久寿玉をヒルコ大神に捧げて一カ月が経った。
 瀬津の郷の特産品といえば久寿玉であるが、しかし縁起物であるが故に一度ヒルコ大神にお納めし
てから、それを取り出すという工程がある。
 更にその時には、お納めした久寿玉とそっくり同じ久寿玉を作って、そちらをヒルコ大神に奉納し
なくてはならないのだが、それは些細な事である。
 重要なのは、ヒルコ大神にお納めした久寿玉は、再び取りに来るまでの間、本殿に納められ、誰に
も触れる事は出来ない。どこぞの悪戯坊主が入り込まぬよう、その場所には鍵がかけられる。
 誰かが久寿玉に触るなんてことは出来ないのである。
 だから、取り出された久寿玉に、一様にぺたぺたと小さな手形があるのを見て、久寿玉を拝領しに
きた久寿玉師達は一様に顔を見合わせ、苦笑いした。



 さて、どうやら泥のついた手で触ったらしいと分かる手形を見て苦笑いをした久寿玉師の中には、
リツセもいた。
 現在の瀬津の郷の宮様の弟君でありながらも、市井に降りた父を持つリツセは、若いながらも名の
ある久寿玉師である。
 彼女が今回ヒルコ大神にお納めし、その加護を封じようとした久寿玉は、さる大店の娘の婚礼祝い
にということで作った品であった。
 婚礼の為の久寿玉という事で、リツセは真っ白ではないものの、白に近い色――卵色と薄桃色の紙
を交互に組んで二十面体にし、一面一面にくるりと捻った襞をあしらったものを作った。
 しかし、白に近い紙で作った事が、今回ばかりは仇となった。
 茶色の手形は、くっきりと白地に映えている。
 やれやれ、と首を横に振りつつも、しかし作り直す暇もないのでリツセはそれを、娘の婚礼の控え
た大店に持っていくしかない。
 ただし、この時のリツセの足取りが重い、ということはなかった。
 そして、わざわざ重くする必要もなかった。
 リツセが取り出した、子供の手形のような模様のついた久寿玉を見て、大店の主人は喜んだ。
 これは縁起が良い、と言って。
 大いに喜んだ主人は、当初の予定よりも遥かに多い報酬をリツセに渡し、上等の菓子まで持たせて
くれたのである。
 報酬が増額された事には恐縮するが、菓子は有り難い。
 何せ、リツセの家にはちょくちょく菓子を食っていく輩が訪れる。



 リツセが温かくなった懐と、上等の菓子を持って店に帰った時、店の中には紙が散らばっていた。
 正確に言うならば、リツセの仕事場に、である。
 リツセの家は、主に五つの部屋がある。
 一つは商品を並べている店。これはほとんど部屋のうちに入らないが、客の応対をするのは主に此
処なので、なくてはならない場所である。壁にはぐるりと棚が取り付けられて、そこに商品が並べら
れている。久寿玉は基本的には依頼があって作り始めるものなのだが、旅人や遊覧でやって来た人々
が、お土産気分で購入できる商品を、店の中に置いている。
その店と続きになっているのが、客間のような空間である。話が長そうな客などは、此処に通すのだ。
そして客間の奥にエンヤとリツセの寝室があり、寝室の右側に台所がある。
仕事場は、客間の裏手だ。
 その仕事場に、真っ白な紙が散乱していた。いや、真っ白ではない。真っ黒な点が無数に落ちてい
る。よくよく見れば、真っ黒な点は点などではなく、一見すると小さな子供の手形のようであった。
リツセは、それを見て、肩を竦めた。この手形は、つい今しがた見たばかりのものだ。
 子供のようにあどけない手形。しかし、きちんと見れば分かるが、その指の数は五本ではなく四本
だ。紅葉のような手形は、ぺたぺたと白い紙の上に落ちている。
 ただ、犬猫子供が付けた足跡や手形と違い、ちゃんと白い紙の上だけに留まっている。
 それをきっちりと確認してから、リツセは視線を上げる。
 いつも自分が仕事をしている、かつては父が使っていた机の上。
 どういう仕業か、硯には墨が満ち、その傍らでは水守が当然のように鎮座している。
 水守は白い。
 しかし、今回ばかりは少々様子が違った。
 前脚だけが黒いのである。
 犬や猫で、脚の先だけが白いことを白足袋というが、こちらはさしずめ黒足袋である。
 どう見ても、墨に前脚を突っ込んで、ペタペタと白い紙の上を歩き回ったのだな、という状態であ
る水守は、しかし悪びれる様子は一切ない。リツセと一緒に成長した水守は、他の水守よりも少々堂
々としすぎているところがある。
 リツセも、困った事に紙の上だけで事が終わっているので、あまり怒りにくい。
「たま。」
 精々、紙が数枚駄目になった程度で終わっているので、リツセは怒るよりもまず、水守に言いつけ
た。
「その黒い手を洗ってきなさい。」
 円らな眼でリツセを見上げていた水守は、きぃ、と鳴いて返事をした。
 身を翻した水守を横目に、リツセはさてこの紙をどう処分するかと頭を悩ませた。



 その日、リショウは漁師向けの民宿で食事をしていた。
 リツセの知り合いであるウオミという娘が切り盛りしている店は、この日も繁盛していた。
漁師の熱気と、潮の匂いが籠る店で、リショウは何故か自分についてきた三匹の水守と一緒に食事を
している。
 原庵のところで厄介になっているリショウは、稀にこうして外で食事を取る事がある。
 もちろん、原庵はリショウ達のような雇人の食事の世話はしてくれる。だが、リショウは瀬津の郷
について理解を深めるという名目の元、こうしてあちこち出歩いている。その事は原庵もにこにこと
了承してくれたし、リショウの従者であるグエンも厳しい表情をしつつも必要な事と頷いてくれた。
ただ、想定していなかったのは、原庵のところに住み着く、子猫ほどの大きさの水守達が、後をつい
てくることだろうか。
 三匹の水守は、リショウのいる卓の上に乗り上げ、もしゃもしゃと魚を食べている。
 一匹の魚を仲良く分け合う水守達の姿を見て、リショウはふと目線を上げて、そこに今までになか
った久寿玉を見つける。
 これまでウオミの店にある久寿玉といえば店先の赤い久寿玉と、天井の明かり入れになっている久
寿玉だけだったのだが。天井の中央からぶら下がっている、白い何の変哲もない久寿玉は、今日初め
て見るものである。
「おい。」
 リショウはリツセを通じて顔馴染みになっているウオミに声をかけた。
「あんな久寿玉、今まであったか?」
 リショウの問いかけに、ウオミはリショウが見ている方向を見て、ああ、と声を上げた。
「あれ、リツセが持ってきたんだよ。客には売れないから、飾りとして置いといてくれって。」
「飾り?」
「ヒルコ大神に奉納してないのさ。」
 良く見てごらん、とウオミは言った。
「手形がついてるだろう。」
 確かに、白い地の上に黒い手形のようなものがペタペタとついている。しかし、
「四本しか指がないぞ。」
「良く気が付いたね。あれは、ヒルコ様の手形だから。」
 思わず、は?と聞き返してしまった。
 ヒルコの事は、瀬津の郷で暮らすようになってから何度も聞いているが、その手形ってなんだ。
「久寿玉を神社に奉納している間に、時々、ああいう四本指の手形が付く事がある。それをヒルコ様
の手形って呼んでるのさ。ヒルコ様の手形が付けられた久寿玉は、そりゃあ縁起が良いっていうんで、
喜ばれる。」
「そりゃあ、まあ。」
 そうだろうが。
 リショウは、四本の指を見て、しかしその後に水守達の前脚を見る。
「でも、どう考えても、あいつらの足跡だろうが。」
 水守の前脚は四本指だ。なお、後足は五本指だ。
 そう呟くと、ウオミは苦笑した。
「ああ、みんなそうだろうって思ってるさ。閉ざされた本殿に久寿玉は奉納されるけど、水守なら鼠
みたいに天井裏を伝って、そこに忍び込むくらいのことはできるだろうって。」
 けれども、瀬津の郷ではそういう事もヒルコ大神に繋がるのだ。
 今もどこかで、水守に紛れてヒルコ大神が人々の中で生活しているのではないか、と。
「でも、あの久寿玉が売りに出せないってのは?」
 リツセが持ってきたという久寿玉を見上げて、リショウは問う。
「そりゃあ、奉納してないから。何せ奉納する前に手形をつけられちまったんだ。またわざわざ奉納
するのもおかしな話だ。 かといって奉納してない久寿玉を売るのも妙じゃないか。だから、あれは
久寿玉じゃなくて、ただの飾りなのさ。」
 あとは、誰が手形を付けたのか、はっきりしすぎているからか。
 奉納されている間に付けられたのなら、ヒルコ大神かもしれないと思えるが、しかしリツセは誰が
手形を付けたのか、はっきりと知っているのだ。だから、縁起物として売る事はできない。
「………たまか。」
 リショウも、あの久寿玉の手形の主が何者なのか、はっきりと悟って溜め息を吐いた。
 そんなリショウに、食事を終えた水守の一匹が近づき、汁で濡れた手をぺったりとリショウの袖に
つけた。
 その跡は、くっきりと残り、まるで紅葉のようだった。