ワタヒコが二人を連れて行ったのは、漁師達が食事を取っている魚市場でもなければ、ウオミが働
く大衆食堂でもなかった。
 桟橋から少し離れた場所にある、静かな浜辺に作られた粗末な小屋だった。小屋の傍には一隻の小
舟と、釣竿や網が置いてある。どうやら、ワタヒコが一人で沖合まで釣りに出る時に使用する、様々
な道具がこの小屋に纏めてあるらしかった。
 小屋の中は潮の匂いでいっぱいで、木板を張り合わせて作った壁からは、その合わせ目から朝の光
が零れ落ちていた。雨風が凌げる程度の小屋の中に通されたリツセとリショウ、そして水守達は、お
ざなりに作られた囲炉裏の周りを囲むようにして座る。
 ワタヒコは、懐から火打石を取り出すと囲炉裏に火を灯し、先程生簀から獲ったばかりのサザエや
アワビをくべ始めた。そして、ごそりと徳利を取り出すと自分も囲炉裏の前に、どっかと座り込む。
 ぱちりぱちりと爆ぜる火の音を聞きながら、リショウはワタヒコの口が再び開くのを待った。
 ワタヒコは、ぐびりと徳利の中を煽ると、若者二人を見比べる。
「男児殺しの呪いについてだったな。」
 まどろっこしく話を進めるのは、性に合わないのだろう。ワタヒコは開口一番にそう告げた。
「最初に言っておくが、これに宮様が関わってるってことはない。」
 きっぱりと言い切ってから、また徳利を煽る。だが、リショウは勿論、そんな言い分は納得できな
い。
「じゃあ、なんだってあんたの孫は俺が宮家を貶めるかもしれないなんて言ったんだ?」
 それにどうして、リショウは宮家の者と思われる連中に襲われたのか。これで宮家が関わってませ
んと言い切れることのほうが、おかしい。
「宮家は関わっていないけれども、話せば宮家に障りがあるということですか?」
 静かだったリツセが、ゆっくりと問うた。
「そしてそれは、淡ノ島で起きたことなのでは?」
 アカネが向かおうとした島。そこで宮家にとっては障りのあることが、男児殺しの呪いが起こった
のではないか、とリツセは老漁師に問う。問われたワタヒコは、ぱちぱちと眼を瞬かせて、潮風に曝
されすぎたせいでかさついた唇を開く。
「お前はよ、リヒロ様から何か聞いてるんじゃないのか?」
「父からは何も聞いていません。」
「じゃあどうして淡ノ島で呪いが起きたなんて思うんだ。」
「では淡ノ島ではない?」 
 いや、とワタヒコは首を横に振る。そして黙って、武骨な手で火にくべた貝をひっくり返した。小
屋の中に、少しの間沈黙が落ちた。
 貝をひっくり返し終えた後、ワタヒコは深く溜め息を吐いた。長い長い嘆息だった。
「俺には、これが呪いであるかどうかは分からん。ただ、確かに男児が産まれぬようにと願った者が
いた。それは間違っても宮様ではない。むしろ宮様は迷惑を蒙ったほうだ。」
「じゃあ、話したって良いんじゃないか?」
 溜め息を吐き吐き告げるワタヒコに対し、リショウは殊更軽い口調で話の先を促す。リショウはこ
の場では一番の部外者だ。だが、同時にワタヒコを含む漁師が、いや瀬津郷の住人全てが平伏す宮家
の血も背負っている。
「迷惑を蒙ったこと自体が障りって言ったって、別に宮家に落ち度はないんだろう?なら別に話した
ってかまわないんじゃないのか?」
 遠いとはいえ、宮家の血をその身に流すリショウに、ワタヒコはそんな生易しいもんじゃない、と
呟く。
「この障りはな、ある意味宮様の威信を傷つけるもんでもある。だからこの事は網元しか知らんし、
俺らは皆口を閉ざしてきた。」
「迷惑を蒙ったのに威信を傷つけられるのか?よく分からないな。」
「宮様の御膝元であったことだからな。」
「淡ノ島で誰かが男の子供は皆死んでしまえって言うことが、そんなに障りになるのか?」
「そんなこと障りにもなりゃしねぇよ。」
「じゃあ何が。」
 前言撤回だ。ワタヒコはもっと竹を割ったように話す口かと思ったが、なかなかに回りくどい。
「じゃあ、淡ノ島にいる神がアワシマ神だっていうのは聞いたけど、その神が怒って誰かに男児殺し
の呪いをかけたのか?」
 リツセは、男児殺しはアワシマ神の呪いにしては手ぬるいと言っていたが、宮家に障りがあるとな
れば、もうこれくらいしか思い浮かばない。アワシマ神を怒らせたというのなら、その責は宮家にも
及ぶだろう。淡ノ島は宮家から輩出された宮司によって管理されている。ならばやはり、関係ないと
いっても、何かあれば宮家の責任が問われるのだ。
 だが、ワタヒコは違う、と首を横に振る。どうにも煮え切らないワタヒコの様子に、リショウが少
しばかり苛々し始めた時、膝の上にいたたまを撫でていたリツセが、ああ、と頷いた。
「血が、流れましたか。」
 社で。
 ひっそりと囁かれた言葉に、ワタヒコの表情が険しくなった。昔に喉元に突き刺さった小骨が、未
だに抜けずに苛んでいるかのようだ。
「血?」
 リショウは思わず、昨夜できた額の傷に触れた。口を閉ざす障りというのが、血が流れたという程
度のことであるのが、大陸人であるリショウには理解できなかったのだ。しかし、ワタヒコの表情の
変化を見る限り、リツセの言葉は正しいものであるのだろう。この国の風習は、未だリショウには馴
染みがない。自分達の風習に照らし合わせて合う部分もあるが、些細なことで感じる違いは、どうし
ても拭えない。
 もやもやとした頭の中を横切ったのは、涼やかな男の台詞だった。
 ――血を流さなかったこと、礼を言う。
 あの時の謝礼は、己の障りに触れなかったからか。
「社は、基本的に穢れを厭う。穢れとは血や死のことだ。」
 理解できないという心境は顔に出ていたのだろう。リショウに向けて、リツセが説明する。
「いや、じゃあ怪我人は社に入れないってことか?」
「そうじゃない。怪我人や妊婦は身体も心も弱っていることが多いから、此岸と彼岸の狭間を見てし
まう可能性が多い。社の周りは神が坐すせいか、どうしてもその辺りの境が薄くなるからね。」
 だから、そちら側に行かぬよう、無理をしてまで社を拝さなくてもよい、と。
「死が疎まれるのも同じような理由だな。身近な死によって人はどうしたって弱るだろう。だから社
からは遠ざけられる。」
「なら、何が障りなんだ?」
 死や怪我を社から遠ざける本来の理由が、人々がマガツジのような境界に入り込まぬためのもので
あるならば、実際に社でそれらが起きても口で言うほどの障りではないのではないか。そもそも問題
の淡ノ島が、穢れである妊婦の参拝を受け入れているではないか。
「…………そう、それが人が生きる上で起きてしまう出来事なら、別に障りでもなんでもない。日常
の一つでしかない。けれども、穢れの結果が起きたのなら話は別だ。」
「穢れの結果?」
 境界に堕ちた結果、ということだろうか。あちらとこちらの境界は、とても不安定で、人の心を激
しく揺さぶる。それを払い除けることは普通の者ならばできるが、心身ともに弱った者は、時として
あっさりと転がり落ちる。つまり、弱い心が招いた結果。
 リツセの眼が、険しい表情のまま徳利を抱えて一点を睨み付けているワタヒコを射抜く。
「誰かが、アワシマ神の社で殺されたのですね。」
 怪我の血ならば、産褥の血ならば、まだ狭間に転がり落ちる前に食い止められる。だが殺されたこ
とにより流れた血は、穢れの結末だ。誰の手も届かない。
 再び沈黙が落ちた。リツセは無言でワタヒコを見て、リショウもまた同じようにワタヒコを見る。
深い皺を刻んだ漁師の顔は、生簀で見た時の矍鑠とした時から一転して、一瞬で年相応の――いや、
それ以上に老けてしまったようだ。それはリツセの言葉が紛れもない事実であることを示しており、
またワタヒコの中に深い影を落とす出来事であったことを告げている。
 酒がなくては語れぬ、とワタヒコが判じたのは、その所為だろう。話す分にも聞く分にも、楽しい
話はないのだ、これは。いや、呪いに関する話など、愉快であるはずがない。
「呪いってのは、こうやって黙ってるから、呪いになるのかもしれねぇな。」
 だが、長く尾を引くような溜め息の後、ワタヒコは腹の中で蟠り続けていたであろう出来事を語り
始めた。
「俺がまだまだ若かった頃のことだ。そうだな、十五を迎えたかどうかって歳の頃、俺は初めて淡ノ
島に人を送り届ける役目を負った。」
 その日、淡ノ島に向かおうとしたのは、とある武家の奥方だった。何人もの従者や随身を従えて、
ワタヒコの操る船に乗り込んだ。武家の乗る船だ。今、小屋の外に干してあるような質素な小舟では
ない。大きく、煌びやかな小舟だった。
「なんでも中々男の子供が産まれない家系らしくてな、子宝に関わる色々な神社に参拝してるんだと
言っていたな。」
 びらびらとした着物を着て、随分と偉そうな奥方だった、と当時のことを思い出したワタヒコは、
微かに皮肉めいた色を声に乗せた。そこには漁師の武家に対するやっかみと、びらびらした着物で、
人のいない島に向かうことへの世間知らずさを馬鹿にする腹の裡が見えた。
 だが、それは今はどうでも良いことだ。思い出したように火にくべていた貝を摘まむワタヒコに、
リショウは先を促す。
「良い天気だった。海も小さい波を立てるばっかりでな。アワシマ様も心穏やかだったのか、渦もな
かった。良い参拝日和だったさ。なのにあの奥方ときたら、ずっと暑い暑いって言っててな。そりゃ
あ友禅なんぞ着てたら暑いだろうよ。」
 奇しくも、アカネが着ている着物と同じ。だが、リショウは黙っていた。ワタヒコに、アカネのこ
とを語る必要はない。
 今と同じ初夏に淡ノ島を訪れた奥方は、ぶつぶつと文句を零しながらアワシマ神の社に向かった。
だが、宮司と桟橋を管理する夫婦以外には誰もいない島には、当然のことながら物売りも、茶店もな
い。そしてアワシマ神の社もヒルコ大神の社に比べればとても小さく、何も目を引く物のない社だ。
武家に嫁いだ娘には、さぞつまらないものだっただろう。
「だが、アワシマ神の社はそれ故に、たくさんの久寿玉を奉じている。」
 不具であるが故に舟に乗せられて流され、しかしヒルコ大神とは違い陸地に辿り着く前に海に沈ん
だ哀れな神。その神を慰めるために瀬津郷の者は様々な物を奉じている。久寿玉もそうだ。ヒルコ大
神と妹神でもあったので、ヒルコ大神と同じく美しく端正な久寿玉が、社には多く奉じられている。
今も昔も、それは変わらない。小さな社いっぱいに、たくさんの色とりどりの久寿玉が置いてあった。
 ただ、アワシマ神が子宝成就の神となった時、奉じられる久寿玉には、アワシマ神を憐れむために
折られたものだけではなく、当然のことながら子を願う親が作ったものも増え始めた。
 その久寿玉の中でも特別に美しい金銀白の紙を組み合わせた久寿玉が、当時無数の久寿玉の中に混
ざって報じられていた。その久寿玉の中にはもう一つ、桃と赤を組み合わせた花のような久寿玉が入
っていた。
 誰が作ったのかは分からない。けれども久寿玉の中にもう一つ久寿玉を入れたそれは、子持ち久寿
玉であり、間違いなく子宝を願って作られたものだ。そしてその美しさからさぞかし、子宝を願って
作られたのだろう事は分かる。
 だが、世間知らずで、特に願いが叶わぬことを知らぬ武家の奥方には、それが分からなかった。奥
方は、美しい久寿玉を一目見て気に入った。他に眼を惹く物もない社で、世間知らずのお嬢様の我儘
を盛大に発揮した。
「その奥方はな、報じられていた久寿玉を手に取って、懐に入れちまったのさ。」
 神に捧げられていた物を自分のものにする。なんて罰当たりな。だが、従者も随身も誰一人として
奥方を止めない。主の奥方に諫言することは、それほどまでに恐ろしいことなのだ。宮司もまだ若か
ったワタヒコも、武家の成すことに真っ向から批判を口にすることはできなかった。
「いや、一人いた。奥方のやっていることを止めた随身が、いた。」
 まだ若い男だったよ、とワタヒコは眉間に皺を寄せながら、遠くを見つめる。その時のことが、今、
ワタヒコの胸の中でいっぱいに広がっているのだ。
「罰当たりな、やめてください、って言ってたっけな。だが奥方はまるで相手にしなかった。それど
ころか煩いと言ってな。」
「まさか。」 
 ワタヒコに刻まれた苦い色の意味を、リショウは悟る。そしてそれが障りであると。
「殺したのか。」
その嫁御が。直に、ではないにしても、そう命じたのか。口うるさい蠅だと言って。我々が蠅を叩き
潰すように。
ワタヒコはサザエを咀嚼しながら、それがまるで苦虫であるかのような表情を浮かべて頷いた。
「俺と宮司の見てる前でな。他の随身共その随身を押さえつけて、脇に連れて行って、そんでその背
中に一太刀だ。」
 真っ赤な血が、小さな社の前に迸る。
「情けないことにな、俺も宮司も動けなかったし何も言えなかった。もしもあそこで何か奥方に反対
するようなことを言ってたら、俺達も斬られてただろうよ。どれだけ奥方の着物を貶しても、結局は
俺も武家の前では何もできない野郎だったってことさ。」
 奥方は随身一人を手打ちにしても、顔色一つ変えなかった。そのまま久寿玉を懐に入れたまま、も
 うそれ以上用はないと言わんばかりに、ワタヒコに船を出すことを促したのだ。
「斬られた随身は、」
 ワタヒコはもう一度、徳利を煽る。
「残った宮司に聞いたら、斬られた随身は、あの後しばらくの間生きていたらしい。瀕死の状態で、
そいつはこう言った。」
――奴らの元に、男など絶対に産まれさせてなるものか。
 ――呪われろ、呪われてしまえ。
 ――どれだけ望んでも男が産まれぬように、死んでしまうように。
それが、皆が口を閉ざした男児殺しの呪い。
「その後、どうしたんだ?」
 少なくとも人が一人死んでいる。放っておくわけにはいかないだろう。まして、宮家の膝元で、し
かも社で起きたのならば猶更。
「宮様には俺から伝えた。そうしたら、武家の奥方のほうに、何か言ってくださったようだ。さすが
に宮様を斬ることはできなかったみたいだな。逃げるようにその日のうちに瀬津を立ったよ。だが、
随身の死体は引き取らなかった。死体は宮様が引き取って弔ってくださった。」
 呪いの言葉を吐き捨てた随身は、瀬津郷の墓地の片隅に葬られている。その墓を、随身の葬式が終
わって何日か経った後、訪れた女がいた。殺された随身の妻で、しかも身重だった。呆れたことに、
武家は随身の妻に、夫は急な病で死んだと伝えていたらしいのだ。それを信じられぬ妻は、一人瀬津
郷にやって来た。
「その時にはもう、そのことについては黙ってるようにっていう状態だった。何せ社で殺しがあった
んだ。自慢できる話じゃねぇし、宮様の威信にも係る。」
 宮家の治める場所で、そのような不祥事が起きたとなれば、宮家の中で燻る不祥事を逆手にとって
のさばろうとする輩が、これ見よがしに声を大にすることだろう。それは瀬津郷が分裂する危険性を
孕んでいる。皆が口を閉ざすべきと考えるのも頷ける。
 だが、大きくなった腹を抱えて、毎日毎日、夫について聞いて回る女の姿に、ワタヒコの良心が咎
めた。なにせ、ワタヒコの目の前で彼女の夫は殺されている。ワタヒコは止めもしなかったのだ。
「俺は教えちまったんだ。全部な。」
 まだ十五になったかならないかの子供が、殺された男の妻の前で、黙り込んでいられる顛末でもな
かった。
 ワタヒコから夫の死について真実を聞かされた女は、あっという間に体調を崩した。身重の身体で、
折しも梅雨時という誰もが体調を崩しやすい時でもあった。当時は原庵のような腕は良くとも無償で
行き倒れた者を診るような医者はいなかったから、女の命は非常に危険なものとなった。それを拾い
上げたのも、やはり宮様であった。
「宮様が女に何を言われたのかは知らん。回復した女は、そのまま国許に帰ったと俺は聞いた。それ
以上のことは知らん。」
「殺された随身は、本当に男児殺しの呪いをかけたのか?」
「知らん。俺は漁師だ。呪いなんてものは分からん。」
 だが、とワタヒコは遠い眼をした。
「随身の妻は、少なくとも生きて国許に帰った。そして女が無事に子供を産んで、しかも夫を殺した
武家を恨んでいるとしたら。」
 呪いというのは脈々と続いているのかもしれない。