「その時の水守が、たまだ。」
「おい、途中から、あんたとそのトカゲの馴れ初め話になってたぞ。」
 両脇を抱えて、ぷらーんと水守を目の前にぶら下げるリツセに、リショウは後半ほとんどが水守の
武勇伝であったことを指摘する。とりあえず分かったのは、たまに鼻を噛まれなくて良かった、とい
うことである。
 リツセにぶら下げられた水守は、ふんと鼻を鳴らして、やはりふてぶてしい顔でリショウを見てい
る。嘘か真かはともかく、偉大なるヒルコ大神から賜ったとかいう肩書を持つトカゲは、その無駄に
立派な肩書の所為でここまで小憎らしい性格になったのか。
「というか、それはそんなに長生きなのか。」
 リツセが赤ん坊の頃からの付き合いだというのなら、たまは少なくともリツセと同い年以上という
ことになる。なんだか地味に衝撃的な事実だ。それに輪をかけるようにリツセが続ける。
「水守は長生きだ。中には百年近く生きるものもいる。」
 そういった、犬猫とはどこか飛びぬけて異なる部分が、ヒルコ大神の化身であると言われるに至っ
た理由かもしれない。宮家でさえ手を出す事を憚るのは、水守のその奇妙な生き方が、今一つ人間に
は理解できぬところがあるからだろう。だから水守は神の化身であり、不遜な事をすれば祟るのだ。
そして、ヒルコ大神の祟りは、偉大であるが故に恐ろしい。
 神の意にそぐわぬ行いをした者は、容赦なく祟られるのだ。
 塩屋の若内儀のように。
「だが、それにしたって少し厳し過ぎないか。」
 骸骨と化した赤ん坊の姿を思い出し、リショウは顔を顰めた。
 あの若内儀は、赤ん坊が変わり果てた姿となっていることに気が付かなかった。つまりは、ヒルコ
は若内儀から赤ん坊を取り去るだけではなく、真を見る眼さえも奪い去ったのだ。あの赤ん坊を抱え
て家に帰った時、若内儀の身には何が起こるか。
 決して、楽しい状況にはならないだろう。
 これは己の赤ん坊だと言って骸骨を抱く若内儀を、周りの人間はなんと思うか。狂人と思い、離縁
するのではないか。離縁で済めばまだ良い。若内儀の口から飛び出る言葉が御店を傷つけると判断し
た者達が、若内儀を何処かに閉じ込めてしまいはしないか。或いは、最悪、殺してしまいはしないか。
 リショウは、思って眉を顰めた。その顔をリツセはちらりと見る。
「あの若内儀は瀬津の人じゃなかったから、確かにヒルコ大神の祟りの事は知らない。そう考えると、
有無を言わせずに祟る事は、何も知らない人から見れば理不尽だろう。けれども、神とはそういうも
のだ。」
 神というのは、圧倒的に傍若無人なものだ。その手は無言で差し伸べられ、そして無言で奪い去っ
ていく。神はほとんど己については語らない。故に人は神を恐れ、敬い、その祟りの在処を踏まぬよ
うに手探りで歩くのだ。
「ただ、少しばかり言うならば、ヒルコ大神の意に沿わないこと――今回の祟りの原因である子供を
捨てるということ自体が、普通の人から考えてもまず有り得ない。」
 子を捨てる事は過去を振り返れば、決してなかったわけではない。食うに困った親が子を捨てる事
は、飢饉の時などは嫌でも多くなる。
 だが、今は飢饉など起きてはいないし、そもそも塩屋の若内儀は飢饉の時であっても飢え苦しむな
んて事はまずないだろう。塩屋というのはそれほどに裕福なのだ。子供を捨てる理由など、何処にも
ない。
 ただ、彼女はその裕福な家では肩身の狭い思いをしており、子育ても自分の満足のいくように進め
ることが出来ずにいた。
 だから、惑う辻に入り込んだ。
 あの世とこの世の境。
 夢と現。
 追い詰められた人に、しかしそれでも人の芯を信じて、その閃く様を見て喜ぶ神は囁いた。信じて
いるが故の試練。あまりにも簡単であると、それは神だけではなく、ほとんどの人々が思うだろう。
 だからむしろ、神の意に沿わぬ結果となったのは、失敗ではなく裏切りであったのだ。
 裏切りにあった神が何をするか、それはリショウも良く知っている。
「で、俺にその話を詳しく聞かせた理由は?」
「あの赤ん坊は何か、と聞いたのは貴方のほうだ。」
「だったら、ヒルコに祟られた末路だと言えばいいだけだ。長々とそのトカゲとの馴れ初めまで持ち
出して話した理由は何だ?」
 リショウの手の中からたまがずり落ちて、たまはそのままリツセの膝の上に移動する。そして、リ
ツセと同じようにリショウを見上げる。
「まさか、俺がヒルコの祟りにあうとでも?」
 問いかければ、あいそうよね、という憎まれ口がチョウノのほうから聞こえてきた。リツセは首を
傾げている。
「いや、ただ、そういう事がこの郷では良くある、と言いたかっただけだ。」
 瀬津の郷は、ヒルコ大神が坐している所為か、あちらとこちらの境目が薄い。だから、惑う辻のよ
うなものが現れるのだ。祟りにあわずとも、そういうものに行き合うことがある。特に、迷いがある
者は特に。
 リショウは鼻で笑った。
「俺が、そんな迷っているように見えるのか?」
「いや、全然。」
 リツセはすっぱりと言い切った。
「むしろ貴方ではなく。」
 そしれそれ以上の切れ味で、リショウを切り捨てた。
「貴方の、従者である人のほうが。」





 リショウはリツセから受け取った久寿玉を手に、原庵が開いている診療所の門をくぐった。リショ
ウと同じく大陸からやって来たという原庵は、瀬津の郷でも有名な医者だ。診療代を払えない貧乏人
も、進んで診てやってるので、いつもごった返している。
 だが、リショウが帰ってきたその時間は、珍しいことに患者の姿はなく、がらんとしていた。診療
所の門のところも綺麗に掃き清められて、誰かが来たという形成もない。代わりに、ころころと白い
三匹の水守がじゃれ合っている。
「リショウ。」
 三匹の水守の向こう側で、つい今しがたまで掃き掃除をしていた出で立ちの男が、厳しい顔をして
リショウを見ていた。
 リショウの従者にしてお目付け役であるグエンである。リショウの故郷から共にやって来た、五つ
の氏族から出された一人である。そして、五つの氏族の中で、最も立場の高い存在でもあった。
 彼の氏族は、代々刑罰を司る立場にある。故に一族のほとんどが、見ているだけで堅苦しくなるよ
うな厳格な性格をしているのだ。
 厳格なグエンが、久寿玉を取に行くだけでこんなにも時間がかかった事を、咎めないはずがない。
今にも、遅い、と言い出しかねないグエンに、リショウは内心溜め息を吐いて先に口を開く。
「リツセに茶を誘われたんだ。リツセのとこにいる水守に飛び掛かられたから、そのお詫びとして、
是非にと言われたからな。」
 リツセは別に是非にとは言っていないが、多少の誇張は許されるだろう。そしてその誇張のおかげ
か、グエンが言いだそうとしていた説教を微かに飲み込んだのが見えた。グエンが黙り込んだのを見
て、リショウは、いや違うな、と思う。リショウが誇張したからグエンは黙ったのではない。
「茶を誘われたのは、分かった。だが、遅くなるならば誰かにその旨、言伝を頼むべきだ。」
 飲み込まれた説教が、微かに形を変えて吐き出される。
「リショウ、お前は後々、一族の長となる存在だ。己の居場所が分からぬという事態が、下々にどれ
だけ影響を与えるか、考えなくてはならない。」
「此処には下々なんてものはいない。俺には部下なんてものはいない。」
「残りの氏族もそのうち見つかるだろう。彼らがおらずとも私がいる以上、お前は私の長であり、私
はお前の部下だ。」
 きりりと言い放たれた、刃の切っ先のように真っ直ぐな言葉に、リショウは小さく溜め息を吐く。
一見すれば、この男の言葉には何処にも迷いがない。だが、リショウは知っている。
「嫌なら帰って良いんだぞ。別に俺は氏族を率いるとかどうでもいい。李翔の名前も、別に継がなく
たって良かったんだ。」
 するとグエンの切れ長の眼差しが、ますます鋭くなった。
「何を言っている。お前に付き従うことは私の使命だ。それに、私はお前の家族からお前のことを頼
まれている。」
 そうじゃないだろう、とリショウは思う。家族に頼まれた、というのは正しいが、だが正確には、
リショウの姉に頼まれたから、だ。リショウの一番上の姉。そして彼女はリツセに似ている。
 そうとも。口にはしないがリショウは分かっている。グエンが付き従いたかった『李翔』は己では
ない。
グエンは顔には出さないが、リショウが気づかぬとでも思っているのか。グエンは、リショウへの忠
義と、己の心底の欲望の間で揺れている。心底の希望のほうは押さえつけているつもりかもしれない
が。リショウの姉もまた『李翔』となったなら、グエンはきっとそちらに付き従う。そして、その時
はもう、決して訪れないのだ。
 惑う辻に迷い込むのは、リショウではない。
 リツセの見立ては正しい。
 もしも惑う辻に迷い込む者がいるとすれば、それはリショウではなく、グエンだ。
 そしてもしも、グエンが惑う辻に迷い込んだ時、リショウは長として、彼を引き止めなくてはなら
ない。リツセはそこまで予見していたのだろうか。だから、忠告として、マガツジの話をしてみせた
のだろうか。
 分からない。
 ただ、分かるのはもしもそうなった時、頼れるのは、遠い血で繋がれた、リツセだけだろうという
ことだけだった。