男児に恵まれぬ家系でした。産まれる
のは女児ばかりで、男児が産まれても成人するまでに何らかの原因で死んでしまうのです。」