時間は少し遡る。
 リショウは、わざと薄暗い路地を選んで歩いていた。瀬津郷は豊かだが、それでも中心部から離れ
るにつれ、立ち並ぶ家々は疎らになり、古ぼけて果たして人が住んでいるかどうかも疑わしい場所が、
綻び出てくる。ヒルコ大神が坐す赤い鳥居は既に見えず、西の朱とは対照的に東の空が藍色に真珠の
粒を塗し始めたその下では、鉛色よりも重い影が落ちかかっている。
 荒れた田畑の向こうに山裾と滲みあう夕日を見て、リショウは背後の気配もまた己と同じように、
人気のない場所に行くことを好んでいるのだと思う。
 つけられていると気が付いたのはいつ頃だったか。
 豹変した漁師の娘と別れ、何故に唐突に彼女が態度を変えたのかを考えている最中に、ふと自分を
取り囲むように物騒な気配があることに気が付いたのだ。頭と両肩に乗っている、小さな水守達が、
いつもはリショウと同じ方向を向いているところを、わざわざ尻尾をリショウの顔面に垂れさせて背
後を見ていた。彼らもリショウを巡る不穏な人影を見つめていたのだ。
 じりじりと距離を詰めながら追いかける者の数を、リショウはただ気配だけで数える。少なくとも
五人はいるところまで数えて、それ以上は数えたところで無駄だと判断して止めた。どうせ乱闘にな
れば、相手が五人だろうが十人だろうが一緒だ。
 奴らがリショウをなんと思っているのかは分からない。そもそも、何故リショウを付けているのか
が分からない。
 思考を巡らせれば思い当たるのは、やはりウオミだ。リショウが男児殺しの呪いを調べていると知
ったとたん豹変した漁師。宮家には無条件で従順に頭を垂れる者。それはもしかしたら瀬津郷に住ま
う全ての者に当て嵌るのだろうか。だとしたら、自分はいつから見張られていた。そして彼らは彼ら
の信奉する宮家に、リショウのことを何と言ったのか。
 考えても嫌な想像しかできない。背後に迫る者が、リショウの立ち姿が絵になると思って付き纏う
絵師のようには到底思えないし、リショウの背負う薬箱を見て薬が欲しいが買えない哀れな病人だと
も思えない。薬売りは金になるからリショウの持つ金目の物目当ての追剥だという想像は辛うじてで
きるが、それはリショウに危害を加えると想定される者の中で、一番可愛い者だった。
 宮家の息がかかった者。
 男児殺しの呪いについて詮索されることを疎んじたウオミの背後には、どうしたって宮家の影がち
らつく。彼らの末端の者にさえリショウは会ったことがないが、今、自分を追い詰めようとしている
であろう連中の顔が、薄らと見えるような気がした。
 会った事も見たこともない知らない顔に向けて、リショウは腹の中だけで問う。お前達の琴線に触
れたのはどちらだ、と。男児殺しの呪いか、それとも職人街にひっそりと住まう久寿玉師か。
 どちらが理由であっても――否、前者は後者に帰結するのだから同じか――リショウが彼らに屈す
る理由にはならない。むしろこの理由があるからこそリショウは屈するつもりがない。
 来たければ来い。神代の昔から続く血脈は、なにもお前達だけではない。
 祀る血脈は紛れもなくリショウの片割れであろうが、しかし顔が御簾の向こうに隠れた血脈よりも、
確かに今を息づいているリツセこそが、分かたれた血脈だ。それを知るのは、リツセと、リショウの
僅かな部下だけだが。
 だが、だからこそ、背後に迫る連中はリショウを軽んじ、侮っている。流石に、初夏の野草ばかり
が茂る畦道に誘い出されたのだから、リショウが彼らに気づいていることは分かっているだろうが。
けれども、リショウのことなど、この場で切り捨てれば良いだけの大陸人としか思っていないに違い
ない。ましてリショウは丸腰だ。背中に背負うのは薬箱で、両肩には水守がいるだけだ。奴らは水守
には手を出さないだろうが、しかし小さい水守がいたからと言って何らかの戦力になるとも思わない。
きゅっと首根っこを引っ掴まれて終わりだろう。
 そう言えば、一匹いないな。
 リショウは、頭の上に乗っていた水守がいなくなっていることに気が付いた。何処で頭から飛び降
りたのか。背後の気配を探ることにかまけていて気づかなかった。だが、水守一匹いなくなったとこ
ろで、やはり現状は変わらない。
 西日を受けて赤く荒涼としていた田畑は、夕日が完全に山の向こうに消えた今や、完全に姿を闇に
沈めている。微かに草が掠れ合う音以外に、そこに何があるのかはほとんど分からない。辛うじて、
生き物の気配がしないことだけは悟ったが。待ち伏せされていないことがわかっただけでも有り難い。
誘導しているつもりが誘導されていただなんて、笑い話にもならない。
 延々と続く畦道が、ふつりと消えた。ここが瀬津郷の果てらしい。何処か別の郷に続く道もなく、
唐突な跡切れだけを見せている。この先を、いつだったか誰かが夢想したかどうかは、リショウには
推し量ることもできない。今のリショウには瀬津郷の土地拡張よりも、するべきこと考えるべきこと
がある。
 行き止まりの道のど真ん中で、リショウはおもむろに背負っていた薬箱を置いた。その直前に、肩
に乗っていた水守達は地面に飛び降りている。それでいい。リショウも関係のない生き物を巻き込む
つもりはない。
「ここでなら、お前達もこそこそ隠れる必要はないんじゃないか?」
 振り返りざまにそう言ってやると、背後にいた影が一瞬だけさざめきを立てた。暮れなずんだ空の
下、迫っていた気配は闇よりも濃い。だが、影を恐れるくらいなら、故郷を離れて冷たい風の下を歩
こうと決めたりはしない。
 闇を透かして見えた人影はざっと十人。相手として不足があるかそれとも充足しすぎているか、そ
れはこれから分かることだ。
 何者か、なんていう誰何を放つ時間は無駄だ。どうせ奴らは答えないだろう。人の上に君臨するほ
ど高い者ほど、纏う影は深く足元の闇は暗く、故に問いかけに応じるほど脆弱でもないだろう。なら
ば、今から捉えてその声で語らせるまでだ。
 多勢に無勢を地で行く輩に、礼儀をくれてやる必要はない。リショウは声一つ上げずに群がる影に
飛び込んだ。相対する者の腰に、つらりと光る得物があるのは知っていた。大陸にある分厚い刃では
なく、すらりと細長い片刃だ。横合いから叩き落せばすぐに折れる、しかしその第一刀を躱さねば身
体の一部が見事な断面を見せて切り落とされるだろう。
 だが、リショウとて伊達に数人の部下だけを連れて長旅をしてきたわけでもなければ、部下数人し
かいないのに長を名乗っているわけでもない。長を名乗り、旅をしてきただけの腕前と豪胆は身に着
けている。切れ味鋭い刃如きに怯えるようでは、この名が廃る。
 無言で突進してきたリショウに、咄嗟に対応できなかったのだろう、微かに身を固くした二人を狙
ってリショウは拳と足を突き出した。一人の顎に拳を叩きこんで仰け反らせた後、もう一人の腹に足
を突き入れる。ごふ、と何かを吐き出すような音が聞こえたが、それに慈悲をくれてやる暇も義理も
ない。蹴り上げられて仰け反った男の手にあった片刃の刃を、逆に奪い取る。
 手の中に納まった刃は、リショウが手にするにはあまりにも繊細で、数回振り下ろせば血糊は飛ぶ
だろうが、同時に折れるであろうなと思う代物だった。だが、使えぬわけではない。長物のほうが得
手ではあるが、獲物についてうだうだと文句を言うような鍛錬はしていない。
 手の中でくるりと柄を回転させると、横薙ぎに一番近くで刃を抜き放ったばかりの男の首を払った。
喉仏を強かに打ちのめされた男は、声も出せぬままに悶絶する。血は飛ばない。リショウが群がる影
に剥ける刃は峰だ。ここで、まして相手が誰かも分からぬ状況で、殺しを行うほど愚かではない。夜
が明けて殺した男の顔が白日の下に曝された瞬間、それが宮家に関わるものであったなら、リショウ
が罪人になるであろうことは容易に想像できる。流れた血が、自分の脚に絡みつく様など考えたくも
ない。
 だからリショウの一閃は、如何に鋭くても致命傷にはならない。精々、相手が悶絶し、地面をのた
うち回るだけだ。
 キィン、と人を斬る為の道具にしては、あまりにも涼しげな音を立てて、男の振り下ろした刃と、
それを受け止めたリショウの刃が噛み合う。このまま鍔競り合ったら、刀のほうが折れてしまいそう
だ。だからというわけではないが、リショウはすぐ目の下にある男の腹を蹴り飛ばす。後ろにもんど
りうって尻餅を突いた姿を最後まで見ずに、背後に迫っていた一人の顔を峰で叩く。
 もしも、リショウが後先顧みずに斬ることを選んでいたなら、後に残るのは血の海であっただろう
が、この場はすぐに治まっていたことだろう。峰ではなく刃であったなら、既に一人は首を刎ね飛ば
され、一人は顔面を叩き斬られて死んでいる。誰が何と言おうと、リショウは一族の長であり、軍を
纏める将だ。たかだか十人程度の死線など屁でもない。
 だが、殺せぬ故に戦闘は長引いた。叩きのめしても、相手もある程度の武人であるため、再び立ち
上がる。そうなるとどうもリショウの分が悪い。
 舌打ち一つして、眼の前の男の脳天を峰で叩き落した後、振り返りざまに刀を振りかぶる影の脚を
払う。しかし誰一人として倒れないのできりがない。リショウの苛立ちは、群れる者どもにも伝わっ
たのだろう。それとも最初からリショウが斬らぬと思っていたのか。男達は、最初のリショウの迎撃
には躊躇ったものの、再び勢いを取り戻してリショウを囲い込もうとしている。
 もしかしたら、彼らもまた、リショウを此処で斬り落とすよりも生け捕りにして白日に曝すことを
選んだのかもしれない。殺気めいたものが薄らいで、リショウの体力を奪う方向へと持ち込んでいる。
 奴らの思う壺に嵌れと。冗談じゃない。その時は瀬津から逃亡覚悟で、本気で斬りかからねばなる
まい。
 リショウが手の中の刀を回転させ、峰から刃へと変貌しようとしたその時。
「うわ!」
 初めて、相対していた男達が声を上げた。今にも刀を振り下ろそうとしていた一人が、振り上げた
手をそのままに、何やらよろけている。仲間の突然の叫び声に、周りにいた群れも動揺したのか動き
が止まった。
 凝然とした空気の中、叫び声を上げた男だけが、刀から手を離し、手を顔の前にかざしている。と
思っていたら、
「わっ!」
 更にもう一つ声が上がった。動揺する男達の中で、同じように手を顔の前にかざして右往左往して
いる者が一人。
 その場で身を捩る二人の男の顔には、両方ともしっかりと白くて丸っこいトカゲのような輪郭が張
り付いていた。
 戦いの直前に、リショウの肩かた飛び降りた二匹の水守であることは、すぐに知れた。瀬津の者は
水守に手荒なことはできない。飛び掛かられた男達も、その感触から顔に張り付いているものが水守
であると分かったのだろう、引き剥がそうとしては躊躇するといった手の動きを繰り返している。周
りで見ている仲間も、水守に無体を働くわけにもいかず、おろおろし始めた。
「ぎゃっ!」
 そして最後にもう一声。未だ刀を抜き放って、水守に飛び掛かられた仲間の様子を見つつも、リシ
ョウから刃の切っ先を逸らさぬ男――もしやこれがこいつらの頭か――が、悲鳴を上げた。
 仰け反る男が手に刃を握るその腕には、まるまるとした白い水守が一匹、手出しを躊躇う人間を尻
目に一切の戸惑いなく噛みついている。白い雷光のように男の手首に噛みついた水守は、噛みついた
時と同じくらいの素早さと躊躇いのなさで、男の手首の肉を引き千切った。
 水守の牙は鋭い。その気になれば人間の指程度食い千切ると言ったのは、リショウの分かたれた血
縁者だ。
 手首の肉を食い千切られた無様な人間の悲鳴など、もはや意に介する必要もない遠い過去の出来事
と言わんばかりの風情で地面に飛び降りた水守は、ふん、と鼻を鳴らした。ふてぶてしい態度。久寿
玉師の家に住み着く水守、たまである。
 たまに従って、残りの二匹も男達の顔から離れ、地面に降りたつ。
 きぃきぃ。
 小さな水守達が、影のような人間達に向けて鳴く。小さなヒルコ大神の化身が、鳴く。たまが、尻
尾をゆらりと一振りした。ヒルコ大神の化身の頭上で、リショウは刀の切っ先を男達に向ける。
 ヒルコ大神の化身の前で、これ以上の無様を重ねるつもりか。
 だが、男達は何かに縛られているのか、再び刀を構えはじめる。その背後にあるのは、ヒルコ大神
の御前で醜態を曝しても、止められぬほどのものなのか。これで男達が宮家のものならば、彼らの行
動は滑稽なだけであるというのに。
 きぃきぃ。
 水守達が鳴く。遠くで同じように、きぃきぃと鳴く声がする。水守が水守に呼応している。果たし
てそれは、本当に水守かな。水守のふりをしている、お前達の神であったなら、その時はどうするつ
もりだ。
 リショウの突き出した切っ先の先端に、一筋白い光が落ちた。月の照り返しだ。月が輝くほど、夜
が深まったのだ。
「下がれ。」
 切っ先に当たって弾かれた音のように、鋭く涼しげな声が、夜のしじまを切り裂いた。はっとした
のはリショウだけではなく、水守の前にあって引くに引けなくなっていた男達も同じだった。さっと
脇に退く男達の様子に、眉を顰めていると、男達の奥から、夜目に見ても紫の袴の見事な立ち姿があ
った。がっしりとした肩幅からして、男だろう。目深に被った笠のせいで顔は分からないが、声から
してリショウとそう離れていない。纏う白の袷は清廉に闇の中で際立っている。
 刃を打ち合うような男の声の意味を悟った群れは、先程までの拘泥が嘘のように、潮が引くように
闇の中に消えていく。
 逃げるのか。
 リショウが微かに眉を顰め、口を割らせるためと言うよりも、半ば腹いせの意味を込めて、手の中
に残っていた刃を男達の足元に投げつけようと動いた途端、ただ立ち尽くしていただけの紫の袴が、
美しい所作で帯刀していた剣を抜き放った。素晴らしい直刃が、リショウの喉元に向けられる。
 だが、リショウがはっとするよりも早く、リショウの足元で、かっと威嚇音がした。たまが、牙を
剥いたのだ。
 笠の向こうで、男の視線がゆるりとたまを見たのが分かった。水守は、再び尾を一振りし、強く地
面を打つ。遠くで、きぃきぃと水守が鳴いている。そして。
 たまは真っ直ぐに伸びた刃など微塵も恐れずに、男に飛び掛かった。そして、清廉な白の袖を食い
千切ると、再びリショウの足元に舞い戻る。
 袖を食い千切られた男は微動だにしない。視線をたまからリショウに戻し、僅かに見える口元を動
かした。
「血を流さなかったこと、礼を言う。」
 何を。
 怪訝な表情をするリショウの前、リショウは未だ刃を降ろさぬと言うのに、男は背を向ける。そし
て、来た時と同じように、闇の中を裂いていくように、ただし落ち着いた足取りで去っていった。
 さらりと風が流れ、水がせせらぐ音が漂ってきた。水守達が呼応する声は、いつしか止んでいた。