初夏の風が吹く中、遠くの海に幾つもの船が浮かんでいるのが見えた。色とりどりの旗や吹き流し
を掲げた船は、これから淡ノ島へ向かおうと言うのだ。
 今日は祭りだ。
 アワシマ神を祭るこの日、これまで閉ざされていた淡ノ島への航路が開かれ、人々の願いが込めら
れた奉納品でいっぱいになった船が、淡ノ島のアワシマ神の社へと向かうのだ。
 この日は淡ノ島の周りで口を開いている渦はいつも以上に大きくなり、熟練の漕ぎ手でなければ船
を持っていかれてしまう。だから、今、沖合に見えている船を漕いでいるのは、皆が何十年も船に乗
ってきた船乗り達だ。
 もしかしたら、あの中にはワタヒコもいるのかもしれない。リツセが言うには、あの船の中には宮
様も乗っているらしいから、宮家と関わり合いが深いワタヒコも、老いているとはいえ船を出すかも
しれなかった。
 漁師街の茶屋で、のんびりと海を見ながら、リショウはそんなことを思う。
 行き交う漁師達や、リショウと同じように船を眺める人々の口からは、晴れて良かったという言葉
が零れている。 
 正直なところ、リショウが想像していたよりもアワシマの祭りは大きくない。人々も仕事の手を止
めたりしないし、出店もない。そもそも社が淡ノ島にあるからかもしれないが、随分と寂しくこじん
まりとしていた。
「出店は、夜になってからだよ。」 
 一緒に茶屋に来ていたリツセが、苦笑気味にそう告げる。だが、それでもやはり多くはないけれど、
と付け足された。
「えらくしけた祭りだな。この一ヶ月間参拝客も淡ノ島に連れていかないくらいだから、もっと盛大
にするのかと思ってた。」
 アカネがウオミに淡ノ島行きの船を断られていたのを思い出し、リショウは顔を顰めた。
 アカネは、もう瀬津郷にはいない。サエキヒコと一緒に国に帰ったのだ。
 あの、何も産まない不毛の出産の後、アカネは体力が戻るまで瀬津郷にいた。その間、サエキヒコ
と色々と話をしたようだ。その内容の詳しくを、リショウもリツセも知らない。二人で決めることだ。
リショウは話せるだけのことは話た。もう、余人に口出しできることはない。
 結論として、彼らは国に帰った。呪い渦巻く家に戻った彼らの結末は、きっと彼らの祖先と変わら
ないだろう。アカネは不毛の子供を産み続け、サエキヒコは近い将来に死ぬのだ。 
 呪いは消えてはいない。
 二人ともそのことを理解した上で、国に帰ることを決めたのだ。ならばもはや、関係のない瀬津郷
の住人が口出しすべきことはない。 
 ただ、せめてアワシマの祭りが終わるまで留まれば、とは言った。アカネの体力は確かに戻ったが、
けれどもこれから呪いの家で暮らすには、もう少し時間が必要ではないかと思ったのだ。 
 だが決意が変わらぬうちに、と二人は瀬津を立った。
「来月の、御輿屋祭は大きいお祭りだよ。」 
 リツセが、足元にいるたまを眺めながら言う。たまは、もりもりと羊羹を丸々一本食べていた。そ
の横では三匹の小さな水守が、こちらは仲良く一本の羊羹を三等分して食べている。リショウが、た
まと約束した『甘い物』である。
「御輿屋祭?」 
「ヒルコ大神が、瀬津にいらっしゃった日をお祭りする日だよ。来月は夏越大祓もあるから、忙しく
なる。」
「要するに、また祭りがあるわけだな。」
 毎月何かを祝ってないか、お前達。
 前々からずっと思っていたことを、口にするとリツセは小さく笑った。
「アカネ殿達も、来月まで待てば良かったのに。」
 リツセの笑んだ口元から、ほろりと言葉が零れる。彼女もまた、あの二人のことを思い出していた
のだ。
「でも、このまま此処にいたって、呪いが解けるわけでもないだろ。」 
「それは分からない。あの二人があのまま瀬津郷にいて、そのうちにヒルコ大神が眼をかけてくださ
れば、或いは。とは思うけれど、あの二人が針間郷の武家である以上それは難しいね。」 
 彼らの血が、瀬津郷に居続けることを許さない。
「面倒な話だな。」
「全くね。」 
 相槌を打ち合いながら、けれども自分達も血に縛られていることに変わりはないことを、ふと思い
出す。
 リショウは一族を離れたが、どれだけ離れようとも一族の長であることを忘れぬように五人の氏族
が付いてくる。如何に締め付けが弱くとも、リショウの中には、その血が流れ続けている。 
 一方でリツセは、父親の代で宮家を離れたと言っても、宮家の血を継いでいることは余人に知れ渡
っている。どれだけリツセが市井に埋没しても、皆がそこに宮家の威光を見出す。
 本当に。
「………面倒な話だな。」
 呟いて、リショウは皿の上にあった団子に手を伸ばす。すると、足元で羊羹を貪っていたたまと眼
が合った。まだ羊羹を食べ終えていないのに、その団子を此方に寄越せという顔をしている。なんと
いう貪欲さ。
 無視して団子を口に放り込めば、きぃ、と抗議の声が上がった。お前は羊羹を食っていれば宜しい。
「そういえば。」
 足元にいるたまに、自分の分の団子を差し出しながら、リツセが言った。リショウは、そんなに甘
やかさなくていいのに太るぞこいつ、と思いながら、先を促す。
「男児殺しの呪いだけれども、あれは随身の呪いの前からあったものじゃないかと思うんだ。」 
「俺もそう思う。」 
「ああ、貴方も気づいてたのか。」 
 リツセの言葉に、リショウは少しだけげっそりとした顔で頷いた。ワタヒコの話を聞いた時に、気
が付いた。
「ワタヒコ殿が言ってただろ。中々男が産まれない家系だったらしいって。だからアワシマ神を拝み
にきたって。」 
 何故男が産まれにくいのかは分からないが、それは呪いと言うよりも、やはりそういう家系だから
と言うしかない。そこに、随身の呪いが重なった所為で、ややこしくなったのだ。その上に、カゴメ
なんていうわけのわからないものまで。
   複雑に絡み過ぎて、もはや神々も呆れ果てて手を出さなかったのではないだろうか。
「なあ、リツセ。」
 リショウは、気になっていたことを聞いてみる。
「お前は、子持ち久寿玉がカゴメと関係あるんじゃないかって言ってたけど、あれってどういう意味
だったんだ?子持ち久寿玉を使って、誰かがカゴメの呪いをかけたってことか?」
 奥方が気に入って手放そうとしなかった、美しい久寿玉。それがカゴメの呪いの形代なのだとした
ら。けれども針間郷に、久寿玉の意味を知る者はいただろうか。それが子を孕んだ女であることを示
していると、知っている者がいただろうか。ならば、久寿玉を使ってカゴメの呪いをかけたのは、針
間郷の、武家の者ではなくて。
「リショウ。」 
 リツセが沖を見ながら、答えた。
「アカネ殿の、流れてしまった子供だけれども。あの子供がどうなったのか、まだ言ってなかった。」
「うん?弔ったんだろ?俺は見てないけど。」 
「いや………。」 
 リツセの眼は、リショウを珍しく見なかった。
「弔うには弔ったけれども、身体は残ってなかった。」 
「は?」 
「流れ出た瞬間、解けて消えてしまったんだ。」 
 まるで、組まれていた久寿玉が解けてばらばらになるように、そしてそのまま崩れ去ってしまった。
 つまり、それは。」
「あの子供は、きっと、子持ち久寿玉の中に入っていた、小さい久寿玉のほうだよ。」 
 もしもあの時、奥方が気に入って持ち去った久寿玉が、眼の前にあったなら。小さい久寿玉は、そ
こにはなかったんじゃなかろうか。そしてアカネの出産が終わったら、元の位置に戻っていたんじゃ
ないだろうか。 
 全ては推測でしかないが。
 そして、その呪いを形作ったのは。
「あれは、瀬津郷の呪いだ。」
 男児殺しの呪いではなく、男児殺しの呪いを攪乱する為の呪い。
 では、その呪いをかけたのは。
「ワタヒコ殿が、随身の妻を世話したのは宮家だと言った。その時に、宮家が彼女の身を守るために、
そういう呪いをかけたのかもしれない。」 
 真実を知ってしまった随身の妻の家系を、男児殺しの呪いを回避する唯一の手段として、武家が下
手に手が出せないように。
「憶測だ。」
「そう。」
 今となっては分からない。ワタヒコの話からは全てを知る事はできず、サエキヒコとアカネも事実
の下流にいる。
 もしかしたら。
 リショウはちらりと、遠くに聳え立つ朱色の鳥居を見やる。あの鳥居の向こう側、宮家の領域に入
れば、何か分かるかもしれない。リショウを襲ってでも隠したかった事実が、未だに淀んでいるのか
もしれない。
 だが、リショウは宮家の中に踏み込むつもりはない。今回リショウが立ち回ったのも、元々は宮家
に関わらぬためだ。
 羊羹と団子を食べ終えて膝によじ登ってきたたまを、ゆっくりと撫でているリツセの横顔を眺める。
リツセの表情からは何も読み取れない。自分の、何代か前の宮様が、呪いをかけていたことについて
どう思っているのか。何も分からない。
 だが、リツセには関係のない、昔のことでもあるのだから、思ったところでどうにもならないこと
も事実。
 リショウはそれ以上は考えることを止めにした。
「ところで、来月も祭りがあるってことは、また忙しくなるのか?」
「うん。何せヒルコ大神がこの郷にいらしたことをお祝いする祭りだからね。久寿玉も立派なものを
作らないと。」
「………俺はお前が暇をしているところを見たことがない。」
「今は一応暇だけれども。」
 明日になれば忙しくなる。
「祭りの終わりが仕事の始まり、か。」
「祭りの時が一番暇かな。」
「世間ずれしてるな。」
 この日ばかりは、宮様はおろか、神様でも忙しいだろうに。
「原庵先生なんかは、いつだって忙しいだろう?」
「そりゃあ、医者だからな。祭りも何も関係ないだろ。」
「今回のことで、色々お世話になったから、もしも次回久寿玉が入用な時は、格安で請け合うと伝え
といて。」
「ああ、そういえば、また久寿玉を頼まないととか言っていた。来月のことだったのか。」
 来月。
 ヒルコ大神が御輿になる。
 その時までアカネとサエキヒコがいたなら、その日の久寿玉を持ち帰ったなら。何重にもかけられ
た呪いは解けただろうか。カゴメは解け、憎しみも薄れただろうか。
 わからない。
 それに、解けたところで、サエキヒコの家系には男児が産まれにくいという結末が残るだけだ。
 そうなれば結局は、また、誰かが呪いに手を出すかもしれない。
「……考えても仕方ねぇけどな。」
「……そう。」
 小さな呟きだったが、リツセから微かな同意が返ってきた。リツセもまた、心のどこかにあの二人
が楔となって打ち込まれているのだ。
 これもまた、一つの呪いになるのだろうか。
 沖合で小さくなっていく船を眺めながら、リショウは思う。
 呪いに関わった事で、決して抜けない棘のように心にしこりとなって残るこれは、やはり呪いに近
しいのではないか。じわりと広がっていく、病のような、呪い。
 来月。ヒルコ大神が御輿になる来月、せめてこの呪いだけでも、薄れたなら良い。
 これからもきっと消えないであろう針間郷の呪いと、近い将来に訪れるあの二人の死を考えれば、
この呪いも、そうやすやすと解けることはないだろうけれど。
 黙り込んだ人間達を他所に、呪いなど微塵も気にしていない水守が、リツセの膝の上で大きく欠伸
をした。