アカネは未だ、己の婚礼相手について話さない。
 呪いの家系だなんて普通に考えれば口を閉ざしたくなるものだから、妻となる者の判断としては黙
することは正しい。だが、呪いを解くとなれば沈黙が金ばかりであるというわけではない。語られぬ
呪いに、対処するのは困難を極める。誰がどのような意図で呪っているのか。これが分からないので
は、何処から手をつけて良いのか分からない。
 それとも宮家の者――傍仕えの者達ではなく、リツ姫の直系に当たる者達ならば、アカネの背後に、
彼女の夫となる相手が背負う呪いの形を見ることができるのだろうか。宮様を始めとするその息子娘
達は、巫として神の声を聴くとされている。ならば、神の声を聴くように、人には聞こえぬ呪いの声
を聴くことができるのか。もはや手の届かぬほどに過ぎ去った月日に、誰かが呟いた恨み言を拾い上
げることができるのだろうか。
 少なくとも、リツセにはそういった力はない。
 今の宮様の弟を父に持つリツセも、紛れもなくリツ姫の血を引いている。しかし生まれてこの方、
リツセはそういった、人の背後に立ち昇るものを見たことがない。幽霊にもお目にかかった事がなけ
れば、神に出会ったこともない。
 父と母は、それぞれヒルコ大神に出会ったことがあるらしいが、リツセのほうはさっぱりである。
ヒルコ大神の化身である水守は、毎日のように見ているが。
 そういうわけなので、リツセがアカネを見て、見ただけでアカネの背景を読み取るなんて芸当はで
きないのである。リツセに出来ることは、せいぜいアカネの言葉の節々から、奇妙な齟齬を感じ取り、
それを繋ぎ合わることくらいだ。
 アカネの言動から感じられる奇妙さは、リショウ達にも既に話してある。
 アカネが一人で瀬津にやって来たこと。
 無防備にも見ず知らずのザイジュを供に付けたこと。
 何よりも呪いを解くために瀬津に限定してやってきたこと。
 最初の二つは婚礼を控えた娘の行動としては、やはり少々行き過ぎた感がある。夫となる男の家系
に絡む呪いに居ても立っても居られず、呪いを解くために飛び出したにしても、侍女の一人くらいは
つけるべきだし、一人で飛び出した後、途中でザイジュを供にしたことも分からない。お伽噺ならば
ともかく、現実で嫁入り前の娘が、右も左も分からず困っている男とはいえ、それを供にすると考え
るのは奇妙でしかない。
 リツセはザイジュの実直そうな顔立ちを思い出す。確かにザイジュは何か間違いを犯すようには見
えない。しかしそれはあくまでも印象でしかなく、周りの眼から見れば嫁入り前の娘が若い男と一緒
にいるというふうにしか見えない。
 そんな事も分からないのか。何度も反芻した疑問を空に投げかける。繰り返された疑問は、やがて
ふと色を変えた。
 誤解されることを期待して、行動したのか。
 しかし、何のために。
 変貌した疑問は、新たな疑問を投げかけると同時に、遠くに連なる別の道を映し出す。その道が、
実は途中で砕けてしまうような薄氷の道であるかどうかは別として。
 だが、疑問の道にアカネが呪いの発端を知っており、故に瀬津にやって来たという仮定を付け加え
てみればどうなるだろうか。
 わざわざあらぬ誤解を与えながら、瀬津に関わりのある呪いを解こうとする。その理由は。
 リツセは以前よりも長くなった西日を、じっと見つめる。縁側に渡された橙の帯は、置きっぱなし
の座布団に当たり、座布団から短く黒い影の帯に変化している。
 座布団の上が空になっているのを見て、リツセは、おや、と思った。先程まで座布団の上にはたま
が乗っており、何やら外に向かってきぃきぃと鳴いていたのだが、いつの間にかその姿は見えず、し
かし庭にも丸いトカゲの輪郭はない。
何処か別の塒にでも行ったのか。
 たまはリツセの家に住み着いている水守だが、リツセに飼われているわけではない。好きな時に家
に上がり込むし、好きな時に出ていく。瀬津郷では水守とはそうしたものだ。ヤモリやイモリを飼う
ことがないように、水守も飼われず、ただその家にいる間はその家の水を守る。ヤモリやイモリと違
うところは、行動範囲が広いところだろうか。ヤモリやイモリが複数の家につかぬのと違い、水守は
気に入った家があれば何処であろうとするりと入り込む。
 だから、たまもリツセの知らぬ塒を幾つも持っていたとしてもおかしくはない。
 ならば、今日の晩御飯はたまの分はなくても良いだろうか。小石の影だけが見える道を眺めてリツ
セが思っていると、信じられないほど長い影が、自分以外の影を塗りつぶすようにして伸びてきた。
 西日を背負ってやって来る姿は逆光で顔が見えないが、瀬津郷の者にしては背が高いことが分かる。
眼を細めてその影を見やり、黒く塗りつぶされた顔の中を見極めてからリツセは声を上げた。
「グエン殿。」
 リショウの第一の従者にしてお目付け役。厳格という言葉が人格を持って、人の身体を成したよう
な男。鋭い眼差しとその上背だけで相対する者を威圧する事ができる者。そして――おそらくリショ
ウから、奇妙な誤解を受けているであろうその人。
 リツセはグエンと、グエンの背後にあるゆっくりと傾いていく日差しとを見比べ、続けて言った。
「リショウなら今日は来ていませんが。」
 途端、ぴたりとグエンの歩みが止まる。やはり夕方になっても帰ってこない主を捜しにやってきた
らしい。表情からは読み取れないが、リショウが此処にもいないことでグエンの気分が些か下降した
ことは明らかだった。
「そもそも、ここ数日リショウは此処には来ていませんが。おそらく調べ物で忙しいからでしょう。」
 男児が産まれぬ、産まれたとしても二十歳を越える前に死ぬ呪い。それについて調べ回っているの
だろうが、なんら音沙汰ないところを見ると、おおよそ予想はしていたことだが、難航しているのか
もしれない。そしてその調べ物にグエンも引っ張り出されているのだ。
 リショウがそこまで必死に調べ回っているのは、リツセのためであろうことは、リツセも知ってい
る。あそこまで大々的に、宮家と再び繋がることに顔を顰められたのだ。
 リツセと宮家のことについて、リショウには関係ないことだろう、と言うのは容易い。だが、そう
おいそれと関係ないと口に出せぬ部分があることは、リツセとリショウ二人が良く知っている。神代
の昔、自分達の血筋から枝葉のように別れて大陸に向かった、もう一つの家系。リツセはリショウの
中に自分の叔父の血を見出し、リショウもリツセに姉の顔を透かしている。
 ただ、リショウの場合は彼が主であるという事実から、どうしても彼の臣下にまで、二人の血脈の
影響が及んでしまう。それは時に、彼らの過去を引き摺るような形で。
「私はそんなに、リショウの姉君に似ていますか?」
 前々から思っていたことだったが、唐突の質問はグエンの虚を突いたようだ。表情の変化は相変わ
らず乏しかったが。
「リショウが似てる似てると言い、貴方がたも私を始めて見る時は息を呑んだので。」
 それほどまでかと。
 そしてそれ故に、リショウはグエンに妙な勘違いを起こしているのだ。
 グエンは一瞬言葉に詰まっていたが、すぐに首を横に振り、
「顔は非常に良く似ているが、それ以外は、あまり似ていない。」
 と返ってきた。返ってきた台詞にリツセは少しばかり片眉を上げる。それならそうとリショウに言
ってしまえば良い。でなければ貴方の主はこの先、貴方と私のことについて盛大な勘違いをし続けた
ままなのだが。
「貴女は、私が知る限りのリショウに連なる何者にも似ていない。それは恐らく、貴方がこちらの地
により近いからだろう。」
 かつてこの葦原国で、大蛇を弑した英雄とその妻たる姫君と。英雄は大陸からやって来た若者で、
姫君は葦原国を統べる皇の娘であった。ならば再び大陸に渡ったリショウの血と、この地に留まった
リツセの血は、やはり大きく隔たった何かがあるのだろう。それは決して悪いことではないだろうが。
「リショウにはそのことは言ってやらないのですか?」
「そのうち気が付くだろう。」
 いやそれはどうだろう。
 リショウの軽薄そうでいて、それでいて妙に頑固なところのある顔を思い出し、リツセは首を竦め
た。そもそも心底軽薄であるならば、しきたりやら体面に疎んじ、そこから抜け出た際に、部下に対
して一緒に来る必要はないのになんて気を揉んだりはしないだろうに。
 首を竦めているリツセの耳に、西日の向こう側から、きぃきぃと鳴く声が届いた。水守が鳴いてい
るのだ。蛙が激しく鳴くのは雨が降る時だが、水守は雨が降るからといって鳴いたりはしない。水守
は誰かに対する会話として声を上げる。激しく鳴くのは、何か言い争いをしているからか。
 水守同士の喧嘩というのはあまり見たことがないが、とリツセが橙色も眩しい道に眼を細めれば、
黒くて細長い蜥蜴が地面を這っていた。丸い水守の影も、西日に照らされれば普通のトカゲのように
なるのだ。その影の上を走るのは一匹の小さな水守だ。
「あれは、きんとき。」
 リツセは、原庵の家に住み着く三匹の水守のうち、一匹の名前を口にした。名前を口にした瞬間、
グエンの表情が微妙に物言いたげなものに変化した。どうしたというのか。
 だがグエンの表情の変化よりも、珍しく一匹で、しかも必死に走っているきんときの様子のほうが
気にかかる。いつも三匹纏まって、最近ではリショウの肩やら頭に登っているのが、たった一匹。ど
うかしたと思わぬほうがおかしい。
「どうした。」
 足元まで駆け寄ってきた水守に、屈み込んで問うと、きぃきぃと切羽詰まった鳴き声が返ってくる。
水守は正しく人の言い分を理解しているが、人は彼らの言い分を聞き取れぬ。だから、賢しい彼らの
仕草から言いたいことを読み取らねばならない。
 きぃきぃ。
 きんときが、西日が傾く時に座布団の上にいたたまと同じ調子で鳴く。
「たまを呼んだのか。」
 きぃ。
 頷く仕草。水守の耳は良い。遠く離れた所にいる仲間の鳴き声も、聞き取ることが出来る。彼らが
何処か遠く一点を見つめて、きぃきぃと鳴いていれば、それはそこに幽霊がいるのではなく、遠くに
いる友人か家族と話をしているだけなのだ。
「たまは、そちらに向かったのか。」
 きぃ。
「他の二匹は?それと、今日はリショウとは一緒ではなかったのか?」
 きぃきぃきぃと、リショウの名前が出た瞬間に、きんときの鳴き声が騒がしくなる。傍らにいたグ
エンの纏う空気が、先程よりもぐっと引き締まったような気がする。眼付きも先程よりもずっと鋭い。
「リショウに何かあったのか?」
 最後の問い。
 きぃ。
 一際大きな返事が返ってきた。同時にグエンが無言でリツセの脇を通り過ぎていく。グエンの長身
が進み出たのを見て、聡い水守も身を翻す。リショウのいるところまで案内するつもりのようだ。
 リツセもその後を追おうとしたのを、グエンが制する。
「貴女は此処に残るべきだ。」
 もしも事態が悪ければ、グエンはリショウを守ることを優先させ、リツセを守りはしないだろう。
即ち、足手まといだ。
 リツセもそのことはすぐさま理解したから、その場でたたらを踏むに留まる。その目の前を小さな
白い水守と背の高い影が、そのまま闇に沈みそうな赤く染まった道の上を駆けていく。道の先を眺め
てみるが、今にも姿を隠そうとしている太陽がこちらを眺めているばかりで、その先のことは何も示
さなかった。