リツセの母親であるエンヤは、瀬津の海を少し渡ったところにある粟の郷の出身である。一月ほど
前から、エンヤは里帰りと称して粟の郷に渡ったっきりで、未だ帰ってこない。
 といってもそうしたことは良くあることで、リツセは心配はしていない。大方、紙すき工房に顔を
出して、紙に乗せる絵柄などについて職人商人を交えて話し込んでいるのだろう。
 粟の郷は、紙の国とまで言われるほど紙すきの技術が発達しているのだ。書き物に使う為の白紙作
りから、飾りの為の千代紙の絵柄載せまで、粟の郷では専門の職人達がいる。
 紙は昔はとにかく貴重品だったのだが、粟の国の職人が、紙を大量生産出来るようにしたことで、
身近なものとなった。
 葦原国の大半の紙はそこで作られているのではないだろうか。少なくとも、瀬津の郷の紙は、ほと
んどが粟の郷から仕入れた物だろう。瀬津と粟の距離が、船で半日ほどという近さもあるだろうし、
それに粟の郷の紙は質が良いのだ。
 紙は基本的に書き物に使われることがほとんどだが、瀬津では縁起物である久寿玉作りにも使われ
る。縁起物には出来る限り質の良い材料を、と考えるのは普通の感覚で、それ故に質の良い粟の紙を、
瀬津の郷の商人達は好んで仕入れるのだ。
 そんなだから、瀬津と粟の関係は、深い。久寿玉師と紙すき商人達の関係も深い。
 リツセの母であるエンヤも、紙すき商人の娘だ。
 だから、市井に降りて久寿玉職人として生きてきたリツセの父と出会ったのだろう。二人の出会い
については、リツセも良く知らないが。
 ただ、リツセの父であるリヒロは、いくら市井に降りたとはいえ、宮様の血を引いている。いや、
血を引いているなんていう生易しいものではない。現在の瀬津の郷の当主の弟だ。一歩間違えれば、
彼が当主となっていてもおかしくない立ち位置だ。
 片やエンヤは、久寿玉師と関係が深いとはいえ、一介の紙すき商人である。紙を作り、売る娘であ
る。瀬津の郷には確かに、その人々は重要だ。しかしだからといって、宮家に入り込めるわけがない。
 だが、既に宮家を離れたリヒロは、あっさりとエンヤを妻にした。
 その時のことは、勿論リツセは知らない。その時、一体誰が何と言ったのかも知らない。反対があ
ったのか賛成があったのか、祝福があったのか怨嗟があったのか、すくなくとも両親は語らなかった。
 ただ、唯一リツセがエンヤから昔話と称して聞いた、自分達を取り巻く仄暗い話が、マガツジに関
するものだった。
 リツセが産まれて間もない頃、リツセを抱えたエンヤが、マガツジに行き当たったという話である。
その日も、春先の、心持ち温かい時分であった。
 もともと、リツセはそんなにぐずったりするような赤ん坊ではなかった。普通の赤ん坊と同じよう
に、おっぱいを飲みたがったり、おしめが気持ち悪かったりするときは泣いたが、それが終わればけ
ろりと泣き止んで寝てしまうような、どちらかと言えば手のかからない赤ん坊だった。しかし、この
日リツセは珍しく朝からぐずって、なかなか寝ようとしない。エンヤがどれだけあやしても、顔を歪
めてか細い泣き声を上げるのだ。
 リヒロは赤ん坊がぐずる事を厭うような人ではなかった。リツセの泣き声で仕事に滞りが出るよう
な半端な仕事をする人ではなかったし、よほどリツセが泣いていれば――そんな事はさっきも述べた
ように滅多になかったのだが――エンヤと共にあやすような人だった。
 とはいえ、エンヤのほうはリヒロの仕事の邪魔になってはならぬと思い、買い物があるからと理由
をつけて、リヒロが仕事をしている家から出たのだ。
 エンヤは、ぐずっているリツセを抱えて職人街から表通りまで散歩をしていた。散歩をしているう
ちに、リツセが眠ってしまうだろうと考えて、日差しが少しばかり傾いている時間に、散歩に出かけ
たのだ。
 それに、実をいえばエンヤにはあまり家に籠りたくない理由があった。そしてそれが、リツセがぐ
ずる理由でもあることに、薄々気が付いていた。
 家にはリヒロがいる。
 リヒロこそが、原因だ。
 いや、エンヤはリヒロになんら不満はない。正確にいうなれば、リヒロの中に流れている血が、じ
わりじわりと影のようにエンヤを侵食している。リヒロの血が、リヒロ自身も望んでいないものを惹
きつけているのだ。
 昨夜、宮家の者が、リヒロとエンヤの家を訪れた。
 リツセが産まれてから、宮家の者はよくやって来るようになった。リヒロが市井に降りたばかりの
頃も、ちょくちょくやって来ては、リヒロに宮に戻るようにしつこく言い寄ってきたらしい。だが、
それもエンヤと一緒になった頃には遠ざかっていた。
 では、何故リツセが産まれた今、再び宮家の者が、あしげくやって来るようになったのか。宮家の
者は、リツセをどうにかして宮に引き込もうとしているのではないか。母親であるエンヤは、どう足
掻いても紙すき商人の娘であって、それ以上でもそれ以下でもないが、リヒロは宮の継承者の中に含
まれている人物である。その血を引いている以上、リツセも宮の継承権を持つことになる。そこに眼
を付けた、浅はかな野心家どもが、リツセを自分達のもとに引き込もうと考えてもおかしくない。
 宮家の者は、これまでは大体がリヒロが追い払って、事なきに終わっていた。だが、もしもこの先、
何らかの理由をつけて、エンヤがリツセの母親として不適格であると宮家が言い始めたら、その時彼
らは大手を振ってリツセを取り上げるのではないか。
 それは、エンヤにとっては決して楽しい想像ではなかった。
 宮家は瀬津の郷では絶対的な存在だ。その事は、エンヤも良く知っている。だから、宮家が本気で
リツセを取り上げようとした時、果たして誰がエンヤの味方になってくれるだろうか。
 リヒロの周りにいる職人達は、確かにリヒロを慕っているが、宮家がエンヤはリヒロには相応しく
ない、リツセの母親として相応しくないと耳打ちしたら、宮家の言葉を鵜呑みにしてしまうのではな
いか。
 リヒロは、もちろんエンヤを守ってはくれるだろうが、元々瀬津の郷の者ではないとはいえ、エン
ヤとて宮家の力を知らぬほど愚かではない。リヒロ一人の手で、押し込める事が出来るだろうか。
 もしも、リヒロやリツセと引き離されてしまったら。エンヤにはもう行く場所がない。瀬津の郷に
は勿論いる事は出来ないだろうし、粟の郷はどうだろう。戻ってきた温かく迎え入れてくれるかもし
れないが、しかし内心は穏やかではないだろう。瀬津と粟の繋がりは深い。
 互いの郷の事に口出しせぬという事になっていても、それでも宮家に一旦関わってしまった女につ
いて、瀬津が黙って見過ごしてくれるだろうか、ひっそりと粟に対して含む話をせぬだろうか。
 春めいた陽気だというのに、エンヤの腹の底は、霜でも飲み込んだかのように冷えている。おまけ
にリツセはまだ泣き止まない。
 途方に暮れたような、行く宛も定まらない足取りで、おざなりにリツセをあやしながらも上の空だ
ったエンヤは、だから自分の周りがいつの間にか静寂で満たされている事に気が付かなかった。
 リツセのぐずる声だけが聞こえると気が付いたのは、果たしていつだったか。気が付いた時には、
いつの間にやら白塗りの壁に囲まれた辻に出ていた。一見すると武家屋敷の並ぶ辻にも思えたが、瀬
津の郷にこんな辻はあっただろうか。
 首を傾げながらも、エンヤはリツセをあやしつつ、辻を渡りきり、松の見える白塗りの壁を曲がり、
同じように壁に両側を覆われた道を歩く。そしてまた、辻に出た。
 四方を白い壁に囲まれた、辻である。
 それを見た時、エンヤはようやく今此処にいることが異常であると気が付いた。この辻は、さっき
いた辻と同じだ。
 武家屋敷の並ぶ区は、同じような通りが続く事が多い。だが、だからと言って、白塗りの壁の向こ
う側にある松の木の形まで同じであることがあるだろうか。いや、そもそも、誰一人として通らぬ辻
など、あるだろうか。
 春の、祭りで忙しいこの時期に、如何に武家屋敷とはいえ人っ子一人いないなど。
 思わず立ち止まった。
 風もないのに、白い壁の向こうにある松の木の鋭い葉が、ざわりと揺れた。しかし、葉擦れの音は
ない。代わりに、リツセが声を上げて泣き出した。それ以外に、一つとして音はない。
 まるで、エンヤの周り以外には、時間が流れていないかのようだ。だが、何かの存在を知らせるよ
うに、松の木が揺れている。だが、一体何がいると言うのか。
 誰もいないこの状況を考えれば、誰かがいるというのは心強いことのように思えたが、それ以上に、
こんな場所にいる存在は、どう足掻いても自分達とは相容れぬ存在であると、本能が叫んでいた。
 見れば、松の木だけではなく、その他の木々も揺れ動いている。物音一つ立てずに。辻の四方から、
近づくようにして木々が揺れ動き始めている。
 逃げなくては。近づくあれは、明らかに異形だ。だが、何処へ逃げれば良いのか。音のない足音は、
辻の四方から迫っている。
 リツセを抱きしめてエンヤは立ち尽くした。しかし立ち尽くしていても何にもならない。何とかし
て駆け抜けようと身構えたその時。
「その子供を置いていけば、此処から出してやろう。」
 目の前が、美しい煌めきでいっぱいになった。その煌めきに見とれたのは、けれども一瞬の事で、
突然目の前に現れた人影に、エンヤは息を呑んで喉をひくつかせた。
 先程まで、確かにそこには誰もいなかった。揺れる木々ばかりで、音も何もなかった。だが、今、
目の前に一人の影が立っている。
 エンヤは、瞬く間に警戒した。
 むろん、突然目の前に、今までいもしなかった影が現れたのだから、警戒もしよう。だが、一方で
もう少し怯えても良いものだが、恐怖よりも警戒が勝ったのは、その姿にあった。
 白い袷を着て、真っ黒な烏帽子も被った姿。袴の色は紫で、それは見事な金の刺繍がしてある。エ
ンヤがいつだったか遠めに見た、宮家の男性が神事の時に身に着けているものに似ていた。
 だから、エンヤは怯えるよりも警戒したのだ。これはもしや、自分を陥れようと考えている宮家が
仕組んだことではないか。こうやってわけのわからない状況に追い込んで、エンヤが自らリツセを手
放すように差し向けたのではないか。
 そう考えると、警戒が消え、今度はふつふつと怒りが込み上げてきた。
「そんなこと、するかッ!」
 なので、エンヤは、叫ぶと同時に目の前の人影を一撃、ひっぱたいた。まさかそう来るとは思って
いなかったのか、何の防御もないまま人影はもんどりうって倒れる。あまりの呆気なさにエンヤは呆
然としたが、それ以上に怒りが濃い。倒れた人影を更に蹴飛ばす。
「あたしがこんな事でこの子を手放すと思ってんのか!あたしも甘く見られたもんだね、ふざけんじ
 ゃないッ!」
 凄まじい剣幕である。いっそ、この剣幕の所為でリヒロやリツセの引き離される可能性のほうが高
いのだが、エンヤはそんな事これっぽっちも気づかない。肩で息をしながら、仰向けに倒れた人影を
仁王立ちで見下ろす。
 蹴り飛ばされたほうはと言えば、地面に転がったまま、美しい眼をぱちぱちと瞬かせていた。が、
やがて口元をにんまりと綻ばせた。んふ、んふ、と笑い声まで零し始める。気持ち悪い。
「良きかな、良きかな。」
 何事か頷くや、途端、見る間に倒れていた人影はぬるんと、姿を真っ白な人の大きさほどもあるト
カゲめいた形に変化させた。眼だけが、それはそれは美しく煌めいている。仰向けになっていたトカ
ゲ――いや、これは水守だ、しかも巨大な――は、くるんとうつ伏せになると、くいっと前脚を伸ば
して状態を持ち上げ、麗しい眼でエンヤを見上げる。
「我が妹が沈みし海の向こう、粟の国より来た娘よ。汝が意志確かに受け取った。我が汝らを確かに
 認めよう。我が瀬津の国にて生きる事を、他の何人でもない我が赦す。」
 柔らかい、子供のような声だった。
 白いひれのある、素晴らしく長い尻尾が、大きく一振りされた。この尻尾の長さと煌めく瞳が、眼
の前の存在が水守とは違うことを示している。
 途端に、巨大な水守の姿が縮んでいく。いや、縮んでいるのではない。遠ざかっているのだ。水守
だけではなく、白塗りの辻も悉くが遠ざかっていく。
 それらが点となって、見えなくなる間際、先程の子供のようなまろい声が囁いた。
 リヒロに宜しくな。
 ぱっと視界が晴れた。エンヤは、つい先程立っていた、職人街から大通りへと通じる辻に立ってい
た。目の前では、忙しそうに職人達が作った細工を商店や問屋に運び入れる荷車が往来し、その合間
合間を埋めるように、娘さん達がお遣いを頼まれたのか、てくてくと歩いている。
 客を呼び込む商人の声や、水を撒く丁稚と番頭の掛け合い、娘達のお喋りが、耳一杯に広がった。
 いつもの、瀬津の郷の風景である。
 ぽかんとして立ち尽くすエンヤの足元に、ぽん、と何かがぶつかった。慌てて見下ろすと、そこに
は子猫ほどの大きさの白くて丸いものがいた。円らな眼をくりくりさせてエンヤを見上げているのは、
一匹の水守だった。
 きぃ、と水守が鳴いた。