小さな水守が、その身体に似合わぬ足の速さで目の前を走っている。トカゲに輪郭が似ている似て
いるとは思っていたが、実際のところトカゲよりもずっと丸みを帯びており、その手足の短さからど
うしても愚鈍なように見えてしまう。だがその印象を払拭するほど、きんときという名前らしい水守
は、トカゲさながらの素早さで、暗い路地を走っている。
 白い水守の身体は夜であっても良く映える。触れば柔らかいその背中は、星明り一滴逃さぬのか両
手足が動くたびに滑らかな光の流れを生み出している。
 なんとも奇妙な生物のいる郷だ、とグエンは跳ねるように走る水守の後を駆けながら、今更ながら
思った。まるで人の言葉を解しているかのように行動し、時に人以上の傲慢さを見せる水守。正体は、
この地に坐す、不具でありながらも人の幸を齎す、偉大なるヒルコ大神の化身であるという。
 動物を神に見立てるということは、どの土地でも良くあることだ。人を神だということも国という
権力を包括している場所であるならば当然あることだ。グエンの郷里、即ちリショウの郷里でも、そ
ういったことはあった。
 大陸の砂漠を越えた果てにある郷里の昔々の言い伝えで、自分達の長たる者は神の血をひくのだと
言われてきた。日の出ずる東の果てからやってきた神の娘の血をひいているのだ、と。夢物語のよう
なそれは、けれども長の一族から李翔という、他の土地へ移ろう新しい長が現れるたびに、一絵巻ず
つ増えていくのだ。これは紛れもない真実であるとして。そして、李翔の絵巻を書き留めていくのは、
他でもない李翔に付き従う五氏族がその役目を担う。
 少しばかりお調子者の傾いのある若者が、ふらりと李翔を名乗り、そうしてよもや始祖の産まれた
島へ行くとは想像もしていなかったし、はてこの絵巻物を一体どうやって記していくべきかと悩んだ
ものだ。
 はっきり言ってしまえば、リショウの絵巻物はそこまで突飛抜けたものにはなるまいと、グエンは
思っていた。過去の李翔の物語は、国起こしもあれば逃亡譚もあり、何処かの国の嫡子との悲恋もあ
った。しかし西の果ては未だ動乱続けど、かつてほどの幻想に満ちた世界ではない。過去という夢見
酒を除いたとしても、やはり今の時代、その時ほどの英雄譚は語れまいと思う。
 だが蓋を開ければどうだ。目の前で必死に蠢く白い滑らかな動きは、グエンも想像もしていなかっ
たものだ。
 なるほど英雄譚ではないだろう。この郷はリショウという海を渡ったものによる救済は必要として
いないし、リショウの首級を上げたところでなんの栄誉にもなるまい。婚礼とて同じこと。
 けれどもリショウの中に息づく神の娘の血は、決して絶えていなかった。でなければ、まさか分か
たれた同じ神の娘の血を呼び寄せるわけがあるまい。そして分かたれた血は、リショウが長い年月の
間に失ってしまった神性を、まだ持ち続けている。呪いと祝詞と。神を口にしながらもその息吹を感
じぬグエンの故郷とは違い、この郷には地の底天の頂で神がこちらを見つめている。
 だから今、自分達は神の息吹の一端である呪いに纏わる騒動に巻き込まれているのだ。目の前の白
い生物は必死に脚を動かしているし、グエンものっぴきならない状態に陥っているリショウを救うべ
く走っている。
 遠い遠い過去、神の娘が第一子である李翔は、彼もまた神の名を持っていた。李翔は崩れた国から
五氏族を引き上げ、狂乱に沈む国から新しい土地へと移ることの先頭に立った。その李翔でさえ、き
っとこれほどまでに神に近づいたことはないだろう。
 神の血をひきながら正面切って呪いと対峙した李翔は、無数の絵巻物の中できっとお前が初めてだ
ろう。
 そして分かたれた血と、再び会い見えた者も。
 きぃ、と先導する水守が鳴いて立ち止まる。ささっと後退りした水守に、グエンも足を止め、水守
が見据える闇を凝らす。日のない昏い道からは、幾数人の足音が聞こえる。早い足並みは、何かに急
かされているのか。
 ぱたぱたと闇から伸びてきた脚に、グエンは眉間に皺を寄せた。湧き出た男達は皆目深に笠を被っ
ており、腰に帯刀している。それだけならば武家ですんだだろうが、日も暮れた中武家がかくも急い
で、明かり一つ持たずに駆けているのは何故か。
 通り過ぎ去る男達に、グエンは次の瞬間に声をかけた。
「待て。」
 濃厚な血の匂いがしたのだ。この道の先に、おそらくリショウがいるであろうと確信しているグエ
ンにとって、そこからやってきた男達から漂う血の匂いは、看過できない。
 グエンの声は低かったが、しかし有無を言わせぬ強さと良く響く鋭さがあった。峻厳であり苛烈。
グエンに望まれるのは、何人たりとも罪事を許さぬ厳正さと些事さえも見逃さぬ厳格さであった。
 その声音に何か含むところがあったのか、通り過ぎるばかりの足音が、ひたりと止まる。数は数十
人、こちらは一人。だが、グエンにとって相対するものが何人であろうとも意味はない。
「血の匂いがするが、何事か。」
 ぐるりと振り返り、顔を闇に溶けさせた男達を見やる。きぃ、と鳴き声がして水守が肩に乗った。
神の小さな化身も、この郷で起きた凶事を見極めるつもりだ。
 神の御許にあって、男達は無言であった。ただ、そっと引き寄せた刀は雄弁だ。刃を引き抜くとい
うのなら、グエンも容赦する必要はない。この郷においてグエンは法ではないかもしれないが、リシ
ョウの御前であるならば、グエンはただ己の中だけにある法の化身と化すことも厭わない。この郷と
自分達の法は遠く離れており、故に私情と判断されるだろう。その果てに胴と首が外れて転がったと
しても、グエンには何ら躊躇うところはない。
「お待ちを。」
 肩に力を籠めて身構えたグエンの背に、涼しげな声が当たった。硝子を打つような鋭さを籠めた声
だった。決して不快ではない。
「その者達の中に、一人怪我をしているものがいる。どうか見逃しを施せぬか。」
 カタンカタンと、下駄を鳴らしながら闇を切り裂く白も涼しげな立ち姿が現れた。ただしこちらも
笠を目深に被っている。袴は見事な紫に染め上げられているのが印象的だ。破れた右の袖だけが、膿
んでいるかのように場違いだ。
 咄嗟に、リツセに似ていると思ったグエンの耳に、やはりリツセと同じく耳に心地良い声が届く。
その声に被さるように、立ち止まっていた男達が、さっと闇に紛れて消えた。
「貴方のお連れは無事だ。怪我一つしていない。」
 消えた男達を惜しいとは思わず、グエンもまたこれ以上の深追いはすべきではないと判断した。闇
を切り裂くほどの存在感を示す男が、リツセに似た空気を持っていることからも明白であった。
「………彼の方は私の連れではない。」
 男達を追う代わりに、グエンはきっぱりと言い放つ。
「彼の方は我が主。連れなどという軽々しいものではない。貴公にしてみれば我等は賎しき身の上に
思われるかもしれぬが、しかし我らにも矜持はある。以降、彼の方を軽んじられることがあるならば、
この私がお相手いたそう。」
 そうとも。
 グエンは男の見事な袴と、リツセに似た空気を見て、腹の中で頷いた。
 そうとも、リショウも紛れもなくこの地の神に連なるものだ。眼の前で相対する男と並び立つ血筋
にあるものだ。海に流れ出たからといって、軽んじられる謂れはない。
 きぃ。
 肩の上で、きんときが鳴く。
 ふっと、笠の向こうで男が笑ったようだった。その時グエンは、男がまだリショウと大差ない年の
頃ではないかと気づく。笑った青年は、ゆっくりと頷いた。
「覚えておこう。」
 グエンに対して何の気負いも見せず、青年は白い背を向けて、此処に己の敵などいると考えたこと
もないかのような穏やかな足取りで闇の中に沈み込んでいった。遠ざかる足音が不明確になるまで、
グエンは男達が消えた闇の中を見つめ続ける。
 影の濃淡も分からぬ闇と足音が一体化した時、背後から明快な足音がやってきた。振り返れば、額
に泥をつけて、両肩に小さい水守を乗せ、背中に薬箱を背負った彼の主が、ざくざくと歩いていると
ころだった。小脇には何か白いものを抱えている。グエンの肩にいる水守と、リショウの肩にいる水
守が、きぃきぃと呼応し合った。
「なんだ、来てたのか。」
 グエンの背の高い影に気が付いたリショウは、地面に落ちた影の先端に止まる形で立ち止まる。
「よく俺の居場所が分かったな。」
「きんときが知らせに来た。」
 そう言って、グエンが自分の肩に乗っている水守を指すと、主は怪訝そうな顔をした。そして己の
両肩に乗っている水守を交互に見やり、
「こいつら、名前があったのか……。」
 と呟いた。
「リツセ殿にきいた。」
「ああそう。っていうか、あいつはこいつらの顔を見極められるのか。」
「そのようだ。」
 リツセがきんときの名前を呼んだ時、グエンは怪訝な顔をしたのだが、グエンの表情にきがついた
リツセは怪訝な顔をし返したので、瀬津郷では水守の顔を区別できるのはごく普通のことなのかもし
れない。
 だが、今は水守の顔の区別についてはどうでもいい。
「先程の連中は。」
「ああ、すれ違ったか。後をつけられててな。ちょっとばかりやり合った。」
リショウは微かに口角を持ち上げた。歪んだ表情は、リショウが己を襲った相手が何に属するものか
察していることを示している。
「あの男は、お前に怪我はないと言っていたが。」
 微かに血が滲んでいる泥のついた額に、グエンは少し顔を顰めた。涼しげな男は、嘘を吐いたのか。
するとリショウは、グエンの表情に何を見て取ったのか、少し慌てたように口を開く。
「おい、別にあいつら相手に後れを取ったわけじゃないからな。これはこいつを捕まえる時に出来た
もんだ。」
 額と、小脇に抱えた白いものを指差しながら、リショウが言う。リショウが指差す小脇に抱えられ
たものを見て、グエンはどのような表情を浮かべるか悩み、結局仏頂面のままでいることにした。
 リショウの小脇に抱えられているのは、リショウの血の片割れであるリツセの家に住み着く水守で
間違いなかった。むっつりとした態度は、水守の区別がつかぬ大陸人にも、それが彼の水守であると
教えている。
「こいつがだな、あの男――紫の袴を履いた奴がいただろ?あいつの袖を食い千切ったんだ。で、奴
らが立ち去った後、こいつも食い千切った袖を咥えたまま何処かに行こうとしてたから捕まえたんだ。
袖の切れ端でも、あれば奴らが何者か判断できるだろうと思ってな。」
 例え、腹の底では彼らが何者であるか、察しが着いていても。
 小脇に抱えられた水守は、己の状況が不本意であるのか、半眼になってこちらを睨んでいる。水守
の目つきが悪くなっていることにはリショウも気が付いているのか、まあまあと宥めるような声を出
している。
「こいつのおかげで奴らを追い払えたのは事実だ。だから袖を取り上げた後、甘い物でも食わせてや
るさ。」
 常に大福やら饅頭やらを奪われている主の言葉に、グエンは頷く。頷くとともに、主の言葉の中に
聞き捨てならないものを拾い上げる。それは、リショウの額の泥と傷が、襲撃者に付けられたと思っ
た時に閃いたものと同質のものである。
「そうだな。しかしリショウ、つまりお前はそこにいる手足の短い丸みを帯びたトカゲのような生物
に助けられたというわけだな。」
 水守という名前ではなく、わざわざ水守にとっては侮蔑に近いような言葉を選んだのは、別に言葉
通り水守を貶めたいわけではない。
 そうではなく。
「お前は先程、奴らに後れを取ったわけではないと言ったが、実際は水守に助けられねば現状を打破
できなかったわけだ。」
 グエンの言わんとしていることに――というか先程慌てて回避した危機が再び舞い戻ってきたこと
に気づいたリショウが、顔色を変える。だが、厳正たるグエンが主の顔色一つで心動かされようか。
「この郷で騒動を起こせぬという理由は理解しよう。しかしそれならば、それ相応の対応ができたは
ず。しかし現実のお前は水守に助けられた。それは一族を纏める長として如何なものか。前々から思
っていたがこの郷に来てから、お前は少々自堕落ではないか。鍛錬もせず、出歩いてばかりいる。来
たばかりの頃は慣れぬ土地ということもあったしそもそも此処は平和な地でもあったから、周りに溶
け込むことを第一として大目に見ていた。だがこのような襲撃を受け、且つ己が力で切り抜けるほど
に腑抜けているとは一大事。明日から、再び朝夕の鍛錬を行うように。」
「……………はい。」
 畳みかけるような臣下の諫言に、神の化身を両肩小脇に纏った若き主の返答は、酷く短かった。