そんなわけで、日の出とともに目覚めさせられたリショウは、グエンが睨みを効かせる中、ザイジュ
相手に久々に調練というものを行って、へとへとだった。
 リショウがまるで身体を鍛えていないというわけではない。瀬津郷にくるまでは朝一の鍛錬という
のは当然のことであったし、そもそも郷里を離れてからは鍛錬以上に厳しい旅路だった。ただ、瀬津
郷に来てから、おざなりになっていたというだけのことであって。
 しかし鍛錬がおざなりになっていた時期に、グエンが考え得る限りの苛烈な鍛錬を仕込まれれば、
誰であってもへとへとになるというものだ。
 それはザイジュも同じであったようで、流石にリショウのようにばてて地面に寝っ転がるという醜
態を曝すことはなかったが、よろよろと水飲み場へと消えていった。
 グエンの頼みで急遽庭先を鍛錬場として提供した原庵は、若者達がそれなりに真面目に鍛錬をして
いる様を、いつも通りにこにことした笑みを浮かべて見ていた。原庵の膝の上では三匹の水守達が眠
たそうに丸まっている。その原庵の隣で、眼光鋭く二人の若者の奮戦ぶりを見ているグエンの小脇に
は、たまが抱え込まれていた。そのたまの口には、未だしっかりと、昨夜食い千切った袖が挟み込ま
れている。いい加減、涎でべとべとだろうな、とは思うのだが、たまはどれだけリショウが引っ張っ
ても、それを離そうとはしないのだ。
 おそらく、宮家に関わるであろうことを証明する、引き千切れた袖。ふてぶてしい水守が、何故そ
れを手放そうとしないのか、リショウには彼の心裡を知ることはできない。犬猫よりも遥かに聡いこ
の獣は、もしかしたらリショウの思惑を知っているのかもしれない。だから手放さぬというのなら、
この水守もまた宮家を守ろうとしているのか。しかしそのわりには、取り巻きの連中らしき男の手首
の肉は、食い千切ったのにな。
 そういえば、相当の深手を負った男が医者に駆け込んだ様子はない。少なくとも、昨夜から今朝の
うちにかけて、原庵のところに大怪我をした男がやってくるということはなかった。他の医者のとこ
ろに駆け込んだかとも思うが、ならば何処かで噂が生み出されよう。人の口に戸は立てられないのだ
から。
 朝飯を食べ終えたら、その辺を探りにぶらぶらしてみるか、と考えていた矢先に、食い千切った袖
を咥えていた水守が、するりとグエンの小脇を抜け出して、たったったっと表の玄関のほうに走って
いく。逃げ出す気かこの水守と、昨夜から繰り返していた逃亡と捕獲が再び始まるのかと一瞬げっそ
りした。
 だが、リショウの思惑とは違い、たまは庭先で立ち止まり、くいっと首を曲げて上を仰いでいる。
さあっと吹き込んできたのは涼しげな気配だ。水守が口に咥えている袖が、昨日まで確かに纏ってい
た気配と同質のもの。
 原庵の庭先にやってきたリツセは、足元でしっぽをぱたぱたと揺らしている水守を見下ろし、そし
て庭で転がるリショウ達を見やり、軽く一礼して朝の挨拶をした。
「帰ってこないから、どうしたのかと。」
 そう言って尻尾を振るたまの短い前脚の下に手を差し込み、抱き上げる。そういえば、あの後グエ
ンにリショウの無事を告げるよう、リツセの元に使いをやらせたが、たまは袖の件があったのでリショ
ウが拘束したままだった。
 拘束から解放されたたまは、住み着いている家の家主に、引き千切った袖を見せようと、丸みを帯
びた口先をリツセに擦り付けていた。どうやら、たまはリショウより先にリツセに見せるべきと考え
ていたようだ。
 たまが差し出す布きれに、一見するとリツセは何の表情も変えなかった。しかし、確かにちらりと
リショウを窺ったぬばたまの眼を、リショウが見逃すはずもない。ころりと地面に転がっていたリショ
ウは、身を起こすと地面に胡坐をかいてリツセを見上げる。
「見覚えでもあるのか。」
 口調が、疑問ではなく断定的になったことは否めない。リショウは、リツセは知っているだろうと
思っているのだから、仕方ない。
「何があった?」
 返答の代わりにやってきたのは問いかけだった。リショウは少しばかり顔を顰めたが、正直に答え
る。
「刀を持ってる男共に襲われた。その男共を止めたのが、その袖の持ち主だ。どうも男共の上役に当
たるようだったが。」
 昨夜、グエンがリツセへの伝言の使いから戻ってきた折に、今回の襲撃について正直にリツセに伝
えるべきかどうか話し合った。確かにリツセは宮家との関わりが深い。しかし今回の襲撃は、果たし
てリショウがリツセに近づきすぎたことによるものなのか。むしろアカネの呪いを探っている所為で
はないか。ウオミの豹変ぶりも合わせてグエンに話し、さてどうするかと考えた。その末に、結局リ
ツセに話すことを決めたのは、隠していたところでどうせばれると判じたからだ。
 自分達よりも宮家に近いリツセが、引き千切れた袖を見て宮家の襲撃について思い至らぬわけがな
いだろうし、久寿玉師でありウオミとも親交がある彼女がアカネの呪いが宮家にとって障りがあると
分からぬわけがない。
 なので、リショウは正直に話した。襲撃者のことも、ウオミの豹変ぶりも、宮家に対する疑惑も。
 リツセはリショウの話を黙って聞いていた。聞いている間中、たまを――たまの咥えている袖を見
ており、時折リショウのほうを見る視線がなければ、聞いていないのではないかと思えた。ウオミの
名が出てきたところで、少し肩を震わせたが。
「そうか、ウオミか……。」
 話を聞き終えたリツセはゆっくりと頷く。何か、色々と合点がいったふうな態度に、リショウは眉
間に皺を寄せた。そんなことをしているとグエンのように皺がとれなくなると思ったが、やらずには
いられない。
「なんだ、ウオミに何かあるのか。」
「というか、一番最初の段階で気づくべきだったんだな。」
 たまが、リツセの腕の中から抜け出して地面に飛び降りる。たった今までの執着が嘘のように、水
守は咥えていた袖を吐き出した。
「ウオミに会いに行く。」
「何?」
「というか、ウオミの祖父君だな。そちらのほうが詳しいことを知っているだろう。今の時間なら、
朝市が終わって漁師連中に朝ご飯を振る舞っているはずだ。それが終わった頃合いに、話を聞きに行
く。」
「話?なんの?」
 リショウは話が良く呑み込めない。ウオミの豹変ぶりと昨夜の襲撃とアカネの呪いと。関係がある
とは思うのだが、しかしそれでいきなりウオミの祖父に話を聞きに行くとはどういうことか。
「宮家に障りのある呪いの話さ。」
 といっても、正確には瀬津郷の宮家には、関わりはあるけれども直接は関係のない。リツセはそう
言って、けれどもそれ以上語ろうとはしない。何故話さない、と思った時、リツセの目線が奥の座敷
を見ていることに気が付いて、はっとした。アカネには聞かせたくないのだ。つまり、アカネの呪い
のことだ。
「待てよ、俺も行くぜ。あんなふうにわけもわからず言われっぱなし、やられっぱなしなんて、俺は
嫌だからな。」
 豹変したウオミにも、襲い掛かってきた宮家の連中にも、一言物申してやらねば気が済まない。後
者は難しいかもしれないが。
「朝飯食ったら行くからな。それまで、たまときんとき達の相手でもして待ってろ。」
 リショウは立ち上がって、服についた土を払い落とすと、いそいそと朝飯の準備してある長屋へと
急ぐ。そういえば、三匹の水守達の、きんとき以外の名前ってなんていうんだ。まあそれは、ウオミ
の祖父に会いに行く道々に、リツセに訊くとしよう。





 リツセが朝の魚市場で朝飯を食べている漁師連中のもとにやって来た時、漁師達の間をくるくると
動き回って、獲れたての魚を焼いたのだとか、刺身だとかを振る舞っていたウオミは、眼に見えて顔
を強張らせた。そしてリツセの後ろにいるリショウを見て、眉間に皺を寄せた。
 ウオミは昨日の自分の態度を当然覚えているだろうし、もしかしたらリショウへの襲撃もなんとな
しに感づいているのかもしれない。そしてもちろん、リツセが此処へやって来た理由も。
 リツセの腕の中にはたまが抱え込まれており、リショウの頭と両肩にも水守がそれぞれに乗っかっ
ている。水守と異国の男を侍らせた友人に、ウオミは明らかに戸惑いながらも相対した。
「どうしたんだい?珍しいじゃないか、こんな時間にあんたが来るなんて。」
 時刻はまだ、八つ刻になるかどうかという頃合いだ。漁師達は朝一の漁が一段落着いた時間だろう
が、職人達は仕事の準備を終えて、さあ仕事を本腰入れてやろうかという時間である。久寿玉師であ
るリツセもこの時間帯に出歩くことはまずない。
「いや、お前のおじい様に会いに来たのさ。」
 リツセはうっそりと笑い、漁師達で賑わう、青空の下の食堂を見回す。魚の焼ける匂いと、男臭い
声があちこちから湧き起っている。着物の裾を膝までたくし上げ、髪も手ぬぐいで一纏めにしたウオ
ミは、肌が日に焼けていることもあって、この場では年若い見習い漁師のように見える。
 一方のリツセは家に閉じこもって久寿玉を作ることが多いせいか日に焼けておらず、着物も白拍子
のように真っ白で、随分と目立つ。そこだけ神社の一画を切り取って持ってきたかのようだ。ついで
に、腕の中にいるたまも白い。
 場違いな友人の姿に、ウオミは眼を泳がせながら呟くように答える。
「じいさんなら生簀で魚の様子でも見てるんじゃないかい?でもなんで?」
 ウオミの問いかけに、リツセは笑みを刷いたまま答えない。軽く頷いてウオミを一瞥すると、リショ
ウを促して桟橋のほうにある生簀へと足を向けた。
 漁師町にくる道中、リツセはリショウに言った。
 アカネの呪いは、瀬津郷に関係しているというよりも、泡ノ島により近いのではないか、と。
 よくよく考えてみれば、アカネが一番最初に向かおうとしていたのは泡ノ島だ。ヒルコ大神の妹神
であるアワシマ神が坐す島。女の気が関わるあらゆる物事に霊験のある、そして子を授ける神がいる
島。だからその時は、アカネが子を欲しがって泡ノ島に行きたがっていると思っていたのだが。
 だがそれならば、何度も繰り返してきたが、泡ノ島でなくとも、良い。では、偉大なるヒルコ大神
の妹神であるから、頼ったのか。それとも。
 それとも、アカネは最初から、呪いが泡ノ島に由来するものであると知っていたのか。
「だが、それならばやはり妙だ。」
 リツセはアワシマ神の性を告げる。
「アワシマ神はヒルコ大神と同じく足腰立たぬ故に流され、そしてヒルコ大神とは異なり、浜に辿り
着けぬまま海に沈んだ女神だ。故に、もちろん、呪う。兄であるヒルコ大神と、人々の慰めにより今
は奇霊となっているが、ヒルコ大神が子を捨てる親から子を奪い去るように、アワシマ神も己の怒り
に触れた者には呪いを下す。」
 けれども、アカネの婚礼相手に下された呪いは、アワシマ神がする呪いにしては妙だ、とリツセは
言った。
「どこが?子宝成就の神が、男児殺しの呪いをかけることの、何がおかしい?」
「だから、神は産み分けなどしないと言っただろう?男児に家を継がせるのは人々の定めた理であっ
て、神にはどうでもよいことだろう。それにアワシマ神が子宝成就の神ならば、男児殺しなんて手ぬ
るい呪いはしない。」
 神の怒りは苛烈だ。
 ヒルコ大神でさえ、己の試練に意に沿わぬ答えを出したというだけで、子供を奪っていく。ならば
それはアワシマ神も同じこと。
 おそらく、それは、男児も女児も生まれぬ、一族断絶の容赦のない呪いだ。
 では、ならばアカネの呪いは何に根差しているのか。
「瀬津郷にはどうしてもヒルコ大神の伝承が多くなる。アワシマ神は実はその姿もあやふやで、伝承
そのものも少ない。アワシマ神を祀る社は泡ノ島にあるのだけれど、そこは瀬津の宮家が管理してい
るものの、彼らでさえ行くことは稀だ。」
 彼らの代わりにきちんと管理している宮司がおり、港を整える夫妻が暮らしている。それ以外に泡
ノ島に住む者はいない。
 だが、泡ノ島に暮らす三人に食料を受け渡す者がいる。その役を漁師業の傍ら、長年務めていたの
が、ウオミの祖父であった。網元の家に生まれたワタヒコは、若い頃から宮家に奉じる魚を用立てて
きた。
 リショウとリツセが桟橋を訪れた時、ワタヒコは生簀の中を覗き込んでいた。その背中を見ただけ
でもがっしりとした筋肉が身体中に付いていることが分かり、七十を超えた現在も未だかくしゃくと
している。髪は既に真っ白だが、しかし振り返った顔に刻まれた皺は、老いよりも経験を感じさせた。
 すでに網元の座は息子――即ちウオミの父親に譲っている。第一線を退いた後は、己がいては他の
漁師どもが誰に従えば良いのか分からぬ、場が締まらぬと言って、とんと漁のことに口を出すことは
ない。それでも海から離れる気にはなれぬのか、今も時折一人小舟を浮かべて、沖合に釣りをしにい
くという。
 一人釣りの所為か、振り返ったワタヒコの顔は日に焼けて赤い。赤ら顔の男臭い顔を、老人はリツ
セとリショウを見るなりにやりと歪めた。
「これはこれは、最近噂になってる二人じゃねぇか。いつまでも俺のところに姿を現さんから、待ち
くたびれとったわ。」
 果たして一体どんな噂が立っているのやら。
 渋い顔をしたリショウに、ワタヒコは、くくっと笑った。からかわれているのだ。しかしそうやっ
ているところを見るに、どうやらウオミのようにリショウに含むところがあるわけではないらしい。
彼は孫とリショウのやり合いを知っているのだろうか。
 訝しむリショウを他所に、リツセは白い服の裾を海風にはためかせて、ワタヒコに近づく。水守達
も、ぴょんぴょんと人間から飛び降り、生簀の中を物珍しげに見下ろし始めた。そんな水守達に、落
ちるなよ、とワタヒコは声をかけると、リツセに向き直る。
「それで、俺に何の用だ?久寿玉師が出歩くには少々時間が早すぎやしねぇか。」
「ウオミから何か聞いていませんか。」
 リツセは、この、とリショウを指差す。
「この男が、男児殺しの呪いについて聞きまわっているとか、そういう話を。」
「ああ、言っていたな。」
 ウオミの豹変ぶりなどまるで対岸の火事と言わんばかりの様子で、ワタヒコは頷く。いや対岸の火
事を見守る野次馬の面白そうな光さえ眼に浮かべている。
「男児殺しの呪いについて嗅ぎまわっている、あの男は宮様を貶める連中の一人だと騒いでいたな。」
「宮様から何かを言われたわけじゃなくて?」
「宮様が、なんであんな娘っ子に気をかけるかよ。あいつはまだ一人で漁にも出れねぇひよっこだ。
あいつに話がいくならこの俺の耳にも届くだろうよ。」
 長年、宮家の為に船を漕ぎ、ヒルコ大神の捧げものとしてフカをまるまる一匹捕え、淡ノ島の荒れ
 狂う渦を掻き分けてきた老漁師は、自負するように胸を張る。この海で、ウオミの知っていること
 で、彼の知らぬことはないのだ。彼の知識は、即ちウオミの知識なのだ。
「ウオミの奴も、いつかは婿を取ってその婿が網元になるだろう。その時のためにと俺らは海に纏わ
る色んなことをあいつに教えてきた。だが、今回ばかりはそれが仇となったようだなあ。」
 兄さん、とワタヒコは赤ら顔をリショウに向けた。
「あんたには迷惑をかけちまったな。だがあいつも宮様に仕える漁師として一生懸命だったんだろう
よ。あんたが余所者だったことも不味かった。我ら瀬津郷の者は、宮様を揺るがす者を許さない。宮
様は瀬津郷そのものだ。余所者が瀬津を揺るがすように見えたんだ。それで先走っちまったんだろう。」
 せめて、とワタヒコは呟く。厳めしい顔に、何か懐かしむような影を浮かべて。
「リザト様が出ていく時、ウオミがもうちっとばかしでかけりゃ良かったんだ。リザト様の顔を覚え
ているくらいにな。」
「リザト………?」
 リショウは不意に出てきた名前を、怪訝に繰り返す。そんなリショウにワタヒコは懐かしむ顔を止
めない。遠い過去を思い出しているらしいワタヒコに代わって、今すぐ隣にいるリツセが答えた。
「宮様の末弟だ。以前、貴方が郷に来たばかりの時に言っただろう。私には行方知れずの叔父がいる、
と。」
 波音に重なる声に、リショウははっと思い出した。決して忘れぬであろう瀬津郷で暮らすことを決
めたその日。リツセと互いの中に流れる血を見出したあの日、確かに彼女に纏わる家系について耳に
した。
 そして、リショウがリツセの中に姉の線を見出すように、リツセもまたリショウの中に近しい人の
色を見出していた。
「どこがってわけじゃあねぇんだがな。」
 ワタヒコの声がする。
「ただ、なんとなしにしてるんだ。お前さんとリザト様は。リザト様も何処かに流れていくような雰
囲気があって、実際にそうなっちまったから、似てると思うのかもしれねぇが。」
「いつ、気が付いた?」
 リショウもリツセも、敢えて互いの血脈のことは他言しなかった。知っているのは二人と、そして
リショウに付き従う者だけだ。もしもリショウがリザトというリツセの叔父に似ているのなら、瀬津
の者は二人の中に行き交う血に気が付いているのだろうか。
「いや、気が付くのは古い人間だけだろうなぁ。それにリザト様も宮家の者だったから、おいそれと
我らとは話せんよ。市井に降りたリヒロ様は別だったが。」
 くつくつと笑う老漁師の横顔には、邪気はない。海の隅々にまで響き渡りそうな野太い声の漁師は、
それで、と若者二人を見た。
「この俺に、男児殺しの呪いについて聞きに来たか。」
「はい。ウオミが知っている話なら、間違いなくワタヒコ殿も知っているはずですから。」
 果たして、ウオミにそれを教えたのはワタヒコだったわけだ。だが、ワタヒコがそれをおいそれと
話すかは、まだ分からない。老漁師は、二人から眼を逸らして、生簀の中に落とした網を手繰り寄せ
ている。その口が開く気配はない。
「話せないことなのか。」
 リショウが俯きがちな赤ら顔に問うた。ウオミがリショウに語れぬように、ワタヒコもまた語らぬ
のか。だとすれば、やはり男児殺しの呪いは宮家にも関わりのあることだということだ。
 宮家が関わっていることを裏付けるだけの意味はあった。リショウは無駄足になりそうなこの訪問
を、そうやって徒労ではないと言い聞かせる。その最中、固く引き結ばれていたワタヒコの口が、よ
うよう開いた。同時に、老人とは思えぬほどのしゃんとした動きで、ワタヒコは立ち上がった。手に
はたった今引き上げたばかりの網が握られている。
 ぽたぽたと雫を落として、桟橋に不思議な模様を描いている網の中には、ぎっしりとアワビやらサ
ザエやらが入っていた。
 重たそうなそれを、ワタヒコはまるで綿袋でも持つかのように軽々と持ち上げ、リショウを一瞥す
る。
「これから俺はこいつを焼いて朝飯代わりにするつもりだが、お前さんらもどうかね。」
 ちょっとばかし酒も飲むがな。そう笑う漁師に、リショウはますます顔を顰める。これでは、グエ
ンのように眉間に皺ばかり寄せるようになってしまう。そう思った矢先に、ワタヒコは、朝の海の波
音に混ざりそうな声で呟いた。
「酒が入ったほうが、喋りやすいこともあるからな。」
 思わずワタヒコを二度見したリショウを置き去りに、ワタヒコはさっさと歩き始める。立ち尽くす
リショウを水守達が追い抜き、そしてリツセがワタヒコの後に向けて足を踏み出した。
「リショウ、置いていくぞ。」
 ちらりとリツセが肩越しにリショウを振り返ったが、すぐさま視線はワタヒコの筋肉質な背中に戻
された。