一瞬、何を言われたのか理解できなかった。ちょうど、アカネが懐妊している話をしていた所為も
あるかもしれない。関係のある話が横合いから飛んできて、しかもその内容が予想を超えるものだっ
たから、リショウは絶句した。
「………産気づくには、早すぎると思うが。」
 呆気に取られたリショウの代わりに問うたのは、リショウとリツセの間に立つグエンだった。その
場にいた誰もが思ったであろうことを、代弁する。アカネの腹はまだ膨れていないし、先程も言った
ように子を孕んでから二カ月ほどしか経っていないだろう。その時期に産気づくなど、聞いたことが
ない。
 グエンの質問は尤もだとリツセも思っていたのか、リツセはただ頷いた。
「けれども実際に産気づいている。原庵先生も困惑している。もちろん、お産の準備は始めているけ
れども。」
 激しく地面を叩く雨の向こう側の診療所では、ますます忙しない人の動きがあるのだろう。驟雨の
音に掻き消されて、人々の喧噪は聞こえないが。
「何かの、間違いじゃないのか。」
 リツセの肩越しに見える、白い水煙を見ながらリショウは言った。産気づいている、というのが、
実は別の症状なのではないか、と思ったのだ。
「それはあるかもしれない。」
 リツセは、もう一度頷く。
「でも、ある程度の心構えはしておかないと、何かあった時に対処できない。」
 それはそうだ。孕んで二月後に出産など、通常では考えられないのだから。大体、二月で生まれた
赤ん坊というのが、実際にどういうものなのか、リショウには想像が出来ない。腹も膨らんでいない
のだ。どれだけ小さいと、そもそも人の形をしているのか。そしてそんな赤ん坊を産んだ女は、無事
に生きられるのだろうか。産まれた赤ん坊も、生きていけるのか。
 そう考えると、産気づいたというのは全くの間違いで、別の何かをそう勘違いしていると考えたほ
うが、ひどく安心だった。
 だが、リツセの言葉を中腰で聞いていたサエキヒコが、能面のような顔をしたまま、呟いた。
「やはり、カゴメだ………。」
 つい先程、口にした言葉を、もう一度口走る。リショウ達では分からぬ言葉。眉を顰めていると、
サエキヒコは中腰だった姿勢から、へなへなと崩れ落ちた。眼も、リショウを睨んでいた時のものか
らずっと弱々しく光り、むしろ虚ろとさえ言っていい。
「おい、カゴメっていうのは何なんだ。」
 一気に気が抜けた風体のサエキヒコに近づき、その胸倉を掴んで引き立たせる。乱暴だとは思った
が、しかしどうも腑抜けた態に陥った若者には、それくらいがちょうど良い。
「あんたの家系にかけられてる呪いと何か関係あるのか?アカネ殿の懐妊も、あんたの呪いと関係が
あるのか?」
 胸倉を掴んで引き立たせたサエキヒコを見下ろす。サエキヒコは、咄嗟にリショウから目を逸らし
た。その反応に、リショウは苛立つ。自分の許嫁の具合が悪い時に、今更何を黙り込んでいるのか。
「あんたの家系の呪いは、淡ノ島で殺された随身が原因なんだろう?それが、アカネ殿の腹の中にい
る、父親が分からない子供が関係してるのか、それとカゴメっていうのと何の関係があるのかって聞
いてるんだ。」
「カゴメと言うのは、」
 雨を背中に、リツセがひっそりと呟く。答えないサエキヒコに代わって、リツセが呟く。
「言葉通り、籠の目のことだよ、リショウ。」
 男ばかりがいる部屋の中に、リツセは入ってこない。その背中は、雨で濡れているだろうに、リツ
セはそのままの場所で語る。
「編まれた籠の目。だから籠目という。もしもアカネ殿の呪いとその言葉が関係してるのならば、そ
してそこのお武家様の家系が、随身殺しのお武家様の家系と同じものならば、カゴメは、きっと随身
を殺した奥方が淡ノ島から持ち帰った久寿玉と、関わりがあるかもしれない。」
 籠のような久寿玉と、その中にある小さな久寿玉。それを妊婦の身体に見立てて子持ち久寿玉とい
う。
 子宝を願ってアワシマ神に捧げる久寿玉。無事なお産を願って飾られる久寿玉。籠のような久寿玉
の中は、赤ん坊に見立てられた小さな久寿玉と、人々の願いを孕んでいる。
「おい、そうなのか?」
 黙ったままのサエキヒコに、リショウはもはや苛立ちを隠さない。いっそ、サエキヒコをこの大雨
の中に投げ飛ばしてやろうかと思うほどだ。
 その時、さっとグエンが動いた。リツセの身体を入れ替わるように、驟雨の中に出たのだ。
そして部屋の中に背を向けたまま、他の氏族に命じる。
「ヨドウ、ザイジュ、診療所に行くぞ。この騒ぎで、おそらく片づけは終わっていないだろうからな。
そちらの手伝いに行く。」
 躊躇いもなく白く滲む雨の中へ出ていく忠臣の後を、残りの二人も無言で追いかけていく。彼らは、
リツセを代わりに部屋の中に置いていき、その背後で戸を閉めた。地面を叩く雨音が、一気に遠ざか
る。
 残された三人は、薄暗い部屋の中でしばらくの間、沈黙の音だけを聞いた。と、そこへリショウの
足元で、きぃ、と声がした。サエキヒコの胸倉を掴んだままだったリショウが、そのままの態勢で見
下ろせば、いつの間にいたのか、たまがリショウの足に前脚を乗せてこちらを見上げていた。
リツセと一緒に来たのだろうが、全く気が付かなかった。雨の中をやってきた所為で、白い水守の前
脚は泥で茶色になっており、身体からも水が滴っている。
 じわじわと部屋の中に広がる水たまりの上で、突如、たまがぶるぶると身体を震わせた。白い身体
に付いていた水滴が、一瞬にしてあちこちに飛び散る。一番被害を受けたのは、いわずもがな、たま
が足元にいたリショウである。
 身体に付いていた水滴を落としたたまは、妙にすっきりした顔をしてリツセの足元に行く。つまり、
わざわざこれだけのために、リショウのところにやって来たわけである。
 サエキヒコを掴んだまま、リショウはたまから飛ばされてきた水滴を顎から垂らす。状況が状況で
なかったら、今すぐにでもたまに飛び掛かって、その丸っこい身体を掴んで揺さぶってやりたい。
 だが、たまの介入のおかげで、サエキヒコへの苛立ちは治まった。胸倉を掴んでいた手を離し、サ
エキヒコから一歩離れる程度には。
 リショウから解放されたサエキヒコはといえば、その場にずるずると崩れ落ち、たまが作った水溜
りを見つめている。己と己の許嫁に関わることなのに、やたらと反応の薄いサエキヒコに、リショウ
はやはり腹の底がふつふつと煮える。
「何故…………?」
「うん?」
「何故、私の呪いについてそこまで知っているんだ?アカネでさえ知らない、呪いの原因についてま
で………。」
 沈黙の中、ようやく零れたサエキヒコの言葉は、リショウとリツセが調べたことを裏付けるもので
しかなかった。サエキヒコは、やはり淡ノ島で随身を殺した家系に当たるのだ。そしてアカネは、そ
の原因については知らなかった。
「もう一度言っておくがな、俺達があんたの呪いについて知っているのは、俺達が自分で調べたから
であって、アカネ殿が喋ったからじゃないからな。」
「何故、お前達が私の呪いについて調べたりするんだ?」
 心底不思議そうな顔をして首を傾げるサエキヒコに、リショウは半分以上はお前の許嫁の所為だと
言ってやりたかった。だが、それを口にすれば話がややこしくなる。
「俺達にも理由があるんだ。あんた達には関係のない理由ってのがな。ただ、俺達はどうにかしてあ
んたの呪いを解く方法を捜したかった。だからあんたの呪いの原因について調べたんだ。」
 おかげで呪いの原因は分かった。だが、肝心の呪いを解く方法は未だ分からない。いや、そもそも
呪いを解く方法なんてあるのだろうか、呪いをかけた当の本人――奥方を諌めた所為で殺された随身
は、死んでしまっている。しかしリショウはそこに言及はしなかった。代わりに、再度サエキヒコが
口にした言葉について問い質す。
「それよりも、あんたの言ったカゴメだ。それは何だ?そこにいるリツセの言った通り、あんたの何
代前か知らないが、その時の奥方が盗んだ久寿玉を指してるのか?」
 それとも。
「まさか、アカネ殿のことを言ってるのか?」
 最後を引き継いだのは、リツセの声だった。
 途端に、眼に見えてサエキヒコの肩が跳ねた。図星と言っているようなものだった。だが、リショ
ウにはリツセの言った意味が分からない。勢いよく振り返ってリツセを見れば、リツセはリショウの
疑問など察していたかのように口を開く。
「カゴメは、籠の網目の他に、籠の女と書くこともできる。もしもそうなら、この場合はアカネ殿の
ことを指すことは誰でも思いつくよ。」
 そして勿論、アカネもまた呪いに関わった人間であることも。
 ひっそりと言われて、跳ねたサエキヒコの肩が、今度はがっくりと落ちる。リツセの言葉には、間
違いなく事実が入り込んでいたのだ。
「アカネ、は。」
 膝の上に置いた手をこれでもかと握り締め、床の一点を凝視しているサエキヒコは、固い、それ以
上何かが過ぎれば今にも震えだしそうな声で告げた。
「アカネは、殺された随身の家系に当たります。」
アカネの家は、サエキヒコに連なる武家だ。
そう、言われている。リショウもリツセもそう聞いた。
 だが、過去を遡ればその血筋は決して高貴なものではない。彼女の血筋は、元を質せばサエキヒコ
の家系の随身だ。
 随身といえば、一般的には近衛府の役人であり、決して位の低い者ではない。貴族や武家の子息が
家を継ぐまでの間、そこで働くことも多い。都に坐す帝の随身ともなれば、もはや尊敬の対象ともな
る。
 だが、アカネの家系はそんな大層なものではなかった。随身にも種類があり、近衛府に属するもの
と属さないものとがある。近衛府に属するものは先に述べたように、それなりの立場となるが、近衛
府に属さないものは個人が勝手に召し抱えた用心棒のようなものである。もしかしたら武家でさえな
いかもしれない。勿論役人などではない。
 アカネの家系の始まりは、サエキヒコの家が個人で召し抱えた随身であった。どこの馬の骨とも分
からぬものを召し抱え、しかしそれを代々雇っているところを見ると、サエキヒコの家は決して心無
い考えをするような者ばかりというわけではなかったのだろう。もしくはそういった輩を足元に置く
だけの豪胆さが、祖先の中にはあったのかもしれない。
 そうして代々使っていた随身に、きちんとした家系と位を与えて、更にはそこから嫁さえとるよう
になった。それは傍目から見れば、代々仕えてきた随身への褒美のようにも見えただろうが、実際は
違う。実際は、一人の嫁御の我儘を諌めた随身が、気にくわぬという理由だけで殺された、その後始
末なのだ。
「私の祖先、と言っても数代前だが、彼らは随身の家族には、随身は病死したと伝えた。だが、当時
随身の子を身籠っていた妻は、その言葉を信じず、一人瀬津郷に赴き、そして随身の身に何があった
のか知った。」
 ワタヒコが、まだまだ幼かった頃、その時の昔話。古今無双な話ではない。武家の我儘が余りにも
生々しい、血の通った物語だ。
「私も幼い頃から言い聞かされてきた。私の祖先が人でなしなことをした、その報いが今もあるのだ
と。これは殺された随身の呪いだと。」
 ――呪われろ!願わくば、貴様の腹の中の子は、男ではなく、男ならば流れてしまえ!
 正に、命を懸けた呪いだった。そしてその呪いは確かに十分に力を発揮した。今もなお息づくほど
に。
 瀬津郷から帰った妻は、夫の今際の際の言葉をその時にいたであろう他の随身や従者に伝えた。す
ると皆は一様に顔を蒼褪めさせ、狼狽え始めたという。だが当然のことながら、妻の言葉は真のこと
でありながらも一蹴され、身重の妻は当主の意に沿わぬことをしたという理由で働くことさえままな
らぬ状態となった。親類からの援助で細々と暮らすだけとなったのだ。
 哀れな女の身の上は、武家の奥方の心など微塵も動かさなかった。それどころか、随身を殺した事
さえ忘れていたかのようだった。
「事実、あの家には、まだ、当時の奥方が盗んだ久寿玉が置いてある。途中からは呪いを恐れて捨て
るに捨てられなくなったのだろうが、奥方は最初の頃はとにかくその久寿玉を気に入っていたようだ
った。」
 けれども、当主や奥方などの上の者はともかく、下の者は酷く後味が悪い思いをした。どれだけ嘘
だと言い張っても心の中で随身の言葉は武家の中では楔となっていたのだろう。   
 奇しくもその時、身籠った当主の奥方は男児を出産した。そしてそれが、武家にかけられた呪いが、
一瞬にして萌芽した時だった。
 待望の跡継ぎが産まれた武家は、男児が産まれると一族総出で喜んだ。しかし、それは一カ月と持
たなかった。随身の言葉通り一カ月と経たぬうちに死んだのだ。
 その後、何度か奥方は子を孕んだが、悉くが死産であった。それどころか、側室の産んだ男児まで
もが次々と病やら事故やらで死に、当主の従兄弟の子供にまで死は広がり始めた。
 蔓延する当主の家系にのみ訪れる死に、随身の最後の言葉を思い出さぬものがいただろうか。そし
てその妻に不遇を与えたことを。
「恐れた当主は、今まで不遇を与えていた随身の妻を己の養女という形で、親族の中に入れた。そう
することで、呪いを治めようとしたのだ。」
「だが、呪いは治まってない。」
「いいや、治まったのだ。」
 サエキヒコの顔に、初めて、怒りや呆然としたもの以外の表情が浮かんだ。それは、自嘲だった。
「呪いは、本家筋以外には出ていかぬようになった。」
 だから、サエキヒコは成人するまで外に出され、今まで生きながらえてきた。けれどもそれは、新
たな呪いの始まりでもあった。
「随身の家系の女は、必ず私の家系に嫁がなくてはならない。」
 分家や養子に出た男を、殺さぬように。代わりに死ぬ男を延々産み続けるために。
 カゴメとは、そういう女のことを言うのだ。