真夜中、呻き声ばかりが支配するお産が終わった。当然のことながら、産声や寒気の声は何処にも
ない。死ぬことが最初から定められていた赤ん坊の出産に、そんなものあろうはずもない。 
 雨のせいでいつもよりも日が暮れるのが早く感じたからか、リショウは一晩中起きていたような気
分になっている。だが、実際にはまだ丑三つ時にも達していない。
 しかし、あまりにも通常のお産からはかけ離れていたからだろうか。リツセが言ったよりも全てが
終わるには時間がかかった。
 リツセはアカネの傍で、徒労だけの出産に立ち会っていたが、男であるリショウはむろんその場に
立ち会うことができない。だから、アカネの呻き声だけが聞こえる廊下で、じっと佇んでいた。
 三人の部下は、サエキヒコが暴れた後の片付けや、長屋に置き去りにされたサエキヒコの様子を見
に行ったりと、それなりに忙しくしているらしい。一度グエンが覗きに来たっきりで、それ以降は誰
もやって来ない。
 じりじりと待って、夜が更けた頃になって、唐突にアカネの呻き声が途絶えた。思えば、それが出
産の時だったのだろう。子供は死んでいるのだから、産声がないのは当然だ。だが、何も分からぬリ
ショウは、一瞬アカネが死んでしまったのかと思った。それが否定されたのは、アカネの呻き声が止
んでしばらくした後、部屋からリツセが出てきた時だった。
 いつものようにひっそりと静かに出てきたリツセを見て、廊下に座り込んでいたリショウは立ち上
がった。リショウの動きに気が付いたリツセが、ちらりとこちらを見やり、
「子供は流れてしまったよ。」
 とだけ言った。それは、既に予想がついていた事だった。
「アカネ殿は?」
「今のところは無事だけれど、体力が落ちている。しばらくは原庵先生が付き添うそうだ。」
 まだ出てこない老医師は、この奇妙な事態を何と思っているのか。
 閉ざされた扉を見つめるリショウの横を、リツセは無言で通り過ぎていく。その足元に、お産の最
中は何処にも姿が見えなかった水守が、ふらりと寄り添った。
「どうするんだ?」
 立ち去ろうとしているリツセの背中に問えば、ひたりと足が止まる。首だけを捻ってリショウを振
り返ったリツセは、
「帰る。」
 そう言い置いた。
「待て。」
 再び歩き出そうとする背を、慌てて引き止める。夜はもう更けている。この時間帯を、女一人が歩
くのは――たまが一緒とはいえ――危険だ。送っていく、と言いかけたリショウを、リツセの静かな
声が制した。
「貴方はサエキヒコ殿に顛末を話さないといけないだろう?」
 結局、此処にはやって来なかった男。雨降る長屋に置き去りにしたサエキヒコには、確かに子供が
流れたことを、分かっていることとはいえ伝えなくてはならないだろう。
 だが、サエキヒコにそこまでしてやる義理が、リショウにあるのか。正直なところ、サエキヒコと
リツセのどちらかの元に走れと言われたなら、リショウの天秤はあっさりとリツセに傾くのだが。
 ところが当のリツセはリショウの天秤に乗るつもりはないのか、たまを引き連れて、さくさくと歩
いている。たまもリショウを振り返ったりしない。おそらく、たまが振り返る時はリショウの顔面に
飛び掛かる時だ。
 リツセとたまの二人――正確には一人と一匹から、サエキヒコのところに行けと言われ、リショウ
はぐうと唸る。唸ってから、叫んだ。
「ザイジュ、ヨドウ!」
 忠臣二人の名を呼ぶと、彼らは押っ取り刀で駆けつけてきた。やって来た二人に、リショウは命じ
る。
「リツセが帰る。送ってやれ。」
「はっ!」
 忠実な部下は、何の疑問も呈さずに返事をし、さくさくと歩いているリツセの後を追いかける。ザ
イジュとヨドウがリツセに追いついたあたりで、足元にいたたまがリツセの身体をよじ登り始めた。
それに気が付いたリツセが、よじ登りかけているたまを抱き上げる。
 たまを抱き上げる時に一瞬立ち止まったリツセが、抱き上げ様に言った。
「リショウ、おやすみ。」
「ああ、おやすみ。」
 今からのことを考えれば、ゆっくりと眠れるはずもなかろうが。それでも一日の別れの言葉を互い
に投げかけ、背を向け合った。
 リツセとは別方向に足を向け、長屋へと歩を進めたリショウは、いつの間にか雨が止んでいること
に気が付いた。診療所から長屋に通じる道は、水浸しで空はまだ曇っているのか星も月も見えなかっ
たが、雨の匂いは遠ざかっている。
 雨音が何処にもないことに、リショウは安堵した。忠臣二人がリツセに傘は持たせてくれただろう
が、しかし帰り道に雨が降っていないに越したことはない。
 そういえばリツセは、長屋にアカネの容態を告げに来た時、雨に降りこめられていた。そのままの
状態で出産に立ち会ったのだが、身体が冷えたりはしていないだろうか。その時に気づかなかった自
分の迂闊さを責めながら、リショウは昏い長屋の扉を開いた。
 雨で湿気て中々動ない戸を無理やり開くと、そこには一点の光もない闇が広がっていた。明かりの
ない部屋の中、一際濃い闇が、サエキヒコだろう。
 リショウは明かりをつけようかと行燈のある方向を見て眼を瞬かせたが、陰鬱な気配を醸し出して
いるサエキヒコを感じ取り、止めた。代わりに闇の中を見据えて、眼が闇に馴染むのを待つ。
「逃げなかったんだな。」
 リショウは長屋の一室で動かなかったサエキヒコに、開口一番そう言った。
 サエキヒコがこの状況に耐えられずに逃げるかどうか、正直言ってリショウには分からなかった。
結果として彼は逃げ出さなかった。その代わり、アカネの元にやって来なかったが。
「子供は流れたよ。」
 あんたの言った通りに。
 リショウは、抑揚を欠いた声で言った。実際のところ、リショウは流れた子供を見たわけでもなく、
ただ延々続くアカネの呻き声を聞いていただけだった、だから、今一つ現実感がない。なんらかの感
情を込めようにも、どう言えばいいのか分からなかった。
 だが、サエキヒコは違ったらしい。好いた女の出産に思うところがあったのか、リショウの声に非
難の色を嗅ぎ取ったらしい。
「私に何ができると言うのだ。」
 サエキヒコの声だったが、まるで闇が喋ったかのように、籠っていた。それとも、呪いの果てに生
きる武家の跡継ぎの本性は、実はこのような闇だったとでも言うのか。
「アカネの元に行ったところで、産屋に入れるわけもない。そもそも流れて死ぬだけの子供だ。私に
は子供の命を拾い上げることなどできない。そしてその子供は、呪いの形代であるが故に、弔うこと
も国許ではできない。」
 そもそも、誰の子供でもないのだから。
「そしてそんな子供を産む女になってしまったアカネに、私はなんと言えば良いのか。どんな顔をす
れば良いのか。国許ではそんなことは当然のことであって、誰も疑問に思わなかった。」
 呪いをかけた末裔に、呪いの形代を産ませる事は、当然である、と。サエキヒコはそう言われ続け
てきたのだ。その当然のことを成したアカネに、対して、いつもと変わらず接するのが普通なのだ。
 完全に、ずれている。
 リショウは、サエキヒコの血脈に、今さらながら不気味さを覚えた。だがそれ以上に、頭の奥から
熱を放つほどの憤りが、ふつふつと沸き上がっている。
 その熱に、闇が気が付いたのか。
「リショウ殿が、私に対して憤りを覚えるのは分かる。私も、私の家の狂いに気がついている。だが、
国に帰ればそれが普通だ。そして。」
 闇が、震えた。 
「もしかしたら、私もまた、父と同じふうに考えるのではないか、と。」
 サエキヒコがアカネを好かなかったら、サエキヒコもまたそう思い続けて、短い生を終えたのかも
しれない。
 闇の中から迸ったのは、激しい怯えだった。人が人でなくなることを恐れる、理性のあるものが最
も恐れることへの、怯えだった。
 リショウは眼を瞬かせる。闇になれた眼は、そこに先程と同じ姿勢で固まったサエキヒコの姿を見
出した。
「あのな、俺にはあんたの国のことはよく分からない。あんたがアカネ殿を好かなかったらっていう
場合の話も、想像できない。ただな、はっきり言ってやると、ここはあんたの国許じゃねえし、あん
たはアカネ殿のことを好いてるんだろう?だったら、別に悩む必要はないんじゃないのか?」
 サエキヒコの国許では普通だと見做されていることは、瀬津郷では人でなしなことなのだ。流れた
赤ん坊を誰の子でもないと言って弔わぬことも、その子を産んだ女を当然のことをしただけと言って
放置することも。
 サエキヒコもそれが異常だと気が付いていて、しかもカゴメであるアカネを好いているのならば、
何をしたら良いのか――何をしたいのかなど一目瞭然だろう。
 此処は瀬津郷だ。
 ヒルコ大神の坐す、瀬津郷だ。
 今なお、人々の中に混じって人々を見ていると謳われる、幸の神の郷だ。
 呪い渦巻くサエキヒコの故郷ではない。
 サエキヒコの成すべきことが、成したいことが、ヒルコ大神の意に沿うものであるならば、誰にも
文句は言えないだろう。その血の中に渦巻く呪いであっても。
「言ったはずだぜ。好きにしろって。」
 サエキヒコが動いた。闇を部屋の中に置き去りにして、戸の前に立つリショウの横を通り過ぎ、駆
けていく。アカネ、アカネ、とまるで幼子のように声を上げながら。
 リショウは、サエキヒコが診療所へと遠ざかる音を聞きながら、振り返りはしなかった。代わりに、
部屋の中に蟠っている闇を睨み据える。
 呪いは、未だ断ち切れていない。それどころか、サエキヒコの血の中に、狂いとして根づいている。
だが、サエキヒコは狂いに対して反抗してみせた。瀬津郷にいたから、国許から離れていたから、で
きたことかもしれないが、それでも。
 リショウは、蟠る闇が呪いの凝りでもあるかのように睨みつけ、吐き捨てた。
「ざまあみろ。」
 俺と、リツセを巻き込むのが悪い。