瀬津郷と粟郷の間には、瀬ノ内と呼ばれる海が広がっている。年中、野分でも起きない限りは穏や
かな波を揺蕩わせている静かな海だ。ヒルコ大神が治めているが故に荒ぶることがないと言われてい
るその海は、しかし一箇所だけ難関がある。
 それは、粟の国にほど近い場所にある、淡ノ島という小さな島の周辺だ。
泡ノ島は、島に唯一ある船着き場を管理する夫婦と、小さな社に仕える宮司しか住まう人もいない、
所謂無人島に近い島だ。かつては、何処かの大名だかに水軍として仕えた海賊が、この島を根城にし
ていたという。その名残として石垣やら櫓やらが島中に散在しているが、しかしそれも昔の話。今で
は石垣はすっかり苔むして、櫓も蔦で覆われている始末である。
 圧倒的な静けさに支配されたこの島は、ただ、人の訪れが全くないわけではない。
 年に何回か、瀬津郷から必ず荷物を抱えた人々がやって来ては、荷物を島の奥へと運んでいく。一
見すればそれは、この島に住んでいる船着き場の管理人夫婦と、宮司の為に入用なものを運んでいる
と思われるだろう。
 だが、それだけならばわざわざ島の奥へ奥へと進んでいく必要はない。確かに時化を避けるために
管理人夫婦も宮司も、海岸線からは離れた場所に家を建てているが、かといって既に人よりも植物や
動物達のほうが支配権を握っている島の奥に家があるわけでもない。勾配が高くなり、木々が生い茂
る一歩手前の場所で、彼らは暮らしているのだ。そこ以外に、人が暮らしている場所はない。
 にも拘らず、荷物は人がいないはずの島の奥へと運ばれていく。獣道と言っても過言ではない、苔
と泥に覆われた石の階段を上り、木々の立ち塞がる道の上をゆっくりゆっくり運ばれていく。もしも
その行軍を見る者がいれば、ゆっくりと、非常に丁寧に運ばれる荷物の中身がなんなのか、不審に思
ったであろう。だが、そんな疑問は島の奥に辿り着けば払しょくされる。
 島には宮司が一人いる。宮司がいるという事は、もちろん社もある。先程述べたように、島には小
さな社が一つあるのだ。小さいけれども鳥居は朱塗りで、社自体も丁寧に掃除されて綺麗なものであ
る。
 社の前で紐解かれた荷物の中からは、お神酒や榊の他に、菓子や人形、そして久寿玉がたくさん出
てきた。それらは全て、この社の祭神に奉納される。
 社の主はアワシマという女神だ。ヒルコ大神のすぐ下の妹であり、小さな童女の姿で描かれる事の
多いこの神は、安産、婦人病などに対して霊験があると言われており、跡継ぎなどを望む商家や武家
が良くを捧げにくる。
 だが、この島にやって来ることは並の船乗りでは難しい。それが、一番最初に述べた、瀬ノ内の海
の、唯一の難所に繋がる。
 この小さな島――アワシマの名前をそのままとって、淡島という――の周りには、年中、渦が発生
しているのだ。春頃に特に大きく多くなる渦は、時に瀬津郷と粟郷の間を行き来する船を止めるほど、
巨大なのだ。熟練の船乗りでなければ、淡島には近づく事さえできない。だが、出産に深く関わると
いう神であること、そして何よりも人の慶事を司る偉大なるヒルコ大神の妹神であるということから、
この島に参拝しようとする者は少なくない。
 特に、跡継ぎに恵まれない武家が、その中でも跡継ぎが生まれぬとすぐに槍玉に挙げられる奥方達
が、藁にもすがる思いでやって来るのだ。
 だが、その日、こじんまりとした社の前に立った、見事な友禅を来た奥方は、どうも切羽詰まって
いる様子ではなかった。苔むした場所に友禅なんてものを着てやって来て、暑くて困るといった旨を
周りにいる従者に告げているところを見ても、武家の奥方の暇つぶしと言ったところか。
 従者達に風を送るよう、団扇を仰がせながら、古びてこじんまりとした社を面白くもなさそうに見
る。
「何を思って旦那様はわたくしをこのような場所に向かわせたのかしら。確かにまだ子はできぬけれ
ども、まだ、それほど急ぐこともないでしょうに。」
 心底うんざりとした口調で、獣道としか言えない参道を振り返る。勿論そこには、参拝客を目当て
にした出店などは一つも見当たらない。ざわざわとシダのような植物が揺れているばかりである。
 溜め息を吐いた奥方は、再び何の面白みもない社に視線を戻す。そして、あら、と声を上げた。
「これは、随分と綺麗な久寿玉だこと。」
 そう言って、何ら戸惑いなく、社に捧げてあった久寿玉の一つを手に取った。金銀白の紙を交互に
組み合わせ、目の粗い丸い籠のような久寿玉だ。その籠の中にはもう一つ小さな、こちらも丸いが、
しかし久寿玉一つの辺がくるりと内側に巻かれ、五つの辺が重なる頂点を中心に見ると、花のように
見えるものだった。色も、紅と桃が組み合わさっている。
 奥方の言葉に、誰かが、それはアワシマ神に捧げられたものです、と言った。子を願って、誰かが
捧げたのでしょう、と。
「そう。」
 奥方は、美しい久寿玉に見入って、御座なりな返事を返す。そして、あっと思う間もなく久寿玉を
懐に入れてしまった。
「この久寿玉は、わたくしがいただきます。」
 紅の惹かれた唇を、にっこりと吊り上げる。
「子が産まれる事を願って捧げられたと言うのなら、神の加護を一身に受けたということでしょう。
ならば、これをわたくしが持っていれば、わたくしにも子が生まれるはず。」
 いっそ無邪気な声でそう言えば、お付きの一人が叫んだ。
「なりません、そのような罰当たりなことを!それは神に捧げられたもの。供物を神から奪えば、必
ず呪いが降りかかりましょう!」
「まあ、何を言うの。呪いなんてあるわけがないでしょう。それに、子を宿す霊験のある神ならば、
子を必要としているわたくしに、加護を与えたとしても呪いなど与えるわけがないでしょうに。」
 祟りなど、と朗らかに笑い飛ばす奥方に、しかし従者は言い募る。
「いけません、いけません。どうかお返しください。」
「しつこい男だこと。誰か、この者を黙らせなさい。」
 気だるげな動作で、帯に差していた扇でひらりと従者を指し示すと、護衛の者達がわらわらと従者
に近づく。腕を取られた従者は、呆気に取られた顔をしたが、すぐにこの後自分の身に降りかかる出
来事に思い至ったのか、顔を蒼褪めさせた。
 屈翔な護衛達は刀を腰に帯びたまま、騒ぎ抵抗する従者の身体をずるずると引き摺って行く。
 見苦しい姿を一瞥して、奥方は参りましょう、と獣道に似た参道へと踵を返した。懐にある久寿玉
の感触を嬉しそうに感じて。付き従う者達も、ざりざりと足音を立てて踵を返す。
 奥方の友禅を着た後ろ姿に、従者の声が止まり、静けさが戻るその瞬間が振り落ちた。
 背後から、つん、と血の匂いが漂ったが、誰も振り返らなかった。