綺麗な柄の着物を着た娘が、たった一人だけの供を連れて港にやってきた。緑の黒髪は腰につくほ
どに長く、一目で良きところの娘であることが知れた。
 しかし、そんな娘が一人しか供を連れておらず、挙句その供というのが見たところまだ二十歳も過
ぎていないような若者となると、様々な憶測を生むというものだ。
 昼近くになった瀬津の港は、朝市の競りも終わっているとはいえ、再び沖に出ようとする漁師の船
や、商業を目的とした船が引っ切り無しに出はいりしていて、いつもながら賑やかで込み合っている。
 それほどまでに賑やかな空気の中であっても、この二人連れは目立った。ちらちらと視線を投げか
ける人々の眼には好奇心が孕んでいる。
 はて一体この二人はなんだろうか。姉弟というには二人の服装に差がありすぎるし、同じ理由で夫
婦とは思えない。娘のほうは高貴な方にも見えるけれども、なら男がお供だとしても、それにしたっ
て一人だけの供とはおかしい。もしや駆け落ちかしら、と人々は意味深に目配せし合う。
 そんな不躾なことを考えられているだなんて、娘のほうはこれっぽっちも思っていないのか、笠を
被った娘は脇目もふらず足早に港の中を歩いている。何かを探しているかのような眼差しだ。その後
ろを、柴犬を連想させる若者が付き従う。
 息を微かに切らせながら、きょろきょろと辺りを見回す娘は、しかし探すものが見つからないのか、
少し歩いてはまたあちこちを見回す。
 娘の様子を遠目に眺めていたウオミは、しかし自分自身も生簀の中に落とした籠の中から、民宿の
料理に使う魚や貝を引き上げる仕事が残っているので、そちらにばかり気を取られている暇はない。
さっさと視線を逸らすと、生簀に向かう為に自分の小舟の準備を始める。
 今日は天気も良いし、海の水も温かくなっているので生簀まで泳いで行ってもいいのだが、それを
すると後で着替えなくてはならないので面倒臭い。
 もやい綱を外し、船の上で座り込んでそれをくるくると丸めていると、手元に影が落ちた。うん、
と思って顔を上げるといつの間に近寄ってきたのか、先程の娘がこちらを見下ろしていた。
 なんだい、とこちらが問いかける前に、珊瑚のような唇が開いた。
「もしかして、これから泡ノ島に向かわれるのではありませんか?」
 鈴が鳴るような好い声だった。屈み込んだ娘の膝に添えられた白い手は、力仕事など知らぬかのよ
うに細く白い。何処からどう見ても、良いところの、もしかしたら武家の娘だろう。額の汗と、薄汚
れた足袋が、あまりにも娘にはそぐわない。
 何故こんな娘が、一人の供だけを連れてこんな場所にいるのか。誰もが思うであろう疑問。
 だが、ウオミの頭の中はその疑問よりも娘の言葉に奪われていた。
「泡ノ島?なんだってそんなところに。」
 瀬津郷は今、正にその島に祀られているアワシマ神の為のお祭りで湧いている。しかしそれ故に、
この時期泡ノ島に行くことはできない。
「言っとくけどこの船は泡ノ島には行かないよ。この船に限ったことじゃない。泡ノ島の周りの渦が
大きくなるこの時期は、誰もあの島には近づかないよ。」
「そんな。一つくらい島に行く船はないのですか?」
 何故か妙に必死な顔をして食い下がる娘に、しかしウオミは首を横に振った。
「あんたが、宮様に関係してる人間だって言うなら話は別だろうけど。」
 違うだろう。この娘は宮家には関係していない。仮に関係していたとしても、瀬津郷の宮様でなく
ては泡ノ島には近づけない。渦が大きくなり熟練の漁師でなければ近づけないというのもあるが、そ
れ以上に神事のこともあって、祭りの時期、泡ノ島に立ち入る事ができるのは瀬津の宮様だけだ。
 絶句してしまった娘を、柴犬のような小柄な若者が心配そうに見る。
「あの、少しでも近づくことはできないんですか?」
 娘の代わりに交渉しようとする若者に、ウオミは再び首を横に振った。
「駄目だね。」
 にべもなく言い切ると、眼に見えて二人は落胆した。娘などは今にも泣きだしそうに、綺麗な顔を
歪めている。
 さすがに気が咎めて、ウオミはこれから船を出そうとしていた手を止めて、巻いたばかりのもやい
綱を再びきつく結んで船から上がった。
「大体、なんだって泡ノ島に行こうだなんて思うんだい。確かに泡ノ島には子宝成就の神様がいるけ
ど、あんたみたいなお姫様が行くような場所じゃない。」
 泡ノ島はほぼ無人島だ。道も碌に整備されていない。それでも子供が欲しい女が向かう事はある。
 夫婦となったはいいが何年も子宝に恵まれぬという妻が、海を渡ってお参りに行く事もあるにはあ
る。だが、眼の前の娘はまだ若い。子宝が欲しいと行ってもそこまで急く必要はないように見えるの
だが。
「まあ、島にはどうしたって行けない。ただアワシマ様に関係する縁起物なら、この郷でも手に入る
さ。あんた、運が良いよ。この前あたしの知り合いの久寿玉師が、アワシマ神の加護を受けた久寿玉
を幾つか持ち帰ってたからね。」
 売ってもらえるものがあるか聞いてみたらどうだい。
 ウオミの言葉に、顔を歪めたまま娘は顔を上げる。眼に、藁にでも縋る人間の弱さが見え隠れして
いた。何かに追い詰められている。だから助けを求めてか、不穏な言葉を零してしまったのだろう。
「その、久寿玉師の方は、呪いについても詳しいのでしょうか?」
 呪い、と聞いてウオミの表情がひくりと動いた。
 呪いは瀬津郷には馴染みの深いものだ。ヒルコ大神が今もはっきりと坐す瀬津郷は、ヒルコ大神の
祝いと呪いがくっきりと染みついている。瀬津の者は、ヒルコ大神の心の琴線を生活の律として生き
ている。
 中でも、縁起物を作る久寿玉師は、呪いと祝いの狭間を歩いているようなものだ。
 しかし宮家のように神事を執り行う事はできない故に、呪いや祝いを祓うこともできない。普通は。
 だが、ウオミの知り合いの久寿玉師は。
 その時、おーい、と遠くから知った声がした。視線を泣き出しそうな娘の顔から、その肩ごしの風
景に移せば、桟橋の向こうでひらりひらりと振れる手があった。
 くるりとした癖の多い頭と、両肩、それぞれに一匹ずつ水守を乗せて、薬の担ぎ売りをしている青
年は、先頃大陸からやって来た。原庵のところに世話になっている彼が、最近こうして薬を担いで、
瀬津郷を歩き回っていることはウオミも知っている。
 そう言えばウオミの営んでいる民宿に常備していた薬が、そろそろ切れる頃合いだった。だから、
やって来たのだろう。
 人懐っこく笑みを浮かべながらやって来る青年の気配に気が付いたのか、娘も振り返る。それに伴
って娘のお供も。
 途端に、呑気な足取りで桟橋を渡っていた青年の脚が、何か透明な壁にでもぶつかったかのように
ぴたりと止まった。そこだけ時間が止まったようだ、と思っていたら、よくよく見ればウオミの近く
でも時間が止まった場所がある。娘のお供らしき若者である。こちらも、振り返ったまま、こちりと
止まっている。
 ウオミが首を傾げようとしている直前、
「あーーーーーっ!」
 先に声を上げたのは、果たしてどちらだったか。
 薬を担ぎ売りしている青年と、娘の供をしている若者が、互いで互いを指差し、素っ頓狂な声を上
げたのだ。
 と、見る間に、担いでいる薬と水守を投げ出しそうな勢いで、青年が韋駄天の如く駆け寄ってきた。
「お前えぇぇええ!ザイジュぅううう!」
 もはや何を言っているのかも分からない咆哮を放った後、ばしん、と娘の横で未だ動けない若者を、
張り飛ばした。
「あう。」
 若者は小さく声を上げ、少しよろめいた。ウオミは若者が海に落ちるのではないかと身構えたが、
若者はすぐに脚を踏み締める。小柄ながらも、身体は相当に鍛えているのか、踏み締めた脚がばねの
ようであることにウオミは気が付いた。
 若者は自分よりも高い位置にある青年の顔に、顎を屈と持ち上げて視線を真っ直ぐと向ける。
「リショウ殿、捜しました。」
 はきはきとした声だった。ふと、何処かで兵卒として生きていたのではないかと思うほど、すっと
背が伸びて、きびきびとした動きだった。
 それを前にしたリショウは、
「捜したのはこっちだ、馬鹿野郎!」
 水守達が逃げ出すほどの怒鳴り声だった。
「一体何処をほっつき歩いてやがったんだ。俺達は二カ月くらい前に瀬津の港で待ち合わせをしたん
じゃなかったか。」
「はぁ、それが乗る船を間違えてしまいまして。」
 きりっとしていた若者の顔が、捨てられた子犬のような困ったような顔になる。若者の言葉を聞い
たリショウは、やっぱりか、と頭を抱えた。
「ってことは、他の奴も船を間違えたんだろうなぁ………。」
「え、まさか誰もリショウ殿の傍にいないのですか?なんてことだ……。」
「グエンがいる。それになんてことだも何も、お前も傍にいなかっただろ。」
「あ、グエン殿がいらっしゃるなら何も問題ありませんね。」
「グエンしかいないことに問題を感じないのか、お前は。」
 リショウは大きく溜め息を吐くと、ウオミに向き直った。どうやらウオミのことを忘れていたわけ
ではないらしい。それと同時に逃げていた水守達が、リショウの身体によじ登り始める。
「ウオミ、こいつは俺の連れの一人で、ザイジュだ。」
「申し遅れました。私はリショウ殿にお仕えしているザイジュというものです。以後お見知りおきを。」
 懇切丁寧に礼を取った若者に、ウオミは、はいそうですかと言うしかない。
 リショウはといえば、ウオミとザイジュから視線を外して、忘れ去られたままの娘を見ている。い
や、こうして見ているところをみれば、忘れていたわけではないのか。
「で、ザイジュ、この人がお前の新しい主人か?」
 しれ、と言うリショウに、ザイジュが眼を剥いた。それは娘のほうも同じで、突然のリショウの言
葉に眼を丸くしている。
 当たり前だ。いきなりこれがお前の主人か、とは。
 驚く中に、ウオミはおや、リショウの言葉の奇妙さに気づく。
 ザイジュと娘を見た時に、ザイジュに対してこれがお前の妻か、と聞くのは分かるが、これがお前
の主人か、とはどういうことだろう。それも新しい主人か、とは。そもそもザイジュは、リショウが
主君であると言ったばかりではないか。
「何を言うんですか!私の主君はリショウ殿です!この方は、道に迷っていた私を助けて、瀬津にま
で連れてきてくださったんです!」
 きゃんきゃんと吠える子犬のように、むきになって言うザイジュによって、ウオミの疑問は遮られ
た。そう、ザイジュの主人はリショウである。しかしならばリショウは何故あんなことを言ったのか。
 だが、ザイジュの言葉はそこまでの疑念については言及されるものではなかった。リショウこそザ
イジュの主君であるという事実を、明らかにしただけだ。それとも、ザイジュはリショウの言葉の真
意を既に分かっているからこそ、それ以上言及しなかったのか。
 ウオミの感じた、リショウの言葉に対するは不自然さは拭えない。
 奇妙さを生み出した張本人であるリショウはといえば、ふうんと気のなさそうな声でザイジュの言
葉に頷いている。あまりにも気の抜けたリショウの様子に、ザイジュは本当ですからね、と何度も念
を押している。
 二人を見比べながら、頭に引っかかった奇妙さを拭い去ることができぬまま、ウオミは再び場の雰
囲気に忘れ去られそうな娘を、彼らの前に突き出した。面倒なのでリショウに押し付けることにした
のだ。
「リショウ、あんたどうせリツセのところに行くんだろ?なら都合がいい。この子、リツセのとこに
連れてってやっておくれ。」
 あたしは今から生簀に行かないといけないんでね。
 リショウの返事を待たず、ウオミはもやい綱を再び外すと、素早く船を漕いで桟橋から離れた。リ
ショウが何か叫んでいるようだが、ウオミにはもう聞こえない。ウオミの耳には、リツセの声に似た
波音が深く揺蕩っていた。
 静かな音を聞きながら、ようやくウオミは心の何処かに引っかかっていた奇妙なしこりが流されて
いくのを感じた。