子猫ほどの大きさの水守は、勝手にエンヤの服をよじ登ると、さもそこが以前から自分の居場所で
あったかのように当然の顔をして、エンヤに抱かれているリツセの胸のあたりに納まった。
 白いトカゲめいたものに乗っかられたリツセはといえば、先程までぐずっていたのが嘘のように、
眼をぱちぱちとさせて、突然目の前に現れた水守を眺めていた。水守も、リツセの胸の上からリツセ
の顔を眺めている。
 この水守を弾き飛ばしてしまっても良かったのだが、それよりもエンヤは兎に角その場を立ち去ろ
うと歩みを早めた。確かに自分は元の瀬津の郷に戻ってきたのだが、しかし再びあちら側に引きずり
込まれるとも分からない。そんな恐れが、あのぽってりとした巨大な水守を蹴飛ばした時は思わなか
った恐怖が、じわりじわりと背筋を這い上がってきたのだ。
 小さいとはいえ水守をリツセにへばり付かせておくことは、それはそれで恐ろしいものもあったが、
あの場にいた水守が、案外簡単に殴り飛ばせたことを考えれば、恐れるには足らないのかもしれない。
いざとなれば、本当に弾き飛ばしてしまえばいい。
 なので、水守はそのままに、エンヤはリツセを抱えてリヒロのいる家に帰ってきたのだった。
 家に帰ると、それはそれは見事な刺繍の入った袴を履いた男達がいた。宮家からやって来たのだ。
 途端、エンヤは、今帰ってくるべきではなかったと思った。宮家の男達の顔には、柔和ながらも確
かに蔑むような色が浮かんでは消えたからだ。巫女でもない、ひたすらに地面に這いつくばっている
庶民如きが、と思っているのかもしれない。
 男達の背後に、いつも以上に仏頂面をしたリヒロがいた。何を言われたのかは知らないが、愉快な
ことではないことだけは確かなようだ。
 ねっとりとした笑みを浮かべた男達は、エンヤに首だけを動かす会釈をすると、エンヤの腕の中に
いるリツセに眼を止めた。いや、最初からリツセが目的か。
「これはこれは、リツセ様。大きくなりましたな。」
 エンヤを丸ごと無視して、ぬっと手を伸ばしてくる。そして、おや、と一瞬だけ手を止めた。男が
手を伸ばそうとしたリツセには、ちょこんと水守が鎮座している。そのことに気づいたのだ。
「おお、その御歳で水守に懐かれましたか。さすが、宮様の血を継いでいら………。」
 男は、最後まで台詞を言うことが出来なかった。男の声は、ぐぎゃっという可愛げのない悲鳴で掻
き消されたのだ。悲鳴を上げたのは、男自身である。
 凝然とする皆の前で、ばたばたと激しく手を振り回す男。その手の先には、何やら白いものがいる。
 水守である。
 リツセの胸に鎮座していた水守が、男の手がリツセに触れる瞬間に、噛みついたのだ。
 さて、水守はトカゲめいた輪郭を持っているが、トカゲ以上にぽってりとしている。手足も幾分か
短い。腹が少し浮く程度の長さしかない。動きは猫のように柔軟で機敏だが、実はトカゲよりもイモ
リに近いので、その手足に爪はない。彼らは高い知性を持っているので事前に危機回避することが可
能だが、その身体は戦う事には向いていない。
 と、思われがちである。
 だが、彼らはトカゲよりもイモリに、イモリよりもオオサンショウウオに似ている。特に、顎の強
さと、牙が。オオサンショウウオが人間の腕を引き千切るほどの牙と、決して獲物を逃がさぬ頑強な
顎を持っているように、水守もまた、食いつけば離さぬだけの力を有している。かのヒルコ大神も、
真珠のように滑らかな見事な牙をお持ちであったと言われている。その牙を以てして、娘を丸呑みに
した鮫の腹を食い千切り、腹の中から娘を助け出したのだ、と。
 そんなものに噛みつかれたら、堪ったものではない。
 悲鳴を上げ続けて、水守を振り払おうと手を振り回す男に、水守が不意にぱっと口を離し、地面に
着地する。その動き、まるで猫。そしてじり、と間合いを取って、再び男に飛び掛かる。腹で飛び掛
かったのではない。ぱっくりと口を開けて。素晴らしい歯並びが向かった先は、男の顔面、ど真ん中。
 かぷ、と言うにはあまりにも水守の牙は残酷に尖っているが、傍目から見れば、正にかぷ、と男の
鼻に噛みついた。
 これは痛い。
 両隣五軒には、確実に聞こえたであろう悲鳴を、男が上げた。男が悲鳴を上げる事など百も承知で
あったのか、水守は間近でそんな声聞きたくもなかったのか、さっさと飛び退っている。その口に肉
の塊はなかったので、噛み千切りはしなかったらしい。
 鼻を押さえる男の手は、手から流れ出る血もあって、真っ赤だ。周りの男達も慌てふためいて、も
はや宮家の威厳も何もない。そしてそんな事態を引き起こした本人は、平然として再びリツセの胸の
上に戻っている。得意げに、鼻まで鳴らしている。
 あまりにも不遜な水守の様子に、見事な刺繍の袴を蹴り上げて男達が何が叫ぼうとした時、
「どうやら、ヒルコ大神は御気分を害されているようですな。」
 平坦な声だった。リヒロが、素っ気なく言ったのだ。
「よもや宮家の方々がヒルコ大神の怒りを招くようなことがあってはなりますまい。どうぞ、お引き
取りを。」
 有無を言わせぬ口調であった。
 確かにリヒロは既に市井に降りた身ではあるが、本来ならば男達よりも立場は上だ。そして、男達
に不埒な振る舞いをした水守は、瀬津の郷ではヒルコ大神の化身とされている存在である。男達にど
うこうできるはずがない。
 真っ赤に染まった男を抱えるようにして立ち去っていく彼らを、リヒロは冷ややかに眺めていた。

 その夜。
 エンヤは、その日自分の身に起きた事をリヒロに捲くし立てた。リツセをあやしながら通りを歩い
ていると、誰もいない辻に行き当たった事。その辻から抜け出せなかった事。そして奇妙な男に逢っ
た事。その男が白い水守に転じた事。
 リヒロは無駄口を叩かぬ男だ。エンヤが気が済むまで喋ってから、ようやく口を開いた。
「ヒルコ大神に逢ったのか。」
 静かな声だった。そして声と同じ静かな眼を、ちらりと奥の間に向ける。そこでは、リツセが眠っ
ていた。傍らには先程武勇を見せた水守が、ちょこんと納まっている。
「お前が行き合ったのは、マガツジだ。」
 人間の住む場所と、神や鬼が居る場所の狭間のような場所。人々の往来の激しい、欲望の蟠る辻で、
時折現れる。
「禍々しい辻だとか、魔の辻だとか、皆は言うがね。そうじゃない。」
 あれは、惑う辻だ。
 欲望とは厭うものも多いが、しかしそれ自体は決して悪ではない。むしろその人の指針でもある。
その、無数の指針が集まった辻で、己が欲望に揺らぎを持っている者は、惑うのだ。自分の立ち位置
が本当に此処で良いのか、このままで良いのか、と。そして、あの辻に入り込んでしまう。
 迷い、苦しむ民の姿を見つけて、ヒルコ大神は慌てて追いかけてきたのだろう。そちらは人の行く
場所ではない。
「私も、市井に降りる少し前に、そこに入り込んだことがある。」
 神と人と、宮と民との間で揺れ動いていた時期に、リヒロは惑う辻に迷い込んだのだ。白い壁に囲
まれた一つの往来もない静かな辻だった。リヒロは、いっそずっとそこに居ても良いと思った。
 だが、そして、ヒルコ大神に逢った。
「美しい眼をしていたから、すぐに分かった。」
 三年足腰の立たぬヒルコ大神。あるかどうかも分からぬ短い手足しかなく、不具の神と言われるが、
しかし原初の神であるが故に人を守る為の素晴らしい牙と、人と語らう為の美しい眼差しを持ってい
る。
「にべもなく、帰れ、と言われた。」
 リヒロの前では、ヒルコ大神は噂通り、水守に良く似た、しかし水守にしては素晴らしく長い尾を
持った姿をしていた。その尾をゆらりゆらりと揺れ動かしながら、はよう去ね、と言ったのだ。
 人間の分際で神のような顔をするな、と。
 リヒロは宮の弟だ。宮はリツ姫の子孫であり、そしてリツ姫は天孫の血を引いていると言われてい
る。ならばリヒロもまた、神に近い存在だ。嘘か誠かはおいておくとして。
 だが、原初の神であるヒルコ大神にしてみれば、天孫より遠く来て幾つもの人間と交わったリヒロ
や宮、そして果ては都の帝も、神よりも人間に近いのだろう。
 人間なのだから、精々人間らしくするがいい。
 尻尾を一振りして、ヒルコ大神はぺしっとリヒロを惑う辻から放り出した。
 リヒロが市井に降りると決める、二日前の事だった。 
「お前の場合は、惑う辻から出る際に試練を与えられたようだが。」
 目を丸くしているエンヤに、リツセを連れていたからだろう、とリヒロは事も無げに告げた。子供
を抱えたまま、彷徨っていたから、ヒルコ大神に眼を付けられたのだ、と。
 ヒルコ大神は不具であるが故に親に捨てられた神だ。
 故に、この捨てられた神は子を持つ親に対して、厳しい眼を光らせている。
 福を齎す偉大なるヒルコ大神は、時に親を試すようなことをする。親が危機に瀕している際に、子
供を盾にした試練を与える。子供を捨てたりはしまいな、と。そして、普通の親が子供を抱きかかえ
て逃げ出す様に、安堵するのだ。
 もしもヒルコ大神の意に沿わぬことをしたなら、我が身可愛さに子供を捨てようものなら、ヒルコ
大神はその顔をすぐさま荒魂へと変化させる。偉大なる奇魂が、一度荒神へと変貌すれば、それはか
の八岐大蛇さえも逃げ出す祟り神となる。
 だから、瀬津では、如何なる理由があろうとも子供を捨てる事は重罪だ。親が、例え躾であろうと
も子供に対して、捨てる、などという言葉を吐いてもいけない。子を捨てる親は、ヒルコ大神の手に
よって子供を奪われ、そして二度と子供を得る事が出来ないと言われている。
「お前は、きちんとヒルコ大神に答え、そしてヒルコ大神に受け入れられたようだ。」
 ――我が瀬津の国にて生きる事を、他の何人でもない我が赦す。
 まろい子供のような声を思い出し、エンヤはしかし宮家が赦さぬではないか、と思った。
 すると、リツセの寝ている布団に転がっていた水守がこちらを向いて、きぃ、と鳴く。そして、と
ことこと傍に寄ってきた。エンヤを見上げた後、リヒロが家長であると理解したのか、リヒロの膝元
に歩いていく。
 ちんまりとした水守の姿に、リヒロは苦笑した。
「しかしヒルコ大神も粋な事をされる。水守をお前達に下賜されるとは。」
 そして、珍しく眼に悪戯めいた光を宿して、夫はエンヤを見た。
「お前もあの武勇を見ただろう。お前達のお守りとしては打ってつけだろうよ。」
 気に入らぬものに容赦なく噛みついたあの動き。そしてヒルコ大神の化身であるが故に、流石の宮
家にも手が出せぬという身の上。なるほど、確かに打ってつけのお守りである。
 小さな水守は、リヒロとエンヤを交互に見て、次にリツセを見て、そして任せろと言わんばかりに、
声高くもう一度、きぃ、と鳴いた。