先程まで信じられないほどに青く晴れていた空は、一変して暗い雲に覆われ始めた。これは一雨振
そうだと、長屋に入る途中の道でリショウは天を振り仰ぐ。長屋に向かうリショウを見送ったリツセ
も同じように空を見上げていたから、同じことを考えていたのだろう。
 リツセの顔を見た瞬間、やはりと言うべきか、ヨドウは少しばかり眼を見開いた。しかしそれ以上
に態度に示さなかったのは流石だ。そうとも、『李翔』の歩兵隊を率いる将軍が、その程度のことで
動揺を顔に出してもらっては困る。
 厳めしい大男は、それ以上の反応はせず、未だ息の荒いサエキヒコを、その剛腕で引き上げるよう
にして立たせると、リショウが指し示した長屋へと向かった。その後を、グエンとザイジュの二人が
追いかける。
「私はアカネ殿の様子を見ているよ。診療所の片付けも手伝いたいし。」
 とにかく、サエキヒコとアカネを落ち着かせることが先だと判断したリショウ達は、まずは二人を
引き離すことにしたのだ。許嫁が男に攫われたと思い込んでいるサエキヒコは、頭に血が昇っており、
アカネと共にいても碌なことを離しそうになかったし、アカネはアカネで泣くしかできないだろうと
踏んだのだ。
 故に、男連中はサエキヒコが暴れ出さぬように見張る意味も込めて、長屋に与えられたリショウの
部屋に籠ることになったのだ。
 この時、間男として勘違いされているザイジュを連れ入ることに一瞬躊躇したが、だからといって
リツセのいる診療所に残していけば、妙な誤解を生む――診療所にはアカネがいるのだ。アカネの傍
にザイジュを置くことは、可能な限り避けるべきことだった。
 サエキヒコと三人の氏族、そしてリショウとその頭と両肩に乗った水守が、長屋の一部屋に籠れば
それだけでなんだか息苦しい。むさ苦しいな、と顔を顰めながら、かといって既に外は驟雨となって
おり、戸を開ければ水が入ってきそうだった。仕方なく戸を閉め切った部屋で、リショウは水守を身
体に貼り付けたまま、サエキヒコに向き直る。
 こちらを睨み付けながらも、しかし畳の上でしっかりと正座をして背筋を伸ばした若い武家に、あ
る程度の落ち着きは取り戻したのか、と思う。頬にはまだあどけない丸みが残っている。年の頃はリ
ショウよりも若いのかもしれない。もしかしたら、アカネよりも。
「どうだ、落ち着いたか?」
 リショウは、サエキヒコの真正面に胡坐をかいて座り、睨み上げる黒い眼を正面から受け止める。
針間の武家であるらしいが、リショウとて今はこうして小さな長屋で暮らしているが、紛れもなく一
族の長たる血筋にある。しかもサエキヒコのように次代ではなく、今現在、既に一族を率いる身だ。
それが例え、五人しかいなくとも。
「ヨドウ。お前がサエキヒコ殿と知り合った経緯を話せ。」
 サエキヒコから視線を逸らさぬまま剛腕の臣下に問えば、すぐさま、はっ、と声がした。
 サエキヒコの右側に座るヨドウが跪いて礼を取ったまま、語り始めた。ヨドウの正面には同じよう
に礼を取ったザイジュがおり、リショウの背後にはグエンが侍っている。これで、ここが狭苦しい長
屋の一室ではなく、しかもリショウに水守が貼り付いていなければそれなりに、様になったのだが。
「サエキヒコ殿とは半月ほど前、サエキヒコ殿の郷里である針間郷で出会い申しました。其れがし、
リショウ殿と別れた後、乗る船を間違えて瀬津郷ではなく針間郷についたようでして。針間郷の須間
の港に着いて右も左も分からず立ち往生していたところを、サエキヒコ殿に助けられました」
 そのくだりはザイジュでやったから、もう良い。
 リショウが無言で先を促すと、別に促されたことなどどうでも良い口調で、ヨドウは自分の調子で
話を進めていく。
「サエキヒコ殿はその時、許嫁である婦人を捜すために、家から離れておりました。そう、先程のご
婦人――アカネ殿と申しましたか。あの方です。瀬津郷へ行くという書置きだけを残して、アカネ殿
はサエキヒコ殿の前から姿を消したと。」
 女の脚ではそう遠くまで行くことはできまい。そう甘く見ていたことも災いして、結局今の今まで、
アカネは如何なる追手にも捕えられず、瀬津郷に辿り着いたのだ。
 リショウはゆっくりと頷き、ちらとザイジュに視線を向ける。
「ザイジュ。お前がアカネ殿と出会ったのは何処だった?」
「針間郷の明穂です。一月ほど前にお会いしました。」
 そうか、と呟くリショウに、行く先々で、とヨドウは続ける。
「サエキヒコ殿の許嫁と思しき方の噂を聞きました。其れがしがサエキヒコ殿とお会いする前から、
サエキヒコ殿は許嫁となる方が、どこそこにいたとかいう噂話を頼りに追いかけておられたのですか
ら、当然ではありますが。ただ、其れがしがサエキヒコ殿と出会った時、既にアカネ殿については、
男と共にいるという話があり申した。」
 サエキヒコの記憶の中にある、どの男とも違う、噂で語られる許嫁の隣にいる男。それはヨドウに
とっては主を同じくする者で、リショウにとっては五人しかいない臣下の一人であったわけだが。
 なるほどな、とリショウはサエキヒコを見据える。まだ肩に力が入っている若者に、リショウは同
じように姿勢を正して言った。
「サエキヒコ殿。我が臣下が世話になったようだ。これについては礼を言おう。感謝する。だがザイ
ジュがあんたの許嫁を寝取ったという話については、盛大な勘違いだと言っておく。」
 きっぱりと言い放ったリショウに、サエキヒコの眼が血走った。何を、と掠れた声が零れでる。
「何を、根拠に………。」
 問答無用で、嘘だ、と言わなかった。眼を血走らせているものの、サエキヒコの中では冷静さが激
情を抑えている証拠だ。思っていたよりも、この若い武家は冷静なのかもしれない。
 先程のように診療所で斬りかかったのは、長旅の果てにアカネの裏切りのような光景――旅の中で
延々と噂で聞いた、アカネと若い男が共にいる光景を見せつけられて、箍が外れた所為か。
 ザイジュをアカネから引き離しておくべきだったか。町の連中に姿を見せては厄介だと思い、ザイ
ジュにアカネの見張りの名目で二人とも引き籠らせたのが失敗だった。
 後悔したが、今更遅い。そんな事よりも、リショウはサエキヒコの問いに答えてやらねばならない。
 ザイジュがアカネに手を出していない理由。それはリショウなど、ザイジュと付き合いの長い者か
ら見れば一目瞭然だった。
 ザイジュのような誠実さを絵に描いた男が、許嫁のいる女に手を出すはずがない。女とは守るべき
ものであり、誰かに既に貞操を捧げた女には触れることさえ憚られる。その身が危険に曝されていた
ならば身を挺して守り抜くが、そこには一切の恋情は有り得ない。守ることを逆手にとって、男女の
関係に発展することを望むなどおこがましい。そのようなことをするくらいなら、自害を選ぶような
男なのだ、ザイジュという男は。
 だが、それは身内にだけ分かることであって、今初めてザイジュに会ったサエキヒコには分からぬ
道理である。リショウは、身内ではないサエキヒコに、ザイジュが間男などではない、潔白であると
順序立てて説明してやらねばならない。
「あのな。」
 リショウは表情を一族の長の顔から一転させて、気安い若者の顔をしてみせた。口調も普段の軽い
ものに変える。深い理由はないのだが、ただ、男女の中に踏み込む話の最中に、君主面しているのも
妙だと思ったのだ。
「あんた、アカネ殿がどうして瀬津郷に来たのか、考えなかったのか?」
「考えたとも。だが、どうしても私との婚礼を嫌がって、他の男と逃げたとしか思えなかった。」
 サエキヒコの返答は、今にも何処かで何かが張り裂けてしまいそうな緊張感を湛えていた。行く先
々で聞いた男女一組の噂は、若い武家の心を疑心で満たしていったのだ。それを、責めることはでき
ない。だからと言って、疑心しか抱かぬという状態も良くない。
「アカネ殿は、あんたの家系にかけられてる呪いを解くために、瀬津郷に来たんだよ。」
「何?」
「男児殺しの呪いだ。アカネ殿から聞いた。」
 アカネが男児殺しの呪いについて、何処まで知っているのかはまだ分からないが。しかし呪いを解
きたかったのは事実であるはずだ。それは紛れもなく、サエキヒコの為ではないのか。
「アカネが、話したのか……?」
「ああ、あんたの家の名前までは言わなかったけどな。思いつめた顔して、呪いについて調べ回って
たんだぜ。あんたのため以外の何だって言うんだ?」
 サエキヒコは、再び黙り込んだ。ただ、その眼には様々な感情が渦巻いているのか、複雑な色を成
している。感情の坩堝の只中にいるザイジュに、リショウは更に言い募った。
「それに、一人で瀬津来たのも、途中で噂になるだろうって分かってて、ザイジュと一緒になったの
も、あんたが心配して追いかけてくるって分かってたからだろうよ。」
 或いは、それを試したか。
 サエキヒコがアカネを追いかけて、そして診療所で刃を抜いたという話を聞いた時、だからリショ
ウはこれを茶番だと感じたのだ。アカネが如何にも武家の婚礼相手らしからぬ、軽率な行動を取った
理由は、ただただサエキヒコを己の元に引き寄せたかった、或いは来てくれるかどうかを試しただけ
ではないのか、と。
 振り回されたこちらは、大迷惑ではあったが、それは確かにアカネがサエキヒコを想っていること
に他ならない。
「これだけアカネ殿があんたのために動いてるんだ。他の男に現を抜かしてるって言うのは、アカネ
殿に対して失礼だろうよ。」
 サエキヒコはぐっと唇を噛み締める。膝の上で震えるほどに握りしめた手は、白くなっている。俯
いてその手を睨んでいた若者は、絞り出すように言った。
「だが、それも確証にはなりますまい。」
 アカネと、ザイジュの間に、不貞がなかったという確固たる理由にはならない。許嫁への疑心を払
えぬ若者は、そう告げる。
 頑固だな、と思いながらリショウは溜め息を吐き、
「あのな、日が合わねぇんだよ。」
 俯いたサエキヒコの顔を覗き込む。え、と一瞬呆けた顔をしたサエキヒコの、無防備な顔にリショ
ウは叩きつける。
「アカネ殿は今、懐妊してる。悪阻も起きてる。ザイジュがアカネ殿と会ったのは一月前。ザイジュ
がアカネ殿に手を出したなら、日が合わないんだよ。つまり、あんたくらいしか、腹の中の父親はい
ないんだ。」
 悪阻は大体、子供が産まれる八か月ほど前に起こる。一か月前にアカネと出会ったザイジュが、腹
の子の種である可能性は低い。むしろ、一カ月前以前からアカネの許嫁であったサエキヒコのほうが、
圧倒的に可能性としては高いのだ。とはいえ、悪阻の時期など一概には言い切れないし、これもやは
りザイジュがアカネに手を出していないという証拠にはならないのだが。
 そのことに気が付いたのか、サエキヒコはしばらく目を丸くしていたが、徐々に身体全体をわなわ
なと震えさせ始めた。こうなると、話はますますややこしくなる。考えもなしに懐妊について口を出
した、リショウの責任だが。
「アカネが、懐妊………?!一体誰の………!」
「だからあんただろ。あんたがなんと言おうと、ザイジュはアカネ殿に手を出してないんだからな。」
 無理やりにでもザイジュは無罪という意見を押し通そうとするリショウに、サエキヒコは腰を浮か
せかけて、
「馬鹿な!」
 と叫んだ。
 何が馬鹿なんだ。リショウが少し顔を顰めたその次に、サエキヒコは叫んだ声のまま続ける。
「ならば、アカネは、父親のいない子供を孕んだことになるのか?」
「あんたが父親じゃないのか?」
「私は婚礼前にそんなふしだらな真似はしない。」
 つまり、サエキヒコもまた、腹の中の子供の種ではないということか。ザイジュでもない。ならば
考えられることは、全く別の男と、アカネが出来ていた、ということだろうか。後は、アカネが誰か
に襲われたという胸糞の悪い想像くらいしか思いつかない。
 だが、サエキヒコは何か思い当たる節があったのか、ぴたりと口を噤み、それに合わせて身体も表
情も止めてしまう。彫像のようになった若者の口から、声が絞り出された時、その声はまるで老人の
ようだった。
「まさか………カゴメが?」
「カゴメ?」
 聞き慣れぬ言葉に、リショウが問い返すのと、リショウに無言で侍っていたグエンの背後で、戸が
開くのは同時だった。
 さっと、細かい雨粒が風と一緒に部屋の中に吹き込む。
「リショウ。」
 開かれた扉の向こうにある影は、濡れてはいるが確かにリツセのものだった。この驟雨の中、傘も
 差さずにやって来た彼女は、静かな声に微かな乱れを含んでいた。どうした、と声をかける前に、
リツセは出来うる限りの静かな声で、答えを言う。
「アカネ殿が産気づいた。」