よもや、であった。
 リショウは今の状況に頭を抱えてよいのか、喝采すれば良いのかまるで分らない。
 原庵の代わりに、原庵が調合した薬の担ぎ売りをしていたのが事の発端だ。
 深い青空に見下ろされた瀬津の郷の家々をてくてくと歩きながら、リショウはその家その家に足り
なくなった薬を代金と引き換えに置いていく。
 おやご苦労さんと声をかけられて茶を貰うこともあれば、今はまだ必要ないよと言われることもあ
る。後者の場合は、ああそれじゃあまた今度と、手をひらりと振るだけだ。リショウは必要以上に食
い下がったりはしない。薬がなくて困ったら、その時はいらないと言った者の責任だ。
 ただ、いらないと断った者の顔は覚えておいたほうがいい。別に含むところがあるわけではない。
もしかしたらその者が血相変えて診療所に飛び込んでくることがあるかもしれない。だから何の薬を
断ったのか覚えておけば、その時が来た時に慌てずに済む。
 これは原庵から聞いた言葉ではない。リショウが自分の考えのもとに行っている事だ。その考えは、
原庵にもグエンにも伝えてはいない。
 遥か遠くで血の繋がりのある、久寿玉師にだけは話したことがある。久寿玉師は、リショウの言葉
に一つ頷いた。肯定でも否定でもなく、リショウの考えはよく分かったという意味で頷いたのだ。判
じられはしなかったが、己の考えを理解してくれる人間がいるということは、リショウに少しばかり
の安心を齎した。
 瀬津をぐるりと回った最後に、港の漁師町にいるウオミのところに辿り着いた。ウオミの家は民宿
と大衆食堂を営んでいるが、大衆食堂の客層は漁師が多い。血の気の多い男達は酒を飲んで盛り上が
ると、どうしても手が出てしまう。だから傷薬の減りが早く、リショウが薬を持って回る回数も増え
るのだった。
 宿に着くとウオミなら生簀のほうに行ったと言われた。それなら薬だけは置いていくと言って、ふ
らふらと戻ってきたのだが、遠目に船に乗ったウオミが見えたので、手を振って声をかけた。
 すると、振り向いたのは船に乗っているためにふらふら動くウオミだけではなく、桟橋でウオミを
取り囲んでいた女と男も一緒になってリショウのほうを見た。振り返った男女を見て、リショウはぎ
ょっとしてしまった。
 ぎょっとしたのは、見ず知らずの男女にこちらを見られたからではない。
 男の顔を、リショウが確かに良く知っていたからだ。
 ザイジュ。
『李翔』に付き従う五つの氏族のうちの一つ、ザイ家から、リショウの為に輩出された若者だ。年の
頃はリショウよりも二つ上だが、リショウよりも頭一つ分小さい上に、動きがどうも子犬くさいので、
リショウよりも年下と見られがちである。
 だが、その身に纏う筋肉は、リショウよりも圧倒的に多い。
 子供の頃から野山を駆け巡り、木から木へと飛び移るように遊んでいたというザイジュは、むしろ
子犬よりも子猿と言ったほうが正しい。そんな幼少時代を送ったせいか、ザイジュの身のこなしは軽
やかで、その軽やかさを保つための引き締まった筋肉が全身を覆っている。
 グエンのグ家が代々法律を司りリショウを支えてきたように、ザイ家もリショウの幼少の頃から小
姓として付き従うという務めがある。だが、先程も言ったようにザイジュは野山を駆け回るのが好き
子供で、リショウとはあまり気が合わなかった。リショウはこう見えても、読書家だったので、むし
ろ幸か不幸かグエンのところで立法書やらを読んでいることが多かったのだ。
 だから、リショウが『李翔』として故郷を離れた時にザイジュがついてきた時は、グエンがついて
きた時とはまた別の意味で驚いたものだ。子供の頃から特に親しんだわけでもないのに何故ついてく
るのか、と。
 もしもただ掟に従ってというだけの理由ならば帰れ、と言った時、ザイジュは今にも泣きだしそう
な顔をして、迷子の子犬のような風情でついてきたのだ。
 尤も、瀬津の郷に来る時に、間違いなく乗る船を間違えるという失敗を仕出かして、リショウから
離れたのだが。そしてそれは、グエン以外の氏族にも言えることなのが、なんとも間の抜けた話であ
る。
 さて、今にも泣きだしそうな顔でリショウに付き従い、そして一時離れ離れになり、ようやく再び
主人に出会えたザイジュは、もしも尻尾があれば千切れて飛んでいくのではないかと思うくらい振り
回しているであろう表情で、薬箱を担いでいるリショウの後を追いかけてくる。そんなザイジュを、
リショウの頭と両肩の上から三匹の水守達が眺めている。
 よもや、今、見つかるとは思わなかった。
 見つからねばそれはそれで困るのだが、しかし二カ月経った今になってようやく見つかるとも思わ
なかった。これもヒルコ大神の御業であろうか。
 だが、やけに嬉しそうなザイジュを見てもリショウは嬉しくならない。離れて二カ月も経っていて、
今更、という思いと、へらへらしている暇があったらグエンに逢った時の言い訳の準備と説教喰らう
覚悟をしておけよ、という思うが入り乱れている。
 しかし、主君にようやく会えたザイジュは、リショウの心中など微塵も感じていないのか、そして
グエンの説教を喰らうという現実に思い至っていないのか――或いは眼を背けているのか――やはり
尻尾を振る犬の如く嬉しそうである。
「リショウ殿。リショウ殿は先程の娘が言っていた久寿玉師を御存じなのですね。」
 頭一つ分下がった場所から聞こえる朗らかな声に、リショウは小さく舌打ちしそうになった。そう
だった、リツセについての説明を、ザイジュにもしておかなくてはならない。五つの氏族がリショウ
の元に集う以上、遅かれ早かれ彼らにリツセについて話さねばならないことは分かっているが、しか
しそれ以前に息を呑む結果になりそうだ。
 リツセの顔を見た瞬間、ザイジュもリツセがリショウと同じ流れの血脈であることに気が付くだろ
う。その時投げかけられるであろう問いには、もはや誰も分からぬ神々の時代まで遡らなくてはなら
ないのだ。答えの真偽はこの際どうでも良い。リツセの顔に浮かぶ線が、答えは真であると告げてい
る。だが、その真より吐き出される人の琴線に、ザイジュもまた息を呑まねばなるまい。
 リショウの姉に似た、リツセの顔。グエンが確かに息を呑み、リショウが本当に『李翔』となるべ
き人を思い出す、その顔。ザイジュも中にも何かが去来するはずだ。
「そんなことよりも、ザイジュ。お前のその連れの方は?そっちの説明のほうが先だろ。」
 カタカタと薬箱を揺らしながら、リショウは無理やり話題を変える。
 ザイジュがいきなりのリショウの台詞に、奇妙さを感じなかったのはザイジュが少しばかり鈍いせ
いもあるだろうが、同時にリショウの台詞は尤もであるものだったからだ。
 ザイジュが瀬津の郷に辿り着くまで付き従っていた若い女は、この国の着物のことはよく分からぬ
リショウが見ても、上等と分かるそれだった。旅の疲れのせいか目の周りには薄らと隈ができ、髪も
解れていたが、それでも娘は美しかったし、美しくなるようにと丹念に育てられた跡が見え隠れして
いた。
 ああ、とザイジュは娘を見て、娘にリショウを紹介する。
「アカネ殿。こちらはリショウ殿。私が大陸よりお供した、私の生涯において、唯一の主君である方
です。」
 なんという紹介だ。何も知らない娘に、気が狂っていると思われても仕方のない紹介だ。
 リショウが思わず顔を引き攣らせそうになっている間にも、ザイジュは今度はリショウに娘を紹介
する。
「リショウ殿、こちらはアカネ殿です。瀬津郷に着くはずが、何故だか針間郷の明穂の港に辿り着い
て困っているところを助けていただきました。アカネ殿は針間郷の上弦という町から瀬津郷に向かわ
れているところだったのです。」
「つまり、お前を瀬津郷まで連れてきてくれた恩人ということだな。」
 大体分かってはいたが確定した以上、主君としては礼の述べておくのは当然だった。
「あーっと、アカネ殿。このたびは我が配下であるザイジュが世話になった。謹んで礼を述べさせて
いただく。本来ならば何らかの形で礼をすべきなのだが、生憎と我等も郷里を離れた身である故、先
立つものがない。非常に心苦しいが、貴女の捜している久寿玉師を紹介することを礼とさせていただ
きたい。」
 もはや何年ぶりに使ったかくらいの勢いである堅苦しい謝辞を述べる。背中にある薬箱がガタガタ
と煩いし、頭と両肩には白い水守がふんにゃりとした顔で乗っかっていて、主君としての威厳もへっ
たくれもないが、とにかく言わねば負けである。何に負けるのかは全く以て分からないが。
 リショウの形ばかりの主君ぶりに対して、アカネという名の娘は未だ眼に思いつめた色を残したま
ま、しかし美しい声音で答えた。
「いいえ、礼には及びません。わたくしこそザイジュ殿には良くしていただきました。世間のことな
ど何も知らぬ女が一人旅するなど無謀の極みでしたが、ザイジュ殿にいていただいたおかげで、無事
瀬津に辿り着く事ができました。ありがとうございます。」
 笠をとり、深々と頭を下げる娘は、きっとこうして誰かに頭を垂れることなど必要のない家柄であ
るに違いない。リショウとは異なり、口ずさむように麗しい謝辞を述べた事からも明らかだ。
 そして一方で、娘の発言が心底からであることも分かる。こんな柳のような娘が一人で旅をするな
ど、無謀極まりないことだ。ザイジュが護衛も兼ねて瀬津郷まで付き従ったのは、正しい判断だった
だろう。ザイジュが居なければ、今頃身包み剥されて何処かに売り飛ばされていてもおかしくない。
 気になるのは、何故そこまでして瀬津にやって来たのか、である。桟橋でウオミと何かを話してい
たようだったが、ウオミからは色よい言葉を貰えなかったようだ。代わりに久寿玉師であるリツセを
紹介した、となると、どうも現世からは離れた場所の話になってくる気がしてならない。
 ウオミは瀬津郷の人間で、リツセのことも良く知っている。むろん、久寿玉師のことも。
 久寿玉師は縁起物を作る。縁起物は神と人を繋ぐものだ。そこに、この切羽詰まった眼差しをした
娘を向かわせるということは、ウオミは深い事情を知らないまでも、これは人間の手には負えない代
物だと分かっているのではないか。
 腹の底で、リショウは渾身の舌打ちをしたくなった。しかし、それ以外に手がないと判じたウオミ
の気持ちも分かる。
 あの世とこの世の境が見え隠れする瀬津郷では、確かに神の加護を願うことができる。それを可能
にするのは、間違いなく縁起物を作れる者だった。
「ところでリショウ殿。その、頭と肩に乗せている珍奇なトカゲはなんですか?」
 なんの邪気もない声で、ザイジュが問う。
 ヒルコ大神の化身に対してなんと罰当たりな、と言いたくなる台詞だが、どうせもう数件行ったと
ころで、珍奇なトカゲの中でも最もふてぶてしい奴が罰を下すに違いない。ザイジュの頭の上にでは
なく、きっとリショウの顔面に。
「そんな無邪気なこと言ってられるのは、今のうちだぜ。」
 自嘲気味にザイジュに言うと、リショウは六連の小さく真っ白な久寿玉を看板代わりにした久寿玉
師の家を見た。その店先には、すらりと静かな影が伸びている。
 近づく気配に気が付いたのか、青い空を上に頂いた影は、ひらりとこちらを振り返った。遠い遠い
祖先の血が、巡り巡って浮き上がった、その顔。リショウにとっては圧倒的な安堵と、苛烈な覚悟を
思い出させずにはいられない。
 リショウの眼の動きを追いかけて、その影を見たザイジュの喉奥が、ひゅっとなるのをリショウは
聞き逃さなかった。